バークレー 後編
“ボブ、ボブ! うあああっ”
声の上がった方角へ、視線が集中する。
美術館へ向かう途中と思しき観光客の団体が、倒れた1人の男を囲んでいた。既に死んでいる。
中年の東洋系婦人が、彼に取り縋り、泣き叫んでいた。
“銃撃だ!”
誰かの一言が、引き金となった。カフェや噴水周りで立ち尽くしていた人々の間に、たちまち悲鳴が連鎖する。
闇雲に駆けだそうとした江上を、宇梶が引き止めた。
“動くな。伏せるんだ”
クライドはミランダを、日置は側にいたエリザベスを庇う。彼女は、嬉しさ半分はにかみ半分の様子だった。間違っても自分に銃弾が当たるとは、思ってもいないようであった。
鋭い悲鳴が上がった。日置は、伏せた頭を少しだけ持ち上げた。嘆きつつ地面に伏せる観光客団体の近くに、胸を押さえて転がった人の姿があった。先の犠牲者とは別人である。やはり、既に絶命していた。
ファンファンファン。
パトカーのサイレンが近づいてきた。
驚きの速さで駆けつけたのは大学警察で、キャンパスの敷地内に事務所を持っていた。警察まであるとは。日置は事件の衝撃もさることながら、そのことにも驚いた。
次々と到着して数を増やした警察官は、てきぱきと事件に対処した。
それ以上の犠牲者は出なかった。警察の到着が、非常に早かったことも功を奏したかもしれない。
ただ、犯人はその場で判明しなかった。日置達は、観光客の団体と一緒に、歩いて管理棟の地下にある警察事務所まで連行された。目撃者兼参考人、容疑者も含む。といったところであろう。
英語交じりの中国語を話す観光客の団体は、ニューヨークから来た華僑であった。彼らは連行される間も、のべつまくなしに喋り続け、終いには警察官から注意を受けた。ただ、遺体に取り縋って泣いていた婦人だけは無言で、前を向いて足を動かしてはいるものの、魂が抜け出たような状態であった。
警察で身体検査を受けた後、改めて身元と連絡先を説明すると、日置たち日本人組だけクライド達から離されて、別室へ入れられた。
殺風景な部屋だった。地下であり、当然に窓はない。部屋というよりも、倉庫に見えた。
宇梶も江上も押し黙っている。長く待たされた後、日置たちの前に現れたのは、新たな人物であった。
2人組である。
警察官の制服ではなく、スーツ姿であった。2人共に麦藁色の髪を短く刈り上げ、アメリカンフットボールの選手並みに堂々たる体躯の持ち主だった。巨大化した筋肉質のハンプティダンプティである。
“FBIのスコットだ。こちらはフレモント”
やや年嵩の男が、自己紹介した。薄茶色の瞳の間に鎮座する鷲鼻が、猛禽を連想させる。
フレモントと紹介された男は、スコットより少しばかり若い。やはり薄茶色の瞳に、筋の通った高い鼻を持つ顔は、体格から受ける印象とは違い、むしろ温和な人物に見えた。びっくりしたような、大きな瞳のせいだろうか。
“あなた方は、サンフランシスコ空港で銃撃事件が起きた時も、現場にいましたね”
フレモントの質問に、江上が目に見えて動揺した。まるで、あなたが犯人です、と指摘されたみたいだった。
その話題は、不自然なくらい俎上に上らなかった。図書館に備え付けられた地元の新聞でも、大きく取り上げられていたにもかかわらず。
3人共、忘れるために事件を口に出さずにいたのだが、得てして忘れようと思い続けることが、常に思い出されるという結果を引き起こすのであった。
異国へ到着早々、先行きに不安を覚える最中、目の当たりにした事件だった。衝撃は大きい。
先刻の事件が起きた時に、クライドを始めとする一同の頭をよぎったのも、空港の事件であった。エリザベスがどこか呑気でいられたのは、彼女がそちらの事件を経験していないからであろう。クライドは、事件を妹の耳に入れていないかもしれない。
慣れぬ地で、立て続けに命の危険に晒された。その上、フレモントは容疑者に対するような尋ね方をした。
江上が動揺するのも、無理はない。
“はい。その時私たちは空港にいました”
江上は動揺しているし、宇梶は江上に気を取られている。
仕方なしに、日置が返事をした。それで、彼らは日置を代表者とみなしたらしい。
空港の事件の際、何故その時間にその場所にいたのか、改めて初めから説明させられた。既に警察へ話した、時間が経っているので、記憶が曖昧な部分がある、と主張しても、無駄だった。
最初の事件について説明を終えると、今度は今日の事件におけるアリバイの説明を求められた。特に、何故その時刻に、その位置にいたのか、観光客の団体と本当に一面識もないのか、しつこく尋ねられたのには、閉口した。
案内される側の日置達に、見学スケジュールは知らされていなかった。旅行会社のツアーとは違うのだ。友人の好意によるものである。まして、見学にかかる所要時間など知りようもない。そこは、クライド達に訊いてくれ、と何度も答えることとなった。
そもそもの渡米目的についても、相当突っ込んで訊かれた。
日置は、大学入学前から計画を立て、数年にわたる準備を経て今回の留学に漕ぎ着けたことに、強い自負を持っていた。後ろめたい気持ちは微塵もない。FBIの2人を前に、堂々と説明した。
宇梶と江上は、今回の留学に対し、日置ほどの熱意を持ち合わせていなかった。2人共、日置の斜め後ろで、不安に囚われていた。
巨大ハンプティダンプティは、3人とも日本の同じ大学から来て、留学先の大学も同じである、と日置が説明した事で、全員が同様にしてここに至ったと勘違いしたらしく、残る2人に改めて説明を求めなかった。彼らは明らかにほっとしていた。
その後は、雑談なのか、そのように見せかけた尋問なのかわからない会話が交わされた。
ようやく解放されて、薄暗い部屋から地上へ出た。地下に比べれば、霧のサンフランシスコの空も、眩く感じられた。
管理棟の入り口には、クライド達が待っていてくれた。
おいしいピッツァの店で席を予約しておいてくれたのだが、思わぬ事件で流れてしまった。
落ち着いて座る場所を求め、近くのコーヒーショップへ入ることにした。
メニューを見て、サンドウィッチを注文する。切込みを入れた固いパンに、ハムやキュウリを挟んだだけのものである。
全員が全員、ほとんど手をつけず皿の上に残したままなのは、食べにくいという理由ばかりではない。
“警察では、空港の事件と関係があると睨んでいるみたいだ。標的になる心当たりがないか、しつこく尋ねられたよ。僕は、空港の件を、共産主義者によるテロだと思っていたのだけれど”
辺りを憚りつつ、クライドが声を落とす。
昼食時間をとうに過ぎ、午後のお茶にはまだ早い、中途半端な時間帯である。客足はまばらだった。
“同じ事件に関する質問でも、僕らは動機に心当たりがないか、しつこく尋ねられたで”
宇梶も声を潜めた。冗談めかした口調が、却って深刻に聞こえた。重苦しい沈黙が落ちる。ミランダは、家に帰りたがっている様子が、ありありとしていた。クライドも礼儀上口にしないだけで、気持ちは彼女と同じである。
反対に、宇梶はクライド達と離れがたく思っていて、礼儀上口に出しかねていた。
“捜査は警察に任せて、僕らは家に帰った方がよさそうやね。拓けた場所におるよりも、家におった方が安全やろ?”
日置の言葉に、宇梶がなるほどと同意し、クライドは感謝の目を向けた。
そこで、クライド達に案内の礼を言い、その場で別れた。
そこから寮へ帰り着くまでの間、誰も口を利かなかった。




