選有る事 3
明治16年(1883年)、夏。
大久保利通内閣は、春の選挙で資本家(雇い主)たちから悲鳴のように上げられた「工場労働における時間規定(過労死対策)」の法案策定に直ちに取り掛かった。
ここで政府が直面したのは、「では、一日の労働時間を具体的に『何時間』に設定すべきか」という基準の策定であった。
日本の官僚たちは、近代化の先を走る欧米の歴史を紐解いた。そして、産業革命という魔物を世界で最も長く経験してきた国・イギリスの歴史の中から、一つの金言を導き出したのである。
それは、イギリスの社会改革家ロバート・オーウェンが提唱した、あまりにも有名なスローガンであった。
「8時間は仕事に、8時間は休息に、8時間は自分のために」
大久保内閣は、このイギリスの血の滲むような労働争議の歴史から生まれた「8時間」という数字を、極めて合理的かつ文明国に相応しい基準として採用した。
かくして、大日本帝国において世界でも類を見ない早さで『一日8時間労働規定』が法的に発足したのである。資本家たちは「これで有能な職人が過労で死なずに済む」と胸を撫で下ろした。
しかし――。
この美しく近代的な法案は、施行からわずか三ヶ月後、思わぬ方向からの猛烈な「抗議」によって破綻の危機に瀕することとなる。
労働者からの暴動:「俺たちにもっと働かせろ!」
秋風が吹き始めた頃、全国の工場地帯で抗議運動が勃発した。
だが、それは資本家の搾取に対するストライキではない。抗議の声を上げたのは、保護されたはずの「労働者(工場で働く平民たち)」の側であった。
「ふざけるな! なぜ一日8時間しか働いちゃいけねえんだ!」
「俺たちは働けば働くほど金がもらえるんだ! 稼ぎたいのに、国が邪魔をするな!」
史実の貧しい女工哀史とは異なり、この世界線の日本の労働者たちは「中所得層(豊かな農民層)」を基盤としていた。彼らにとって工場労働とは、奴隷労働ではなく「やればやるだけ己の富となる、最高の成り上がりの手段」であったのだ。
アーク灯やガス灯の下で夜通し働き、圧倒的な熱量で金を稼ごうとしていた彼らにとって、国が押し付けた「8時間規定」は、自分たちの稼ぎ口を強制的に塞ぐ『余計なお世話』でしかなかったのである。
妥協の産物:『残業制』の誕生
労働者たちの「もっと働かせろ」という、欧米の常識からすれば狂気とも言える猛烈な抗議を受け、大久保内閣は頭を抱えつつも、持ち前の現実主義で即座に法案の修正に動いた。
「……西洋の綺麗事だけでは、この国の猛烈な熱気(勤労意欲)は抑えきれんということか」
政府は、オーウェンの「8時間原則」を基本法として残しつつも、労働者の『稼ぐ権利』と資本家の『過労死防止』を両立させるための、全く新しい概念を導入した。
それこそが、のちの日本社会に深く根付くこととな『残業制(時間外労働)』の誕生である。
* 月最大48時間の残業上限:
基本の8時間労働に加え、労働者が自らの意志で追加労働を行うことを合法化。ただし過労死を防ぐための絶対的なストッパーとして、「残業は月に最大48時間(一日あたり約2時間強の超過)まで」と厳格に制定された。
* 休日規定の完全義務化:
同時に、「最低でも週に一日は必ず休暇を取らせなければならない」という休日規定が法的に義務付けられた。稼ぎたい労働者が自ら休日を返上して働くことを、法律と罰則によって強制的に禁止し、物理的に肉体を回復させる日を設けさせたのである。
【大日本帝国・初期労働法の完成】
* 基本労働:一日8時間
* 残業上限:月48時間まで
* 休日規定:週休一日の完全義務化
こうして、西洋の理想(オーウェンの思想)と、日本特有の異常なまでの勤労意欲が激しくぶつかり合った結果、極東の島国には「法によって保護されながらも、合法的に限界まで稼ぐことができる」という、極めて実戦的で強固な労働システムが組み上がった。
この『残業制』の導入により、労働者たちは納得して再び猛烈な勢いで生産活動に没頭し始めた。
日本国民の尽きることのないエネルギー(労働力)は、国家総力戦へ向けた富国強兵の巨大なエンジンとして、完全に最適な形で制御され、回り始めたのである。
―――
明治17年(1884年)、1月。
身を切るような寒風が吹きすさぶ帝都・東京の外国人居留地において、列強の公使館員やお雇い外国人たちは、本国へ送るための年次報告書の作成に追われていた。
彼らがペンを走らせるその報告書の内容は、もはや「極東の小国の微笑ましい近代化」といった見下したものではない。そこに記されていたのは、欧米の常識から見れば「あまりにも特異で、底知れぬ脅威を孕んだ国家の変容」に対する驚愕の記録であった。
不平等条約撤廃に向けて大久保利通内閣が放つ、執念にも似た政治的熱量は言わずもがなである。
欧米の知識人たちを最も戦慄させたのは、日本が直面した「労働環境」と「自然環境(公害)」に対する、異様なまでの問題提起の早さと、それを解決しようとする圧倒的な熱量であった。
壮大な社会実験:二つの『労働』の形
特に労働環境に関する法整備は、欧米の社会学者たちから見れば、人類史における『壮大な社会実験』の領域に達していた。
当時のヨーロッパ(イギリスやフランス)における産業革命とは、極論すれば「資本家が、貧しい労働者を機械の部品として酷使し、死ぬまで搾取する(雇用という名の奴隷労働)」歴史であった。カール・マルクスが『資本論』を書き上げ、労働者の暴動やストライキが社会不安の種となっていたのが欧米の現実である。
ところが、日本の工場で起きていることは全くの「真逆」であった。
日本の労働者(中所得層まで底上げされた平民たち)は、資本家に鞭打たれるからではなく、『自ら進んで、己の富のために限界まで労働を行おうとしていた』のである。
労働者が「もっと働かせろ」と暴動を起こし、国と資本家が「頼むから休んでくれ」と月48時間の残業上限と週休を法律で義務付ける。欧米の常識が完全に反転したこの奇妙で強固な労働システムは、日本の尽きることのない生産エンジンの正体として、列強の目にひどく不気味に映った。
また、足尾銅山の鉱害問題に対する日本政府と学者の動きも、欧米の常識を覆すものであった。
ロンドンが「死のスモッグ」に覆われ、テムズ川が巨大なドブと化しても、イギリス政府が本格的な環境対策に乗り出すまでには数十年の遅れがあった。公害とは、産業革命を終えたずっと後にようやく気がつく「見えない借金」であったからだ。
しかし日本は、産業革命の入り口に立ったばかりのこの時期に、早くも自然環境の破壊を国家の危機として察知し、対策(木炭濾過システムなど)に国費を投じた。
これは、日本が「欧米という先行者が犯した失敗」をリアルタイムで観察できるという、後発国ならではの恵まれた環境を最大限に活かした結果であった。
欧米の良い部分(工業力)を取り入れつつ、悪い部分(過労死や公害)をいち早く察知し、法律や独自の技術で修正していく。その貪欲な『和洋折衷』の姿勢は、欧米にとってまさに脅威そのものであった。
「……彼らは、我々西洋の文明をコピーしているのではない。西洋という素材を解剖し、自分たちの都合の良いように『改造』しているのだ」
ある鋭敏なフランスの外交官は、報告書の最後にそう記した。
西洋の論理からすれば、日本のこの貪欲で矛盾を孕んだ近代化は、あまりにも特異で理解しがたい。
だが、この国の成り立ちと歴史を少しでも知る者であれば、この現象が日本にとってごく「当たり前の日常」であることに気づくはずである。
かつてこの島国は、無数に存在する土着の神々を、皇室を中心とする一つの『神話』の中へと矛盾なく統合してみせた。
海を渡ってきた仏教を排斥するのではなく、土着の神道と混ぜ合わせ(神仏習合)、独自の信仰を創り上げた。
圧倒的な文明を誇っていた中華帝国(唐や宋)から、律令制や漢字というシステムを輸入しつつも、科挙のような自分たちに合わない制度は平然と切り捨て、ひらがなや武士政権という独自の形へと作り変えてきた。
そう、日本という国は、今に始まったことではなく、二千年の昔から一貫して『他国の良い部分と悪い部分を取捨選択し、己の血肉として取り込むことで進化してきた、極めて巨大なキメラ(鵺)国家』なのである。
明治17年の冬。
西洋の服(近代法と科学)を着込み、中身は二百六十年の泰平で熟成された武士の骨格(徳川の理)を持ち、頭脳には神代から続く絶対的な中心(天皇)を戴く。
この恐るべき『近代のキメラ』は、西洋列強が数百年かけて構築してきた世界の盤面を内側から喰い破るべく、着々と、そして不気味なまでに静かに、その巨大な牙を研ぎ澄ませていた。




