【1】透明な厄災と、茜色の日常
夕暮れの空が、まるで誰かがドス黒い赤インクをぶちまけたような、不吉な色に染まっていた。
「……ねえ。それ、おいしいの?」
耳元で、鈴を転がすような透き通った声が聞こえた。
アスファルトの照り返しが残る夕方の通学路。俺——相羽ヒロトは、歩道橋の階段の途中で足を止め、チラリと視線を脇へと向けた。
階段の手すり。幅わずか十センチほどの金属の細い縁の上に、一人の少女が腰掛けていた。
見た目はどう見ても小学一年生くらいだ。サイズが合っていないぶかぶかの黒いパーカーを着込み、小さな両足をブラブラと空中で遊ばせている。肩で揃えられた漆黒の髪と、夕闇の中で怪しく発光するような真っ赤な瞳。
そして——その背中からは、常人にはあり得ない、節くれだった小悪魔のような黒い尾が一本、ゆらゆらと楽しげに揺れていた。
「おい……危ないから降りろよ。落ちたら怪我するぞ」
俺が低い声で呟くと、少女は不思議そうに首をかしげた。
「おちないよ? だって、あたしはここにとんでるもん。それに……ひろと、あたしのこと『みえてる』んだね?」
少女の言った通り、彼女の足先は手すりに接触していなかった。数ミリほど空中浮遊している。
だが、俺が恐怖よりも先に覚えたのは、深い「違和感」だった。
ちょうどその時、部活帰りと思われる同じ高校の女子生徒二人組が、おしゃべりをしながら階段を登ってきた。
彼女たちは、手すりに腰掛ける少女のすぐ脇を通り抜ける。いや、正確には——少女が身につけているパーカーの裾に触れるか触れないかの距離を、まるで「そこには誰も存在していない」かのように、何事もなく通り過ぎていったのだ。
「ちょっと、今日の数学の課題やった? マジで意味分かんなくない?」
「それなー。後で写させてよ」
楽しげに笑い合いながら去っていく女子生徒たち。
彼女たちの視線は、一瞬たりともこの真っ赤な目をした異形の少女に留まることはなかった。少女がどれだけド派手な黒い尾を振っていようが、どれだけ宙に浮いていようが、彼女たちの世界には「存在しないもの」として処理されている。
(……やっぱりか)
俺は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
昨日からだ。この少女が俺の視界に現れるようになったのは。
最初は登校途中の電柱の陰から。次は授業中の教室の窓の外、三階の高さを空中散歩しながら。そして今度は、下校途中の歩道橋の上。
周囲の人間は誰も彼女に気づかない。通りすがる大人も、クラスメイトも、俺が彼女に向かって喋りかけると「相羽、独り言か? 疲れてんのか?」と気味の悪いものを見るような目を向けてくるだけだった。
「おーい、ひろと? きいてる?」
少女がすっと息を呑むような滑らかな動作で空を滑り、俺の目の前まで降りてきた。
ふわふわと浮遊しながら、俺の顔を覗き込んでくる。近距離で見ると、その肌は病的なまでに白く、陶器のように滑らかだった。
「お前……本当に何なんだよ。幽霊か? それとも俺の頭がおかしくなったのか?」
「ゆーれーじゃないよ。あたしはね、あくま!」
胸を張って、少女は無邪気に言い放った。
「あくま」という言葉の響きにしては、あまりにも可愛らしすぎる声だった。だが、彼女が浮かべる笑みには、人間の子供には決して存在しない、断絶された異質さが潜んでいた。
「あくま、ねぇ……。まあ、宙に浮いてるし、尻尾生えてるし、普通じゃないのは分かるけどよ。なんで俺にしか見えないんだ?」
「んー? それはね、あたしがひろとを選んだから!」
「選んだ?」
「そう! ひろとのお家、とってもいいにおいがするの。甘くて、苦くて、すごくおいしそうな……『これから壊れちゃう』におい!」
少女はケラケラと可愛らしく笑った。
その言葉の意味を、当時の俺は深く考えようとしなかった。ただの子供の突飛な妄想か、あるいは悪質ないたずらのようなものだと、現実逃避気味に脳内で処理してしまったのだ。
「バカバカしい。俺の家は至って普通だ。親父は頑丈だけが取り柄の現場監督だし、お袋はパートで忙しいし、俺はしがない平々凡々の高校生だ。壊れる要素なんてどこにもない」
「ふふん、どうかなぁ? あたしがそばにいるとね、みんな『しあわせ』じゃなくなっちゃうんだよ? でも、ひろとはあたしの姿が見える特別な人間だから、もっともっと『おいしく』なってくれるはず!」
「意味が分からん。とにかく俺に関わるな。家にもついてくるなよ」
俺は少女を無視して、歩道橋の階段を駆け下りた。
背後から「あ、待ってよー!」という可愛らしい声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
俺の人生は、退屈で、平穏で、何の変化もないはずだった。
クラスでは目立たないグループに属し、テストの点数はいつも平均点前後。部活にも入らず、放課後は友達の桐島と適当なスマホゲームの話題で盛り上がり、家に帰れば熱い味噌汁とご飯がある。
そんな、どこにでもある「当たり前の日常」を守り抜くことこそが、俺にとっての最大の関心事だったのだ。
だが——その当たり前は、翌日の放課後、あまりにも呆気なく、そして残酷に崩れ去ることになる。
「おい相羽、今日この後バイトか?」
放課後の教室。夕日が差し込む窓際で、親友の桐島がカバンを肩にかけながら声をかけてきた。
俺はノートをカバンに押し込みながら、気のない返事をする。
「いや、今日は休み。親父が久しぶりに早く帰ってくるらしくてさ。お袋がご馳走作るって張り切ってるんだよ」
「へえ、いいじゃん。たまには家族で豪勢にな。あ、そうだ。明日の数学の宿題、写させてくれよな?」
「自分でやれよ。まあ、朝早く来たら見せてやるけど」
そんな、いつもと変わらないやり取り。
だが、その会話の最中も、俺の視界の隅には「それ」が映っていた。
教卓の上。本来なら誰も座るはずのない場所に、あのぶかぶかのパーカーを着た少女が、ちょこんと膝を抱えて座っていたのだ。
クラスメイトたちが掃除のために机を動かしたり、大声で笑い合ったりしている中、少女は退屈そうに指をくわえ、周囲を眺めている。時折、クラスの女子生徒が教卓のすぐ横を通るが、やはり誰も少女の存在に気づかない。少女の身体を透過するように、空気だけが通り抜けていく。
そして、少女の赤い瞳が、じっと俺を捉えていた。
(……チッ、またストーカーかよ)
俺は不機嫌に眉をひそめ、少女から目を逸らした。
昨日からずっとそうだ。俺が学校に行けば教室の隅に居座り、トイレに行けば廊下の天井から吊り下がっている。実害がないから放置しているが、常に「自分にしか見えない化け物」に監視されているストレスは相当なものだった。
「じゃあな、相羽。また明日!」
「おう、気をつけてな」
桐島が教室を出て行き、俺もカバンを持って立ち上がろうとした、その時だった。
ガラガラガラッ!
猛烈な勢いで教室の前ドアが開け放たれた。
飛び込んできたのは、息を荒らげ、顔を真っ青にさせた担任の教諭だった。
「相羽! 相羽ヒロトはいるか!?」
「え? あ、はい……なんでしょうか?」
普段は穏やかな担任が、見たこともないような血相を変えて俺に駆け寄ってきた。その迫量に、教室に残っていた数人のクラスメイトも一斉に静まり返る。
「相羽、落ち着いて聞くんだ……。今、警察と病院から連絡があった」
「警察……? 病院……?」
「お前の父親が……建設現場で事故に巻き込まれた。クレーンから落ちてきた資材の下敷きになって……今、市立総合病院の集中治療室(ICU)に運ばれたそうだ!」
全熱量が、俺の身体から一瞬で引き足していった。
「……は?」
頭の中が真っ白になる。
何を言われているのか、理解が追いつかない。
親父が? 事故? 資材の下敷き?
冗談だろ。親父は現場監督歴二十年のベテランだ。安全管理には人一倍厳しく、口うるさいくらいに「確認」を怠らない男だ。事故なんて、怪我なんて、これまで一度だって——。
「早く行きなさい! お母さんも既に病院に向かっているそうだ! タクシー代は学校から出すから、とにかく走れ!」
「っ……!」
俺はカバンを握りしめ、教室を飛び出した。
廊下を走り、階段を飛び降り、昇降口で靴を履き替える間も、心臓が破裂しそうなくらい激しく脈打っていた。視界がグラグラと揺れる。冷や汗が目に入って痛い。
『大丈夫だ、ヒロト。男なら胸を張れ』
笑うと目尻に深いシワができる、頑固だが優しい親父の顔が脳裏をよぎる。
嘘だ。何かの間違いだ。骨折くらいで済んでいるはずだ。そうだ、そうに決まっている。
校門を飛び出し、全力で病院へと走る。
その俺のすぐ隣を——ふわふわと、まるで風船のように浮遊しながら、並走してくる影があった。
「ねえねえ、ひろと! すごいね! ドキドキしてる? 胸がぎゅーってなって、苦しい?」
少女だった。
彼女は俺の顔を覗き込みながら、まるで遊園地のアトラクションを楽しむ子供のように、目を輝かせていた。
「うるさい……消えろ! 今はそれどころじゃないんだよ!」
「えー? なんで怒ってるの? すごいよ、ひろとのお家から、すっごく濃くておいしい『かなしみ』のにおいが爆発したの! あたし、こんなにおいしいの初めて!」
「黙れっ……!」
俺は少女を振り払うように腕を振ったが、俺の拳は虚空を切り、少女の身体を通り抜けただけだった。
少女は空中を一回転し、キャッキャと楽しそうに笑う。
俺は少女を無視し、死に物狂いで病院へと走っ
た。
消毒液の匂いが鼻をつく、病院の白く冷たい廊下。
「ヒロト……っ!」
ICU(集中治療室)の重厚な扉の前で、母さんが崩れ落ちるように座り込んでいた。
普段は明るく家庭を支える母さんの顔は土気色で、目は真っ赤に腫れ上がり、全身を激しく震わせていた。
「母さん……! 親父は!? 親父はどうなったんだよ!?」
「ヒロト……ううっ、お父さんが……お父さんがね……っ」
母さんは言葉にならない悲鳴のような泣き声を上げ、俺の服の裾を強く握りしめた。
間もなくして、重い音を立ててICUの扉が開き、緑色の手術着を着た医師が出てきた。その疲弊しきった表情を見た瞬間、俺の全身の血が凍りついた。
「……相羽さんのご家族ですね。全力を尽くしましたが……」
医師の口から語られた言葉は、あまりにも残酷で、現実味を欠いていた。
落下してきた数トンもの鉄骨が、親父の半身を押し潰したこと。
命は取り留めたものの、両足の神経は完全に断絶し、二度と歩くことはできないということ。
右腕も挫滅が激しく、切断を余儀なくされたこと。
そして、記憶障害と高次脳機能障害が残る可能性が極めて高いということ。
「そんな……そんなの……っ! 一体なんで!? 親父はいつだって安全確認を徹底してたはずだ! なんでそんな事故が起きるんだよ!?」
俺は医師の胸ぐらに掴みかかりそうになるのを、必死で抑えた。声が震え、涙が溢れて止まらなかった。
「……警察の初期調査によると、クレーンのワイヤーが『不可解な金属疲労』を起こして突如切断されたそうです。点検は今朝完了したばかりで、本来なら絶対に切れるはずのない強度だったのですが……原因はまだ分かっていません」
不可解な事故。
原因不明の断線。
昨日まで元気に笑っていた親父が、一瞬にして自力で起き上がることすらできない体に破壊された。
「うあああぁぁぁっ……! あなた……! どうして……どうしてあなたがこんな目に……っ!」
廊下に母さんの慟哭が響き渡る。
俺は膝から崩れ落ちそうになる母さんを抱きしめるのが精一杯だった。
自分の手を見る。震えている。歯がカチカチと音を立てて鳴る。
悔しさと、悲しさと、理不尽への怒りで、胸が張り裂けそうだった。俺たちの幸せだった日常は、たった一瞬で、跡形もなく粉砕されたのだ。
ふと——廊下の天井付近に、気配を感じた。
見上げると、病院の白い蛍光灯のすぐ脇に、あの少女が浮かんでいた。
少女は、小さな両手を胸の前で合わせ、うっとりと目を閉じいていた。
その表情は、まるで絶品のスイーツを口に含んだ時のように、幸せそうにほころんでいる。
「……あはぁ……すごく、おいしい……。冷たくて、苦くて、ドロドロしてて……胸が壊れちゃいそうな『ぜつぼう』の味……。こんなの、食べたことないよ……」
少女の身体から、不気味な黒いモヤのようなものが立ち上っていた。
彼女が息を吸い込むたびに、母さんや俺から滲み出る「悲しみ」や「絶望」の感情が、黒い霧となって少女の体内に吸収されていくのが見えた。
その瞬間、俺の脳内で、全てのピースが合わさった。
クレーンの不可解なワイヤー切断。
誰も気づかない、俺にしか見えない異形の存在。
『壊れちゃうにおい』。
『しあわせじゃなくなっちゃう』。
「……お前か」
俺は、母さんを抱きしめたまま、天井の少女を睨みつけた。
声にならない、絞り出すような低音。
「お前が……親父を……こんな目にあわせたのか……!?」
少女は目を開け、不思議そうに首をかしげた。
そして、空中を歩くようにゆっくりと降りてくると、俺の目の前に着地した。母さんにはやはり見えていないようで、母さんはただ俺の胸で泣き続けている。
「あたしがやったの? んー……あたしはね、何も触ってないよ? クレーンの線も切ってないし、おじさんを押してもいないよ?」
少女は無邪気な顔で、嘘偽りのない純粋な瞳で俺を見つめて返した。
「じゃあ、なんで……! なんで親父がこんな目にあうんだよ! お前が来てから、全部おかしくなったんだぞ!!」
俺の激昂に対しても、少女は怯える様子すら見せなかった。
それどころか、彼女は自分の置かれた状況を、至極当然のこととして語り始めたのだ。
「だって、あたしたちは『あくま』だもん。人間を不幸にするのが、あたしたちのいきる意味なんだよ?」
「……な……に……?」
「あたしたちはね、人間の『負の感情』を食べて大きくなるの。悲しいこと、苦しいこと、絶望することが起きると、あたしたちの周りはとってもおいしいご飯でいっぱいになるんだよ。だからね、あたしがここにいるだけで、勝手に人間は不幸になっちゃうの。そういう風にできてるんだもん」
少女の言葉には、毒も、悪意も、憎しみすらも含まれていなかった。
ライオンがシマウマを狩るように。
雨が降れば街が濡れるように。
彼女という存在そのものが、周囲の人間に「不幸」をもたらす絶対的な自然災害なのだ。
「あたしね、まだ子供だから、上手に人間を不幸にできないの。でもね、大人になるための『しけん』があるの!」
少女は人差し指を立て、楽しそうに笑った。
「ターゲットの人間を、すごーく不幸にして、家族も友達もみんなグチャグチャにして……最後、その人間に『殺してもらう』の。憎まれて、恨まれて、殺されたら、あたしは立派な大人になれるんだって! お父さんが教えてくれたの!」
——言葉が、出なかった。
試験?
立派な悪魔?
そのために……たったそれだけの理由で、俺の親父は足を奪われ、未来を奪われたというのか?
この少女は、自分が何をしているのかすら理解していない。自分が引き起こした惨劇の重さも、奪われた家族の未来の価値も、何一つ理解していないのだ。ただの「ご飯」として、ただの「成長のための試験」として、俺たちの日常を踏みにじったのだ。
「……ふざけるな」
俺の腹の底から、ど黒い情念が湧き上がってきた。
両拳を血が滲むほど強く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、激痛が走るが、そんな痛みすら気にならないほど、全身の血液が怒りで沸騰していた。
「ふざけるなよ……! なんだよそれ……! なんなんだよ、お前らは!!」
「わあ……すごい、すごいよひろと!」
俺の身体から溢れ出る殺気と憎悪を感じ取り、少女は歓喜の声を上げた。
彼女の真っ赤な瞳が、狂気的なまでの輝きを放つ。
「それ! そのにおい! あたしを殺したいって顔! すごくいいよ! ひろと、もっとあたしを憎んで! もっと怒って! あたしを殺すくらい、憎んでね!」
少女は俺の目の前で、可憐にスカートの裾を持ち上げてお辞儀をした。
「あたしね、名前はまだないの。だから、ひろとが名前をつけてくれると嬉しいな。……あはっ、これからよろしくね、ひろと。もっともっと、君の大切なものを壊してあげるね!」
茜色の夕闇が消え去り、病院の窓の外は完全な闇に包まれていた。
絶望に泣き崩れる母さんの泣き声と、無邪気に笑う悪魔の子供。
俺の平穏だった高校生活は、この日、完全に終わりを告げた。
胸の中で渦巻くのは、目の前の無垢な化け物に対する、殺意にも似た圧倒的な憎悪。
そして——その無知ゆえの残酷さに救いがないという、底なしの恐怖だった。
(絶対に……許さない)
俺は、自分にしか見えない悪魔の少女を、死んでも忘れられないほど深く、強く、睨みつけた。
(お前を……絶対に……!)




