第四話 その日、相棒が生まれた
レンが初めて与えてもらった動物であり、初めてのパートナー。
保護施設の片隅で、誰にも顧みられずに息絶えようとしていた、真っ黒で痩せっぽちの子犬。
レンはその子犬を、安直に「クロ」と名付けた。
この名前には、二つの理由がある。
一つは単純に、レンにネーミングセンスが皆無であること。
もう一つは、地球時代に両親から付けられた名前に不満があり「名前に過度な意味を持たせたくない、名前はただの記号であり、その存在を定義するものであってはならない」という、彼なりの信条から来ている。
カシウス家に引き取られたクロは、酷い状態だった。
あばら骨が浮き出るほど痩せ細り、毛並みはパサパサで艶がない。
レンは、クロを救うために持てる全てを注ぎ込んだ。
まず、保護施設の職員の話から、クロが母犬からまともに初乳を与えられていないことを推察したレンは、ビーストテイマーギルドに頼み込み、乳母犬を探し回った。
だが、初乳は生まれてすぐに飲まなければ免疫獲得の効果が薄いため、クロは風邪や下痢を繰り返し、何度も生死の境を彷徨いそうになった。
「――『アンティバイオティックス(抗生物質)』
レンはクロを救うために全力を必死で注ぎ込んだ。
地球の知識を魔力に変換し、クロの体内で抗体を生成させ、病原菌と戦わせた。
地球で学んだ獣医の卵としての知識をフル動員し、カレンと出会ってニエフに来てから得た不思議な力、治癒魔法をあわせ技で惜しみなく行使する。
季節が巡り、クロが離乳食から固形食へと切り替わった頃のことだ。
ある夕食時、カシウス家の食卓に、ウィリアムとレベッカが狩ってきたばかりの「魔物の肉」が並んだ。
その瞬間だった。
いつもはおとなしいクロが、鼻をヒクつかせたかと思うと、尻尾を千切れんばかりに振り回し、猛烈な勢いで吠え出したのだ。
「ワンッ! ワウッ! クゥーン!」
今まで聞いたこともない大きく元気な声に、家族全員がフォークとナイフを止めて驚いた。
レンには、その声が明確な「言葉」として聞こえていた。
(すごくいい匂い!!! それ食べたい!!!)
「……父さん、母さん。クロが、そのお肉を食べたいって言ってます」
「ええ? でもレン、これは魔物の肉よ? 滋養強壮にはいいけど、犬には強すぎるんじゃないかしら」
レベッカが心配そうに言う。
魔物の肉は高級食材であり、人間にとっても食べ過ぎれば活力が溢れすぎるほどのエネルギーを持っている。
ましてや病み上がりの子犬に与えるなど、常識では考えられない。
だが、レンはクロの必死な瞳を見て、直感的に悟った。
これはただの食い意地ではない。彼女の本能が、生存のためにそれを求めているのだと。
「……僕の分をあげます」
レンに迷いはなかった。
「全部」
「レン!? でも、それはお前が大きくなるために……」
ウィリアムが止めようとしたが、レンは既に自分の皿を床に置いていた。
クロは迷うことなく肉に飛びつき、一心不乱に貪り食った。
その食欲は凄まじく、自分の体重の半分ほどもありそうな肉塊があっという間に消えていく。
そして、最後のひと切れを飲み込んだ直後。
驚くべきことが起きた。
カッ、とクロの全身が蒼く発光したのだ。
「きゃあっ!?」
マリーが悲鳴を上げ、ウィリアムが即座に剣の柄に手をかける。
光の中で、バキバキと骨が軋む音が響く。
それは成長の音だった。
一回り、いや二回り。
見る見るうちにクロの体躯が大きくなり、痩せこけていた体に鋼のような筋肉が盛り上がっていく。
パサついていた黒毛は、闇夜を溶かしたような艶やかな漆黒へと変わり、その四肢には蒼い炎がゆらりと立ち上った。
光が収まった時、そこにいたのは病弱な子犬ではなかった。
堂々たる体躯と、知性的な瞳を持つ、美しくも勇敢な黒き獣。
レンは呆然としながら、解析魔法「チェック」を発動した。
(……すごい。健康状態は完全に『問題なし』の領域まで回復してる。それどころか、パラメーターが桁違いに跳ね上がってるぞ……? さらに、スキル『炎の魔力』!?)
ニエフの常識において、ビーストテイマーの動物が魔力を使うことはあり得ない。
魔物ならともかく、ただの犬が魔力を操るなど聞いたことがない。
明らかに「異常」であり、同時に「特別」な事態だった。
ウィリアムは即断した。
「……これは、ギルドには相談できないな。あまりに特異すぎる」
彼はレンに向き直り、真剣な眼差しで言った。
「レン。クロを連れてカレン様に会いに行こう。事情を聞かなければ」
翌日。カシウス一家は、町外れの対談所を訪れた。
鏡の向こうから、いつもの軽い声が響く。
「おー、レンレンおっひさー。元気してた? カシウスさんちは居心地いいでしょー?」
ホログラムのように浮かび上がったカレンの姿に、レンの眉間には深い皺が刻まれた。
「……お前は何も変わんねぇのな。その軽い態度とか、適当なところとか」
急にドスの効いた低い声に変わったレンに、ウィリアムとレベッカ、そしてマリーがぎょっとして振り返る。
カレンは悪びれもせず、ニヤニヤと笑った。
「あー、ウィリアムさん、レベッカさん。驚かないでね。これがレンレンの本性……というか、地球での性格だよ。すっげー捻くれ者で、不真面目で、気に入ったものしか愛さないやつなんだ。
ウィリアムさんの家に生まれて少しはマシになったかと思ったけど、地球でのことを知ってる僕の前だとメッキが剥がれちゃうみたいだねぇ」
レンのこめかみに青筋が浮かぶ。
「……うっせーよ。地球での記憶は消えてねーんだから、お前に言われるまでもなく俺の悪癖は自覚してるわ……父さんと母さんの所に送ってくれたことには感謝してるが、それ以上俺の黒歴史を暴露し続けると、想像主だろうが何だろうがぶっ飛ばすぞ」
「あー、ごめんごめん! やっぱりデリケートな部分だもんね? 特に尊敬するウィリアムさんたちの前じゃ……くくっ。でもさ、こっそり覗いてたけど随分とイイ子ちゃんになったじゃない? やっぱり僕の采配、グッジョブだわー」
レンは家族の方を振り向き、指を突きつけて宣言した。
「お父さん、お母さん、マリー姉さん、そしてクロ。よーく聞いておいてください。
こ・れ・が、この世界を作った性悪すぎる想像主の実態ですよ。お父さんもお母さんも、このことをよーく心に刻んで、これ以降こいつのことを『様』付けなんかで呼ばないでください。た・だ・の・カレンです!!」
あまりの剣幕に圧倒されつつも、ウィリアムがおずおずと口を開いた。
「……正直、カレンさ……ま……がお前とどういう関係なのか、父さんにはよく分からんが……あまり仲は良くないようだな。まあ、私もお前が生まれた頃からカレン……さんには、色々と無茶振りをされているし、お前の気持ちも分からんでもないが」
「えーっ、ウィリアムさんまで僕のことそんな風に言うのー? 一応僕、ニエフの想像主だよ? 偉いんだよ? 神様には遠く及ばないけどさぁ。それに、レンレンの地球でのエピソードはまだまだあるよー? 例えばね……」
「と・に・か・く!!!」
これ以上の黒歴史暴露を、尊敬する両親に知られるわけにはいかない。
レンは必死の形相で話題を転換した。
「今日は俺の初めてのパートナー、クロについて教えてもらいに来たんだ!! 知ってることがあるなら、さっさと一から十まで全部吐きやがれ、このクソ性悪想像主が!!」
その時だった。
背後から、絶対零度の冷気が漂ってきた。
「あらあら、レン? 想像主様に向かって、なんて口の利き方かしら?」
振り返ると、レベッカがにっこりと笑っていた。
口元は笑っているが、目は笑っていない。
その背後には、ブリザードのような魔力のオーラが渦巻いている。
「……ひいっ」
レンだけでなく、ウィリアムもマリーも、そして強くなったはずのクロまでもが「くーん」と怯えて縮こまった。
レベッカは普段は慈愛の聖母のようだが、怒らせると魔王より怖い。
しかも静かに怒るタイプだから、ダメージがでかいのだ。
「……ごめんなさい、お母さん。……申し訳ありませんでした、カレン様。どうか僕の大事なパートナー、クロについて教えてください」
母の一喝で借りてきた猫のようになったレンを見て、カレンは満足げに頷いた。
「ふむふむ、しっかりと教育してくれてるようだね。ありがとう、レベッカさん。
さてさて、クロちゃんのことだっけか……見たところ、健康状態は劇的に改善したね。さらに炎の魔力まで纏っている。そのトリガーが魔物の肉、か……またレンレンも、とんでもない『大物』を引き当てたなぁ」
「大物……?なんのことです……?」
カレンの目が、真剣なものに変わる。
「レンレン。君はこのクロちゃんの生まれた経緯を聞いたんだろう? 何かおかしいとは思わなかったかい?」
レンは記憶をたぐる。
両親に全く似ていない真っ黒な体毛。親兄弟から疎まれ、飼い主からも忌避され、死を待つしかなかった子犬。
「……分かりません。毛色が違うのは隔世遺伝か何かだと推察しましたが……疎まれ続けたのにも、何か特別な理由があるんですか?」
「隔世遺伝という推察は合ってるよ。いわば『先祖返り』だね。
おそらく、クロちゃんの遠い祖先に、犬型の強力な魔物と交わった個体がいたんだろう。それも、ただの魔物じゃない。ヘルハウンド、ブラックドッグ、あるいはケルベロスといった、伝説級の魔物の血だ」
レンは息を呑んだ。
「ヘルハウンド……ケルベロス……? いや、ちょっと待ってください。それって、聖書や伝承じゃ『地獄の番犬』とか、悪い魔物の代表格ですよね? ということは、クロもそういう『悪しき因子』を持っているってことですか?」
レンの不安を感じ取ったのか、クロが足元にすり寄ってきた。カレンは首を横に振った。
「いいや、そんなことはない。
この世界の生物で『存在そのものが神様に悪とされるもの』はいないんだ。だからクロちゃんには何の問題もない。ただ、ちょっと強すぎる魔力の才能を持って生まれた、特別なワンちゃんだってだけさ」
レンの肩から力が抜けた。
クロは悪くない。ただ、強すぎただけなのだ。
「……そうか。なら、俺がクロを選んだのは……」
「偶然であり、必然だね」
カレンが穏やかに言葉を継ぐ。
「簡単に言えば、神様が君たちを引き合わせてくれたってところじゃないかな。君とクロちゃんには、共通点が多い。疎外感、孤独、そして内に秘めた可能性。君はクロちゃんの境遇に自分を重ねて、助けたいと願った。その心が、互いを惹き合わせたんだ」
カレンの言葉が、レンの胸のしこりを溶かしていく。
地球時代に散々悩み、答えの出なかった「神の計画と自由意志」の問題。
この世界でもそれは変わらない。
だが、少なくとも目の前のクロが「悪」ではないこと、自分たちの出会いが間違いではなかったことは、確かな安心をもたらした。
「……分かりました。僕がクロを選んだことは間違ってなくて、クロも悪い存在じゃない。それだけ分かれば十分です。ありがとうございます、カレン……様」
しんみりと礼を言うレン。だが、カレンは空気を読まずに身を乗り出した。
「しかし可愛いねぇ~、クロちゃん! おじさん思わず食べちゃいたい☆」
「……ちょっと待て」
レンの目が再び据わる。
「クロはまだ子犬だぞ? しかも犬だぞ? お前、ペドフィリアのケモナーなのか? それって想像主云々抜きにしても、人としてどうかと思うぞ。お前の性癖、マジで疑うわ……」
「ちょっ、ちょっとレンレン! ウィリアムさんたちの前で人聞きが悪い! そういう意味じゃなくて、『魂がとても純粋で綺麗だ』ってことだよ!」
「魂? 動物にも魂があるのか? 地球では動物に魂はないとされていたはずだが……」
「ああ、地球ではそう解釈されていたね。でも、このニエフではちょっと事情が違うんだ」
カレンは指を立てて解説を始めた。
「この世界には『ビーストテイマー』がいるでしょ? 動物を人間体に変身させる職業だ。その変身の際、動物の魂の限界値が解放されて、人間と変わらない魂の機能を持つように、僕が神様に頼んでシステムを微調整してもらったんだよ。
獣人系の亜人たちの何割かは、そうやって人間体に変身し、定着した動物たちの子孫なんだ。
つまり、ビーストテイマーのパートナーとなった動物は、人間と同じ魂を持つ。神様を信じ、祈り、救われる可能性だってあるんだよ。もちろん、クロちゃんもね」
レンは足元のクロを見下ろした。
彼女の漆黒の瞳には、確かな知性と、レンへの信頼が宿っている。
(動物も、救われる可能性がある……なら、クロを人間体にしたら、お父さんやお母さんと一緒に、イエス様のことを教えてあげられるのか)
それは、レンにとって何よりの希望だった。
「……まあ、お前がペドのケモナーじゃないことは信用してやるよ。で、これからクロの育て方はどうすればいい? 魔物の肉を多くやった方がいいのか?」
「そうだね。魔物の肉には、魔石ほどじゃないけど魔力が含まれている。それをクロちゃんに与えれば、もっと早く強く成長するはずだ」
そこで、今まで蚊帳の外だったウィリアムがおずおずと手を挙げた。
「あのー……私たちには専門的な話は難しかったのですが、カレン様。つまり、もっとたくさんの魔物の肉がクロには必要ということでしょうか?」
「YES、ウィリアムさん。でも、ウィリアムさんも牧師と冒険者の兼業で、もう結構限界でしょ? そこで提案なんだけど、この際、レンレンに魔物を狩らせてみたら?」
カレンの爆弾発言に、その場が凍りついた。
「い、いや、あの、カレン様? レンはまだ五歳になったばかりですよ? 剣術や魔法の基礎は教え始めていますが、さすがに五歳児に魔物狩りなんて……」
「んー、たぶん大丈夫じゃないかな。クロちゃんも今回の一件でかなり強化されたみたいだし。二人が力を合わせれば、低級の魔物ぐらいは狩れると思うよ。
レンレンが魔物を狩って肉と魔石を持ち帰ってくれれば、ウィリアムさんたちも少しは冒険者を休んで、牧会に専念できるじゃない?」
ウィリアムは苦悩した。
「それは……そうですが……五歳の息子に家計を助けさせるというのは、親として……いや、男としてかなり抵抗が……」
彼はレンを見た。
「レン、お前はどう思う?」
レンはクロの背中を撫でながら、ウィリアムを真っ直ぐに見上げた。
「……やってみたいです。クロと一緒に戦って、強くなって。お父さんとお母さんを助けられるなら、僕はそれが一番嬉しいです。もちろん、最初は安全第一で行きますけど」
その瞳に宿る光は、もはや守られるだけの子供のものではなかった。
レベッカが、ふわりと笑った。
「あなた。息子がこう言っているのよ? 頼もしいじゃない」
そして彼女はレンに向き直り、再びあの「ブリザード・スマイル」を浮かべた。
「でも、レン? クロ? 命のやり取りをする以上、半端な覚悟じゃ許さないわよ。最初はお母さんたちが、しっかりばっちり魔物討伐の基礎を叩き込んであげるから、覚悟してらっしゃい?」
「……はい、最初はお手柔らかにお願いします」
レンとクロは、同時に身震いしながら頷いた。
「うんうん、方針は決まったみたいだね。ウィリアムさん、レベッカさん、レンレンとクロちゃんのこと、これからもよろしくね」
珍しく想像主として話をまとめ、カレンの姿は消えていった。
カシウス家の新たな目標が決まり、一家は明るさを取り戻して対談所を後にする。
レンとクロは顔を見合わせ、これからの冒険に胸を躍らせていた。
ウィリアムとレベッカも、息子の成長を頼もしく思いながら歩き出す。
そんな中。
一人、ぽつんと取り残された少女がいた。
「……ねえ。私、何のために連れてこられたのかしら」
十歳のマリーは、完全に蚊帳の外に置かれたことに気づき、憮然として頬を膨らませるのだった。




