第1章第1話
高校への入学を控えたこの春。唯一の肉親だった姉が嫁いで家を出て行った。
両親の顔を知らない。父と母は俺が物心つく前に死んだと聞かされているし、今更しんみりするつもりもない。
じいちゃんとばあちゃんが親代わりで、二人がいなくなった後は姉が俺を支えてくれた。
その姉が幸せを掴んだんだ、弟として、これほど嬉しいことはない。
姉の旦那さんは、腕利きの大工で最高にいい人だ。この古ぼけた平屋を、格安でリフォームしてくれた。
おかげで外見こそ相変わらずのあばら家だが、一歩中に入れば新築同然。まさに劇的なビフォーアフターだ。
じいちゃんたちが遺してくれたこの家は、今日から──俺だけの城だ。誰にも邪魔されない、自由気ままな一人暮らしがスタートする。
一週間後には高校生活も始まる。中学まで野球一筋だったし、高校でも、当然そのつもりだ。……まあ、まずはこの新しい生活に慣れてからでも遅くはないよな。
よし、俺の新しい人生、最高の開幕だ!
のはずだったのだが……
◇◇◇
高校の入学式を終えた俺は、春特有の生ぬるい風を連れて走る電車に、ぼんやりと揺られていた。
一週間前から始まった一人暮らし。まだ少しぎこちないが、身体がようやくこの新しい生活にも馴染んできたところだ。
車内には俺と同じような真新しい学生服に身を包んだ生徒や、それを見守る保護者、そしてそんな日常に目もくれずスマホいじっているサラリーマン。誰もがそれぞれの目的地へと運ばれていく。
──何となく車内を見渡してた、その時。
(……あれっ?痴漢かな?)
ドア付近に立つ中年男性が、ショートボブの小柄な女子生徒の腰を、背後からいやらしく撫でていた。
(あの女子生徒。俺の学校じゃないな)
確実な証拠を掴むため、俺は気付かれないように気配を消しつつ、スマホのカメラを起動して接近する。
そして、中年の男性の手が女子生徒のお尻を触れるその瞬間──その手首を掴んだ。
「──おじさん、手が滑ったのかな?」
俺の冷ややかな声に中年男性は顔をひきつらせて振り返った。
178cmの俺より頭一つ分小さい相手だ、取り押さえるのは、容易だった。
「な、何するんだ!離せッ!」
「それはできないよ」
次の駅のホーム。俺は小刻みに震える女子生徒を連れ、抵抗する中年男性を引きずるようにして降車した。
騒ぎに気付いた駅員さんに、取り乱す男を押し付けるようにして引き渡す。
痴漢の証拠の動画を突きだし、ふう、やれやれ。さあ帰ろうかと背を向けたところで引き止められた。
『お兄さん、少し事情を聴きたいので、交番まで来てもらえますか?』
……結局、交番で三時間半も拘束されることになった。
『はぁ……やっと帰れる』独り言をこぼし、駅の階段に足を向けたその時、後ろから声をかけられた。
「待ってくださいっ!」
「えっ?」
振り返ると、そこには先ほどの女子生徒が立っていた。
「あ、あの!さきほどは、ありがとうございました!」
彼女は、床に額がつくかと思うほど、深々とお辞儀をしてみせた。
(改めてよく見るとめちゃくちゃ可愛いな……この子……泣き腫らしたような赤いアイメイクとかちょっと独特なメイクしてるけど……)
「いいよ。気にしないで。君も大変だったね」
「私、怖くて声も出なくて……ひっく、うぅ」
「ああいう時は仕方ないよ。これ使って。あっ、新品だから」
俺は真新しい白いハンカチをそっと差し出した
「あ、ありがとうございます……ひっく」
「──君みたいな可愛い子は、次からもっと気を付けた方がいいよ」
「えっ、わ、私、可愛いですか……?」
彼女はまるで熟れた林檎のように頬を真っ赤にしている。
俺は『じゃあね』と手を振り、今度こそ駅の階段へと歩きだした。
(……何か今日は疲れたな)
重い足取りで帰路に着く。
風呂から上がり、入学祝いに姉ちゃんと義兄さんから貰った真新しいグローブにオイルを塗り込みながら、先ほどの彼女の顔を思い出す。
(でも、本当に可愛い人だったなぁ。まぁ、もう、会うこともないだろうけど……)
◇◇◇
翌朝。眠い目をこすりながら、駅のホームでぼーっと電車を待っていると、背後から声をかけられた。
「おはようございます、昨日はありがとうございました」
「えっ?」
思わず声が出た。振り返った視線の先にいるのは、間違いなく昨日の痴漢の被害女性だ。なんでいるの?
「あっ、おはよう、って、君も同じ駅だったの?」
「いえ、私は違う駅です」
「なら、何でここに?」
「あなたに会いたくて待ってました。うふふ」
「お、俺がこの駅なのよく知ってたね」
「昨日、あの後、あなたの後ろをこっそりついて行っちゃいました。えへへ」
(さらっと怖いこと言わないでくれる……)
「そ、そうなんだ、駅まで着いてきてたんだ、全然、気付かなかったよ…はは」
「いえ、家までしっかり見届けちゃいました。うふふ」
(……見届けた?尾行の間違いだろ。微笑みながらさらっとホラーなこと言うのは止めてくれ……!)
「あっ、そうだ、これ、ありがとうございました」
彼女は昨日渡した白いハンカチを差し出してきた。
「あっ、別に良かったのに」
「そういうわけにはいきませんよ。あ、私、清怜女子学院高等学校一年生の小鳥遊恋歌と申します」
(おいおい、名乗り始めたよ)
「お、俺は桜翠嵐高等学校の一年生の山口壮真です」
俺の野生のカンが関わってはいけないと全力で警鐘を鳴らしているが、小鳥遊さんの可愛いらしい微笑みに負けて俺は正直に名乗ってしまった。
「私、男の人とあまり話した経験がないので少し緊張してます……、えへへ」
「そうなんだ……」
(俺も君とは少し違う意味で緊張してるよ……)
◇◇◇
電車の接近を告げるアナウンスがホームに響くと、間もなく、キィィィッと鋭い金属音とともに電車が滑り込んでくる。
俺は小鳥遊さんと一緒に、電車に乗り込んだ。
朝の通勤通学ラッシュ、車内は押し潰されそうなほどの熱気でごった返していた。
電車のドアの脇で、俺は押し寄せる人混みから小鳥遊さんを遮るように、壁になって守っている。
(……ストーカー気質だけど、見た目は可愛いし、昨日、痴漢にあったばかりの女の子をほっとけないしね)
「大丈夫?苦しくない」
「はい、ありがとうございます」
「ごめん……、ちょっと近いよね」
「いえ。……もう少し、近くても大丈夫ですのよ?」
「えっ?」
言うが早いか小鳥遊さんが俺の胸元へ飛び込んできた。
……ちょ、待て。身体に伝わる、柔らかくて大きな感触。
「もう少し、力抜いても大丈夫ですよ?もっと……くっついても」
「う、うん」
揺れるたびに鼻先をくすぐる、彼女の甘い香り。
(やばい、集中できない。っていうかこの子、さっきから怯えるどころか楽しんでないか……?)
脳内で警鐘を鳴らし続ける俺の野生のカンは、すでにこの甘い毒のような香りに、麻痺させられ始めていた。
やがて、小鳥遊さんの降車する駅に着いた。
「ありがとうございました。では、また後ほど」
「ああ、気にしないで……って、えっ?」
人混みに消えていく彼女の背中を見送りながら、俺はその言葉を反芻する。
(えっ、今……『後ほどって』って言った?)
◇◇◇
教室のドアを開けた瞬間、嫌な予感がした。
中学からの腐れ縁である新井秀樹がニヤニヤしながらこちらに歩み寄ってくる。
「今朝、電車の中で彼女と抱き合ってたって本当か?噂になってるぞ」
「彼女じゃない、赤の他人だ……」
(それに抱き合ってない。一方的に抱きつかれただけだ……)
◇◇◇
放課後、ひょんなことから帰りが一緒になったクラスメイトの高畑麗華さんと一緒に駅の階段を上っていた。金髪で制服を着崩した、いわゆるギャルというやつだ。
「山口くんってどっち方面なの?」
「横沢駅方面だよ」
「あっ、私と逆だね」
「そうなんだ、じゃ、また明日」
「うん、また明日ね」
俺は軽く手を振って高畑さんと別れ
た。
──独り、で駅のホームで電車を
待つ。
すると突然背後から……
「……山口さん」
「うわっ、小鳥遊さん!? びっくりした、どうしたの」
「……山口さんに会いたくて」
何故か小鳥遊さんの瞳が死んでいた…
「そ、そうなんだ」
「……山口さん、一緒に歩いていた女の子は彼女さんですか?」
「えっ、一緒に歩いていた?」
「さっき、山口さんが女性と仲良く歩いているところをお見かけしたので……」
「あっ、彼女じゃないよ、ただのクラスメイトだよ。俺、彼女いないし」
(……今まで彼女いたことないし)
小鳥遊さんの表情がぱあっと明るくなった。
「もし、彼女だったら、私、次の電車が来たら飛び込もうと思ってました……」
(だから、怖いこと言うのは止めて…)
「……い、命は大切にしようね。家族や友人が悲しむから」
「あ、あの、連絡先交換してくれませんか?」
小鳥遊さんは耳まで真っ赤にして、俯きながら俺の様子を窺っている。
「えっ、連絡先?」
「嫌ですか…?嫌なんですか…次の電車に飛び込めって事ですか…」
また小鳥遊さんの瞳からすうっと光が消えていく。まるで底無し沼のようだ。
「……い、いいよ」
関わってはいけないと分かっているのに。俺は恐怖に負け、メッセージアプリ『LIME』のQRコードを差し出してしまった。
(だって、怖いんだもん)
その後、小鳥遊さんと一緒に帰ったのだが……。
風呂から上がり、柔軟ストレッチをしていると『ピコンッ』と『LIME』の通知音が鳴った。
『こんばんは、今お暇ですか?』
暇だったので『暇だよ』っと返信した。──直後、スマホが震えた。
(早っ)
一瞬、返信に迷って画面を眺めていると、トーク画面が恐ろしい勢いで更新され始めた。
『何で既読から3秒も返事をくれないのですか』
『見て』
『見て』
『見て』
『見て』
『見て』
画面を埋め尽くす「見て」の羅列。文字を打とうと指を動かすが、画面の更新速度に追いつけない。
『何で早く返事をくれないのですか』
『何で』
『何で』
『何で』
『何で』
『何で』
『何で』
バイブレーションが鳴り止まない。スマホがまるで生き物ように手の中で暴れている。
俺は逃げるようにスマホの電源を切った。
(……やっぱり、関わってはいけなかったかも)
読んでくださりありがとうございました。
文章が一部ごっそり抜けてましたので修正しときました。
すみませんでした。




