【7】阿鼻叫喚の空間と、顕現する厄災
人間が「絶対的な異物」と遭遇した時、最初に生じるのは理解ではなく、脳が麻痺するような拒絶反応だ。
「きゃああああぁぁぁぁぁっ!?」
「何だあれ!? なんだよ今の影は!?」
「押すな! 押すなよ死ぬだろ!!」
「開けろ! 扉を開けろぉぉぉっ!!」
体育館の巨大な空間が、一瞬にして茹だるような狂気とパニックと化した。
数百人の生徒たちが一度に出口へと殺到する。
扉に押し寄せた人の波は、互いの足を踏みにじり、押し倒し、制服を破りながら出口という狭い穴へ群がった。誰かが倒れ、その上に別の生徒が重なり、悲鳴と怒号が体育館の天井に反響して鼓膜を歪ませる。
スピーカーから流れる女子生徒の生々しい悲鳴と、暗闇のスクリーンに映し出された不正の証拠映像。そこに追い打ちをかけるように現れた、空中を浮遊する漆黒の影——。
生徒たちの多くは、それが「悪魔」だとは理解できていない。
だが、生物としての本能が警報を鳴らしていた。あの天井近くに浮かぶ「黒い輪郭」から溢れ出る空気が、物理的な圧力となって肌を刺し、心臓を締め付けていたからだ。
「白石さんっ……!!」
俺は人の波を力任せにかき分けた。
肘が誰かの肩に当たり、罵声が飛んでくる。だがそんなものを気にしている余裕は一秒すらなかった。
ステージの階段脇。
押し寄せる群衆の足元に、葵が倒れ込んでいた。
突き飛ばされ、制服の膝を擦りむき、スカートを汚しながら、彼女は押し寄せる靴の群れに潰されそうになっていた。
「相羽……くん……っ!」
「掴め!!」
俺は屈み込み、倒れかけた男子生徒の身体を強引に跳ね飛ばすと、葵の手首を力任せに掴み引き寄せた。
彼女の小さな身体を胸の中に抱き込み、自分の背中で押し寄せる群衆の圧力を受け止める。
ドガンッ! と誰かの身体が俺の背中に激突し、息が止まりそうになる。
痛みに歯を食いしばりながら、俺は葵を体育館の壁際……跳び箱やマットが積み上げられた安全な死角へと押し込んだ。
「はぁ……っ! はぁ……っ! 大丈夫か、白石さん! 怪我は!?」
「う、うん……大丈夫……! でも、相羽くん、背中が……っ!」
「俺のことはいい! ここから動くな! いいな、絶対にここを離れるな!」
俺は葵の肩を強く掴み、言い聞かせた。
葵の瞳は、激しい恐怖とパニックで大きく揺れていた。彼女の視線は、俺の顔ではなく、俺の頭上……体育館の天井付近に向けられていた。
「相羽くん……あそこ……あそこに……誰か、いる……?」
葵の指先が、小さく震えながら上を指さした。
俺はゆっくりと見上げた。
天井の鉄骨、照明器具が吊り下げられいるその場所。
そこに、ルゥが立っていた。
黒いパーカーのフードを頭から深くかぶり、その隙間から覗く真っ赤な瞳が、暗闇の中でらんらんと怪しい光を放っている。
背中からは、先ほどまで見えなかった黒いモヤ——まるで巨大な鳥の翼のような影が、両側に数メートルも広がり、ゆらゆらと蠢いていた。
ルゥの姿は、もはや「俺にしか見えない幻影」ではなかった。
絶望、恐怖、憎悪、嫌悪——体育館に満ちあふれた数百人分の凄惨な負の感情を際限なく吸い上げたことで、ルゥの存在密度は世界を侵食するレベルにまで跳ね上がっていたのだ。
薄っすらとだが、はっきりと生徒たちの目にも「黒い翼を生やした人影」として視認されていた。
「あはっ……! あはははははっ!!」
ルゥの歓喜に満ちた高笑いが、スピーカーのノイズを突き破って体育館中に響き渡った。
「すごい! すごいよひろと! 人間がいっぱいいると、ご飯が山盛りだね! 苦しい、怖い、痛い、助けて……! あぁっ、色んな味が交ざり合って、お口の中が爆発しそう……っ!!」
ルゥが空中でお腹を抱えて身悶えする。
彼女が息を吸い込むたびに、逃げ惑う生徒たちの顔から血の気が引いていき、体育館全体の温度が急激に下がっていくのが目に見えて分かった。
真夏の体育館であるはずなのに、床や壁には霜のような白い結晶が薄く張り付き始めていた。
「ルゥ……ッ!!」
俺は胸の奥から湧き上がる怒りで叫んだ。
「やめろ……! もうやめろルゥ! 生徒たちは関係ないだろ!!」
俺の叫び声に、ルゥがすっと首を傾げた。
空中を歩くように、一歩、また一歩と無造作に踏み出す。足場など存在しない空中で、彼女は階段を下りるようにスーッと降りてきた。
「関係ない? そんなことないよ、ひろと」
ルゥの声が、直接全校生徒の脳内に響く。
「この人たちもね、あおいちゃんのこと笑ってたでしょ? 小林先生のこと見下してたでしょ? みんな、心の中に黒いドロドロを持ってるんだよ? だからね、あたしがみーんなまとめて『ごはん』にしてあげるの!」
「ふざけるな……っ!」
俺は足元に落ちていた金属製のパイプ椅子を拾い上げ、両手で強く握りしめた。
実体化したルゥなら、打撃が通る。
だが、昨夜の記憶が脳裏をよぎる。殴れば殴るほど、俺の殺意を吸って奴は強くなる。
だが——打たなければ、この場で何十人もの生徒が死ぬ!
詰み切った選択肢。
俺が恐怖で固まっている間にも、最悪の事態はステージの上で進行していた。
「あ……あぁぁぁぁっ……! 嘘だ……嘘だぁぁぁぁっ!!」
ステージ中央。
マイクの前で膝をついていた小林先生が、狂ったように自分の頭を両手で抱え込み、床に額を擦り付けていた。
スクリーンには、彼の横領とセクハラの証拠がエンドレスで映し出されている。
全校生徒に見られた。教頭や他の教員たちにも見られた。
もう言い逃れはできない。教員免許の剥奪、懲戒解雇、警察への告発、退職金の不支給、近所や親族からの冷酷な視線、そしてメディアでの報道。
彼の「人間としての人生」は、この数分間で完全に終わったのだ。
「私じゃない……! 私はやってない! 誰だ、誰がこんな罠を仕掛けたぁぁぁっ!!」
小林先生の目から、血の混じった涙が溢れ出していた。
顔は土気色を通り越して紫色に変色し、激しい過呼吸で肩が不規則に跳ね上がる。
彼の身体から、これまで俺が見たこともないほど濃密な、漆黒の煙が噴き出していた。
大人が積み上げてきた、ちっぽけで醜いプライドと保身。
それが一瞬で砕け散った時に出た「絶対的な絶望」。
「あはぁ……っ! 小林先生、すごーい!」
ルゥがステージの上にふわりと降り立った。
小林先生のすぐ隣。
崩れ落ちる小林先生の背中に、ルゥは愛おしそうに小さな両手を回し、後ろからギュッと抱きしめた。
「先生の絶望、すっごく熟してて美味しいよ……! お腹がいっぱいになっちゃう……っ!」
ルゥが小林先生の首筋に顔を埋め、深々と息を吸い込む。
「ひ……ひぃぃぃっ!?」
小林先生の全身が、ビクンと激しく痙攣した。
ルゥの姿が完全に見えているわけではない小林先生だったが、背中に取り憑いた「氷のような死の気配」だけは痛烈に感じ取っていた。
彼の髪の毛が、見る見るうちに白髪へと変わっていく。
肌のハリが失われ、目元に深いシワが刻まれ、たった数秒の間に十歳も年老いたかのように皮膚が急速に収縮していった。
生き血を吸われているのではない。
「魂の活力」と「生きる気力」を、ルゥに直接貪り喰われているのだ。
「やめろ……! 離れろ、ルゥ!!」
俺はパイプ椅子を構え、ステージに向かって駆け出した。
「相羽くん! 行っちゃダメ!!」
背後で葵が悲鳴を上げたが、止まれなかった。
小林先生が嫌な奴だろうが、犯罪者だろうが関係ない。目の前で人間が悪魔に喰われて殺されるのを黙って見過ごせない。
「死ねぇぇぇっ!!」
俺はステージに駆け上がり、パイプ椅子を全身の筋力を込めて振りかぶった。
ルゥの小さな頭部を狙い、フルスイングで叩きつける!
ガツンッ!!!!
重い金属音が体育館に響き渡った。
パイプ椅子の鉄パイプが、ルゥの首元に直撃し、くの字に大きく曲がる。
衝撃波が走り、ステージ上のマイクスタンドがガラガラと倒れた。
「がぁッ……!?」
ルゥの身体が弾け飛び、ステージの床を数メートル滑って壁に激突した。
首が不自然な方向に曲がり、口から黒い液体が大量に吐き出される。
「はぁ……っ! はぁ……っ!」
俺は曲がったパイプ椅子を握り締め、荒い息を吐いた。
勝ったか? 息の根を止めたか!?
だが——次の瞬間。
「……うふふ」
壁際で倒れていたルゥの首が、ギギギ……と不気味な音を立てて、自力で元通りの角度へと回転した。
「痛いなぁ……ひろと。パイプ椅子で殴るなんて、乱暴なんだから」
ルゥが、ゆっくりと立ち上がった。
首の骨が折れていたはずの場所に、黒い煙が巻き付き、一瞬で肉体が修復されていく。
そして——彼女の体が、またしても変貌を遂げた。
ルゥの体格は中学一年生ほどにまで成長していた。
ぶかぶかのパーカーの裾がぴったりと合い始め、手足が長くスラリと伸びていた。腰まで届く黒髪はさらにボリュームを増し、その顔立ちは、幼さを残しながらも怖ろしいほど整った「美少女」へと変貌していた。
「あぁっ……! 効くよ……! ひろとの『俺が助けなきゃ』っていう強い責任感と、あたしに対する『絶対的な殺意』……! 本当に、とびきりのご馳走だね……っ!」
ルゥは自分の胸を抱きしめ、うっとりと頬を染めた。
俺の打撃。俺の殺意。そして、小林先生から吸い上げた絶望。
それらが融合し、ルゥの成長スピードを異常なまでに加速させていた。
「嘘だろ……」
俺の手から、パイプ椅子が力なく滑り落ちた。
勝てない。物理的な攻撃を加えれば加えるほど、俺の感情が奴の餌になる。
小林先生を助けようとした俺の「善意」すらも、ルゥにとっては絶好の調味料として機能してしまっているのだ。
「ひろと、ありがとう」
ルゥは優雅にスカートの裾を持ち上げ、俺に向かって深々と一礼した。
「小林先生はね、もう十分にご飯になってもらったから……次は、この学校全体を『お菓子のお家』にしちゃおうと思うの!」
「学校を……お菓子のお家……?」
「そう! みんなが閉じ込められて、逃げられなくなって、一人ずつ絶望していくお家!」
ルゥがパチンと指を鳴らした。
その瞬間。
ドドドドドドドッ!!!!!
体育館の巨大な扉が一斉に跳ね上がり、重厚な鉄のシャッターがガシャンと落ちてきた。
それだけではない。窓ガラスの外側に、どこからともなく這い出してきた漆黒の蔦のような物質がびっしりと張り付き、日光と外気を完全に遮断してしまった。
「な……なんだ!? 開かない! 扉が開かないぞ!?」
「出られない! 助けてくれぇぇぇっ!!」
逃げ惑っていた生徒たちが、閉ざされた扉に取りすがり、爪を立てて叫び声を上げる。
体育館は、外界から完全に孤立した「黒い密室」へと変貌したのだ。
暗闇の中、体育館の非常灯の赤い光だけが不気味に浮かび上がっていた。
パニックは頂点に達していた。
生徒たちは出口を失い、押し合い、泣き叫び、暗闇の中で互いを押し倒していた。
ステージの上では、小林先生が完全に精神を病み、真っ白になった髪をむしり取りながら「私は悪くない……私は悪くない……」と意味不明な呪文を呟き続けている。
「相羽くん……っ!」
混乱の中、葵がステージの上へと駆け上ってきた。
彼女は俺の腕に強く抱きつき、震える体で俺に寄り添った。
「相羽くん……これ、一体何なの……? あの女の子……何なの……!?」
葵の目には、背丈が伸び、美しくもおぞましい姿へと変貌したルゥの姿が、はっきりと映っていた。
もはや、隠し通すことは不可能だった。
俺は葵の肩を抱き寄せ、静かに、だがハッキリと言った。
「……悪魔だ」
「悪魔……?」
「ああ。俺たちの『悲しみ』や『絶望』を食べて生きる化け物だ。親父の足を奪ったのも、桐島の夢を壊したのも、白石さんの家を破滅させたのも……全部、あいつの仕業なんだ」
葵の瞳が大きく見開かれた。
今まで起きたすべての不条理。理解不能だった惨劇の理由。
それが全て、目の前に立つ黒い羽を生やした少女に起因しているのだと悟った瞬間、葵の顔から最後の血の気が引き算された。
「そんな……じゃあ……お父さんは……悪くないの……? 私たちの家は……あいつのせいで……っ!?」
「そうだ。親父さんは何も悪くない。白石さんも、誰も悪くないんだ」
俺は葵の手を強く握り返した。
「あいつは……俺にしか見えなかった。だから、俺がもっと早く気づいて、どうにかしていれば……君をこんな目に遭わせずに済んだんだ。ごめん……本当にごめん、白石さん……!」
俺の目から、溢れ出る涙が止まらなかった。
後悔と、無力感。自分がもっと強ければ。自分がもっと賢ければ。こんな地獄のような惨劇を防げたはずなのに。
「相羽くん……」
葵は俺の涙を、細い指先でそっと拭ってくれた。
「謝らないで……相羽くん。相羽くんは……私を助けてくれたじゃない。昨日も、今日も……私のために戦ってくれてたんでしょ……?」
葵の温かい言葉が、壊れかけていた俺の心を繋ぎ止めた。
「私……怖くないよ。相羽くんが一緒にいてくれるなら……私、逃げない」
葵の瞳に、小さな、だが力強い決意の光が宿った。
その様子を、ステージの上空で静かに見下ろしていたルゥが、可哀想なものを見る目で見つめていた。
「ふふっ……素敵な絆だね」
ルゥの声が、冷ややかに響く。
「お互いを思い合って、励まし合って……すっごく綺麗。でもね、ひろと。綺麗であればあるほど、それが引き裂かれた時の『ぜつぼう』は、この体育館中の生徒を集めたよりも、何百倍も美味しくなるんだよ?」
ルゥがそっと舞い降りてきた。
その背後に浮かぶ黒い翼が、体育館の天井を覆い尽くすほど巨大に広がっていく。
「さあ、ひろと。ゲームの第二幕をはじめようね」
ルゥの真っ赤な瞳が、暗闇の中で妖しく発光した。
「この閉じ込められた体育館の中で、一人、また一人と……生徒たちが壊れていくよ。ひろとが、あたしを『本当の殺意』で殺してくれるまで……誰も、ここから出さないからね!」
外界と遮断された、極限の密室。
数百人の生徒たちの命と精神を人質に取られた、最悪の籠城劇。
俺と、葵と、そして悪魔の少女ルゥの——命をかけた長い夜が、幕を開けようとしていた。




