第17話
野球部のハードな練習を終え、俺は泥のように重い体を引きずりながら帰路へついた。
家の駐車場に見慣れないファミリーカー。
(……お客さんか?)
ガラリと、引き戸を開け、リビングへと向かうと──ありえないシルエットが鎮座していた。案の定、ソファに座っていたのは赤ん坊を抱いた姉ちゃんだった。
「あ、壮真、お帰り!」
「ね、姉ちゃん、何しに来たんだ?」
「あら、実家に帰るのに理由が必要なの?ほら、聖愛、壮真叔父さんですよ」
胸に抱いている聖愛に、聖母のような顔をして姉ちゃんが話しかけている。
聖愛と会うのは生まれた時以来だ。生まれた時も可愛かったが、顔の輪郭がしっかりしてきてより愛くるしさが増している。
姉の名の『聖』から漢字を取って聖愛にしたらしい。
「お義姉様、ルイボスティーです。聖愛ちゃんは相変わらず可愛いですね」
恋歌がルイボスティーをカップに丁寧に注いでいる。
「ありがとう。恋歌ちゃん。ふふ」
「で、何しに来たの?」
「……実は家出してきた」
姉ちゃんが俯きながら、ボソッと呟いた。
「は?」
「泰隆のやつ人が子育てで忙しいなかガールズバーで酒呑んで朝帰りよ。許せないでしょ!」
目のハイライトが完全に消えた瞳で姉ちゃんが俺を見つめてくる。
「お義姉さんのような美人で優しい奥さんがいるのに、そんな不埒なお店に行くなんて、私許せません!」
恋歌の瞳からもハイライトが消えていく。
「ありがとう。恋歌ちゃん。ぐすっ」
姉ちゃんが名演技で嘘泣きをしている。
「私はお義姉様の味方ですから!」
恋歌が姉ちゃんの手を両手で握りしめ、優しく微笑んでいる。
(なんだこの茶番劇は、俺は一体、何を見せられてるんだ)
「別にガールズバーくらい行っても良くね?」
俺の心の声がおもわず漏れてしまった。
「「はあ!!!」」
姉ちゃんと恋歌が人を殺しそうな目で俺を睨み付けてきた。
「……ご、ごめんなさい。良くないですよね。ガールズバーとか行くのは」
俺はただ謝るしかなかった。恐怖のあまり心臓がバクバク鳴っている。今にも殺られそうな殺気。
(泰隆義兄ちゃんは無事なんだろうか……?)
◇◇◇
姉ちゃんが風呂に入っているので、俺が聖愛をソファで抱いていた。
ミルクの匂いと、温かな重みが、日々の恋歌からの重い愛情と戦っている俺を癒してくれる。
聖愛は人形のような小さな掌で俺の小指を包み込むと、キャッキャッと笑っていた。
(なにこの可愛い生き物は)
「可愛いですよね」
晩御飯の支度を終えた恋歌が、エプロンを外し、俺の隣に腰掛けた。
「うん、少し姉ちゃんに似てる気がするのが気になるけど……」
「お義姉様に似るのは良いことだと思いますけど。お義姉様は美人ですし」
「まあ、そうなんだけど」
(顔が似るのはいいけど、性格の方は似ないでほしいな)
「壮真さん!私たちもそろそろ赤ちゃん作ってもいい頃なのではないですかね!」
恋歌が濁りのない真剣な瞳で、真っ直ぐ俺を見つめてくる。
「ま、まだ俺たちに赤ちゃんは早いよ」
「それは私との子供がほしくないということですか?」
恋歌の瞳からすうっと光が消え始める。
「そ、そういうわけじゃないよ!まだ高校生だし、そういうのはもっと大人になってからで」
「やはり私との赤ちゃんは嫌なのですね……私と別れて他の人に乗り換える気なのですね……飽きた私なんてボロ雑巾のようにポイッて捨てられるのですね……酷いです。壮真さん……ブツブツ」
恋歌の独り言が呪詛のように鼓膜を叩き始めた。
(マズいぞ、恋歌の思考がネガティブの深淵(闇ルート)に突入した!)
その時──俺に救世主が降臨した。
「キャハハッ!」
俺の腕の中の聖愛が、小さな手をめいっぱい伸ばし、恋歌の服を掴もうと暴れだしたのだ。
「私の方に来たいのですかね?聖愛ちゃんは」
恋歌の瞳に光が戻り始めた。
「そ、そうなんじゃないかな」
俺は落とさないように慎重に聖愛を恋歌に手渡した。
恋歌に抱かれると、聖愛は恋歌の豊かな胸をまさぐりだした。
「うふふ、くすぐったいです。私はまだおっぱいは出ませんよ」
恋歌が頬をうっすら桜色に染めている。
恋歌に天使のような微笑みが戻り、俺は安堵した。
(グッジョブ、聖愛、今度、叔父さんが何か買ってやろう)
◇◇◇
晩御飯を終え、リビングで少し寛いだ後、俺は最近は物置と化していた部屋を片付け、布団を敷いた。
聖愛が怪我しないよう、危険な物は別の場所へ移動させる。
リビングに戻ると聖愛は姉ちゃんの腕の中で寝てしまっていた。
「姉ちゃん、布団敷けたよ」
「ありがとう。壮真」
「聖愛の布団あれで大丈夫かな?」
「ダメだったら私が直しとくから安心して」
「わかった。おやすみ」
「お義姉様、おやすみなさい」
恋歌が姉ちゃんに軽く会釈する。
「二人ともおやすみ」
俺と恋歌も寝室に向かおうと思っていたその時。
「あ、壮真。ちょっと来なさい」
姉ちゃんがリビングを出ると手招きをしてきた。
「何だ?」
俺は恋歌をリビングに残し、廊下へと向かった。
「夜は恋歌ちゃんとあまり激しくしないでね。聖愛が起きちゃうかもしれないから。あはは」
姉ちゃんは耳元でそう囁くと、悪戯っぽい笑みを浮かべ去っていった。
(実の姉に言われると恥ずかしいんだけど)
俺も寝ようかと、恋歌と二人寝室のドアの前に着いた瞬間。『ピコンッ』っとLIMEの通知が鳴った。
スマホの画面には泰隆義兄ちゃんからの『今、電話できるか?』のメッセージが表示されていた。
「壮真さん、もしかしてお義姉様の旦那さんですか?」
恋歌が俺のスマホ画面を覗き込んできた。
「ああ、電話したいみたい」
「電話するときはハンズフリーでお願いします」
恋歌の瞳から、一切の光が消えていた。
「え、なんで?」
「なんででもです」
恋歌は微笑んでいるが目が完全に笑っていない。瞳の奥にある黒い沼に、このまま引きずり込まれてしまいそうだ。
「……わかりました」
俺は寝室に入ると、泰隆義兄ちゃんに発信した。
『もしもし、悪いな。壮真』
『別にいいよ。どうしたの?』
『……聖と聖愛がそっちに行ってないか?』
『来てるよ。理由も姉ちゃんから聞いてる』
『そ、そっかあ、聖はまだ怒ってるかな?』
『うん、人を殺しそうな目をしてたよ』
『……そっかあ』
『まあ、姉ちゃんも鬼じゃないから、ちゃんと謝れば許してくれると思うよ』
『……俺、ガールズバーで少し呑んだだけだぜ。浮気したわけじゃないのに』
恋歌はハイライトの消えた瞳で、物凄い殺気をこめてスマホを睨みつけている。殺気でスマホがみしりと音を立てそうなほどだ。
『そ、それ、言わない方がいいよ。姉ちゃんに地獄を見せられることになるから』
(姉ちゃんよりも怖いのが姉ちゃんの味方にいるから)
『わ、わかった。明日の夜、そっち行くよ』
『うん、待ってるから』
『悪いな。壮真』
『気にしないでいいよ。また明日』
『ああ、仕事終わったら急いでそっちに向かうから。じゃあ』
電話を切ると、俺はベッドに座って『ふう』とひとつため息をついた。
「明日、旦那さんが家に来るみたいですね」
俺の隣に恋歌がちょこんと腰掛けた。
(ここは君の家じゃなくて俺の家だけどね)
「そうだね。仲直りしてくれるといいんだけど」
「……私、浮気は許せませんね」
「そ、そう言わないで。許してあげてほしいな」
「壮真さんは浮気男の味方をするのですか?壮真さんも浮気したいのですか?」
恋歌はすうっと両手を伸ばしてくると、俺の頬を触って顔を近づけてきた。
「い、いや、そういうわけではないよ」
「なら、明日はお義姉様の味方をしてくださいね」
「……うん、わかった」
恋歌の微笑みがどこか凍てつく氷のように冷たく、俺は首を縦に振ることしかできなかった。
(ごめん、泰隆義兄ちゃん。明日は味方になれそうもない)
読んでくださりありがとうございました




