第一話 転生
以前投稿していた作品のリメイクです。アクの強いテーマと文体なので人を選ぶでしょうが、読んでくれる人がいることを願います。
追記:説明が多くくどかったので、大幅な修正を施しました。
その日も、香取錬の日常は、消毒液の匂いから始まった。
白い天井。蛍光灯の白さ。紙の擦れる音。
診察台の上でシャツをめくるたび、胸の奥がひくつく。見慣れたはずの赤い斑と銀白の鱗屑が、今日も裏切らずそこにある。
「――はい、少し冷たいですよ」
ベテラン看護師の声が淡々と落ち、同時に軟膏が肌へ広がった。
ぬるり、とした感触。優しいはずの手つきが、今日はやけに「作業」みたいに感じる。
乾癬。完治が難しい、一生の付き合いになる病気。
皮膚だけの問題じゃない。服を選ぶ。外に出る。人と会う。鏡を見る。全部に影が差す。
それに加えて――感情の波。
数日単位で心が沈み込み、時に理由もなく浮き上がる。医師はそれを「双極性障害」と呼んだが、錬にとってはただ、生きづらさが増えただけだった。
錬は笑うことすら、どこかでサボるようになっていた。
(若い看護師と甘い雰囲気? ……無理無理。現実はいつだって、あっさりしてる)
妄想で塗りつぶす余裕すらない。
錬の毎日は、そういう「余白」が先に削れていった。
帰り道、公園の桜が満開だった。
錬は立ち止まり、見上げる。
薄いピンクの花びらが、空に溶けるように揺れている。
子どものころ、長く海外で暮らしていた反動なのか、日本の季節の“情緒”にだけは、やけに心が動いた。
(いつか庭に桜を植えてさ。優しい妻と、子どもがいて――)
脳裏に浮かぶのは、何度も何度も見た“架空の幸福”。
現実では届かないのに、空想の中では何度でも手に入る。
錬は芝生に寝転び、目を閉じた。
春の陽光が、妙にやわらかい。
風の音が、遠くて眠い。
「……少しだけ、休むか」
まぶたの裏で、桜が滲んだ。
――次に目を開けたとき、空はなかった。
白。
床も壁も天井もない、境界すら曖昧な空間。
「……は?」
声が、吸い込まれるように消える。
錬は恐る恐る頬をつねった。痛い。ちゃんと痛い。
「夢じゃない……?」
背筋が冷える。
世界が「現実」だと証明した瞬間、逆に現実の逃げ道が消えた。
そのとき。
「ハロハロー。だめだよ、そんな顔してたら。幸せが逃げちゃうよ?」
背後から、軽すぎる声。
錬は反射で振り向いた。
そこにいたのは――老人だった。
筋骨隆々。スキンヘッドに白い髭。六十は超えているはずなのに、目だけが妙に若い。――いや、若いというより、図々しい光が宿っている。
「……誰だ。ここはどこだ」
錬が警戒して言うと、老人はにやにや笑った。
「質問がテンプレすぎる。君、だいぶオタクだね」
「……話を逸らすな」
「いいね、その目。そうそう。そういう“生きる気”がある顔、久しぶりに見たよ」
老人は肩をすくめ、あっけらかんと告げた。
「ここはね。君が“転ぶ”ための場所」
「転ぶ?」
「そう。人生っていう坂道をさ。――別の方向に、ね」
錬の喉が鳴った。
聞いたことがある。何百回も読んだ。何千回も見た。
「……異世界転生、ってやつか」
「ピンポーン! 大正解!」
老人が両手を広げる。
「僕は君を、君自身の理想郷に招待しに来たんだよ」
錬は、嬉しさと恐怖が同時に胸を刺した。
夢だった。妄想だった。現実ではないと諦めていた。
でも、もしそれが本当なら――。
錬は、口の中の乾きを無理やり飲み込んで言った。
「……あんたは誰だ。神か? 俺はプロテスタントのクリスチャンだ。イエス・キリスト以外の神を、俺は認めない」
老人は、驚いた顔をしてから、すぐ笑った。
「うんうん、真面目だねえ。そこ好きだよ、僕」
「答えろ」
「……神じゃないよ。そんな便利な存在だったら、僕ももっと上手くやれてる」
老人は一歩近づいた。
近づくほどに、錬の中の違和感が膨らむ。
喋り方。癖。目つき。
嫌になるほど――“自分”に似ている。
「……まさか」
錬の声が震えた。
「お前、俺か?」
老人は、満足げに頷いた。
「ピンポーン! 三連続正解! えらいえらい」
「ふざけるな……」
「ふざけてないよ。僕は――君の未来の姿。救われて、やり直して、いろいろあって……最後に“完成”した君だ」
錬は言葉を失った。
理解が追いつかないのに、心のどこかが「納得」してしまう。
もしこの老人が本当に自分なら。
そして“救われた未来”が実在するなら。
錬の目の奥が、熱くなった。
「……それなら、よかったな」
自分に言うには変な言葉だ。
でも、錬の胸の底に沈んでいた“確信の欠片”が、少しだけ浮いた。
老人――カレンは、その反応を見て、ほんの少しだけ目を細めた。軽薄な笑みの奥に、疲れが見える。
「うん。……よかったよ。ほんとに」
錬は咳払いして、話を戻した。
「なら聞く。天国で幸せにしてりゃいいだろ。なんで俺を呼んだ。なんで異世界なんて作る」
カレンは、頭の後ろをかいた。
「僕さ。救われても、オタクは治らなかったんだよね」
「……は?」
「いやマジで。神様の前で“完全”になっても、欲望は形を変えるだけで残る。で、ある日こう思ったのさ。――この力があるなら、僕が妄想してたファンタジーを“形”にできるんじゃないかって」
カレンは、指を鳴らした。
白い虚無に、ほんの一瞬だけ“海”が映る。
波。風。雲。巨大な大陸の輪郭。
次の瞬間には消える。
けれど錬の背中に、鳥肌が立った。
「……今の」
「ニエフ。僕が創った世界」
錬は息を呑んだ。
目の前の老人が、自分で、しかも世界を創ったと言っている。ありえない。なのに、さっきの景色だけで“本物”だと分かってしまった。
「……じゃあ、俺はそこに行くのか」
「そう。君は生まれ直す。赤ん坊から」
錬の心臓が跳ねる。
怖い。だが、それ以上に――“眩しい”。
やり直し。
人生をやり直したいと、何度思った?
錬は、拳を握った。
「……どうして俺なんだ。転生させるなら、もっとまともなやつを選べよ」
カレンは、笑った。
やさしくない笑いだ。だけど“知ってる”笑いだ。
「君、相変わらず自己評価低いね。まあ当たってるけど」
「お前、性格悪くなってないか」
「完成するとね、遠慮が消えるんだよ」
錬は舌打ちしそうになった。
そして、核心を突きつけた。
「……目的は何だ。俺を転生させて、何をさせるつもりだ」
カレンは一瞬、言葉を止めた。
軽さが消える。
その沈黙が、逆に怖い。
だが次の瞬間、カレンはわざとらしく咳払いし、いつもの調子に戻った。
「禁則事項です!」
「は?」
「ネタバレはダメ。君の人生なんだから」
錬が睨むと、カレンは肩をすくめ――それでも、ちゃんと“匂わせ”の形でだけ、言った。
「まぁ、君にしてもらいたいことが無いわけじゃない。僕は大切なものを失ってしまったんだ。でも、いきなり赤ん坊の君にそれを集めさせるのはとても酷な話なんだ。
だから、君が力をつけるまでは、最高の家庭で愛情というものをたっぷり体験してほしいのさ。あとは、君が成人するまでこの異世界を存分に堪能してくれたらいい。……ただし、将来はちゃんと力をつけてもらわないと困る。いわゆる『等価交換』ってやつだね。僕は君に特大の先払いをするから、君は後からがんばって出世払いをしてくれたまえ」
その時、カレンの笑みが、ほんの一瞬だけ“祈る人の顔”に変わった。
錬は、息を止めた。
“先払い”。
“最高の家庭”。
“等価交換”。
甘い言葉なのに、怖い。
優しさなのに、どこかで“取引”の匂いがする。
だが――。
錬の現実は、取引以前に終わっていた。
仕事も、未来も、自信も、肌さえも。
全部が削れて、残りカスみたいになっていた。
「……分かった」
錬は言った。驚くほど真っ直ぐに。
「正直、怖い。でも――やり直したい。人生を。家族を。俺自身を」
カレンは、少しだけ黙った。
そして、いつもの軽さに戻して笑った。
「よし。そう来なくっちゃ」
白い空間が、ふっと遠のく。
「君に与える力の説明は――後でね。最初から“俺TUEEE”は、君も嫌いでしょ?」
「……まあな」
「まずは“家庭”。そこからだ。君が一番欲しかったものを、最初に渡す」
カレンが指を立てた。
「準備はいい? 香取錬――いや、もうすぐ別の名前になる君」
錬は、最後にひとつだけ言った。
「……なあ。お前、本当に俺なんだよな」
「うん」
「なら……俺を、見捨てないでくれ」
カレンの笑みが、ほんの少しだけ“祈り”の形になる。
「見捨てないよ。僕は君だから。……それに、僕はずっと祈ってる。君が、やり直しを“やり直し”で終わらせないように」
次の瞬間。
白が崩れた。
世界がひっくり返るような落下感。
耳の奥で、遠く誰かの声がする。
あたたかい。
柔らかい。
抱きしめられる感触。
暗闇の向こうで、泣き声が響いた。
――それは、錬自身の声だった。
そして、眩しい光の中。
「……おめでとう。元気な男の子ですよ」
その声を、錬は“言葉”としては理解できない。
なのに――なぜか確信だけが胸に落ちた。
(――生まれた)
誰かの手が、震えている。
誰かの涙が、頬に落ちる。
あたたかい匂いがする。
たったそれだけで。
錬の胸の奥の、何かが壊れた。
(……ここは)
声にならない声で、錬は笑った。
(……俺の、やり直しだ)
今度こそ――
新しい家族を、守れる人生でありますように。
ここまでが導入です。
次回から異世界が舞台となります。よろしくお願いします。




