縁有る事 2
明治15年(1882年)6月。
帝都・東京の陸軍参謀本部、その奥深くに設けられた特務情報室。
「……情報は単なる文字ではない。その裏にある『人間の欲望』と『兵站の枯渇』を読み取れ」
二十五歳となった滝脇慶家少佐は、集められた若き情報分析官たちに対し、冷徹な講義を行っていた。
日本国内が議会発足と好景気に沸く中、慶家の目はすでに海の向こう――アジア大陸の最前線である「朝鮮半島」へと向けられていた。
『彼を知り己を知れば百戦危うからず』。
この言葉を体現すべく、内務省警察庁の国家保安部は、かつての御庭番の如き「草の者」たちを、商人や渡航者に偽装させて朝鮮半島全土へと散らしていた。
その日、朝鮮の商人になりすました一人の草の者から、腐敗した両班(ヤンバン=朝鮮の特権階級)を金で買収して得た、極めて生々しい報告書が慶家の手元に届けられた。
『政府高官・閔謙鎬が、旧式軍の下士官に支払われるべき給与(米)を横領。粗悪な砂や糠を混ぜて支給したため、下士官たちの不満が限界(爆発寸前)に達しつつある』
兵站を奪われた軍隊の末路
「……馬鹿な奴だ」
報告書を読み終えた慶家は、氷のような冷たい声で吐き捨てた。
「上に立つ者が、兵の食い扶持(給与)をピンハネする。……それは、自らの寝首を掻いてくれと言っているに等しい行為だ」
いくさにおける兵站の重要性を誰よりも熟知し、九州の士族反乱において「敵の食糧を焼く」ことで数万の敵を壊滅させた慶家にとって、閔謙鎬の横領は単なる汚職ではない。「国家の暴力装置を自ら機能不全に陥らせる、最悪の自爆行為」であった。
慶家は直ちにこの報告書を持って参謀本部の中枢会議へと乗り込み、居並ぶ将官たちに向かって冷酷な予言を突きつけた。
「朝鮮で、間もなく旧式軍による『武力政変』が起きます。……直ちに、一個旅団規模の即応部隊を編成し、いつでも大陸へ出兵できるよう準備を進めなさい」
当時の朝鮮半島は、極めて微妙なパワーバランスの上に成り立っていた。
朝鮮の国政を掌握していた閔氏一族は、かつての宗主国である清国の旧態依然とした体制に見切りをつけ、急速に力をつけている「日本」を見習って国を近代化しようと躍起になっていた。
日本の軍事顧問団を招聘して新式軍隊(別技軍)を創設し、経済的にも日本の資本が大量に流入。街の商人たちは商売のために日本語を熱心に覚え、朝鮮の経済の血流は、清国ではなく完全に日本へと引きずられ始めていたのである。
日本政府としても、この閔氏政権の動きは大歓迎であった。
ロシアの南下という巨大な脅威が迫る中、朝鮮半島が自立した近代国家となり、「大陸からの脅威を防ぐための強固な防波堤」として機能してくれるのであれば、それに越したことはないからだ。
しかし、もし慶家の言う通り「政変」が起こればどうなるか。
「暴徒化した兵士たちは、必ず『日本人』と『日本の支援を受ける閔氏』を標的にする。防波堤は内側から腐り落ち、その混乱に乗じて、清国あるいはロシアが必ず軍事介入してくるでしょう」
慶家は、陣形図の上に駒を置きながら、事もなげに最悪のシナリオを描いてみせた。
「我々が心血を注いで育ててきた『緩衝地帯』が、再び清国や列強の手に落ちる。……それは、我が大日本帝国の安全保障に対する、直接的な脅威に他ならない」
「だ、だが滝脇少佐! 他国の内政干渉になるような出兵は、議会(下局)が予算を認めんぞ!」
石頭の参謀が声を荒げたが、慶家は鼻で笑った。
「議会を説得するのは木戸首相や慶喜公(議長)の仕事です。我々軍人の仕事は、政治家が『やれ』と言った瞬間に、完璧な兵站と共に兵を送り込めるよう、盤面を整えておくことだ」
明治15年、初夏。
のちに『壬午事変』と呼ばれることになる朝鮮半島の巨大な暴発に向け、滝脇慶家は日本の軍事マシーンを「防衛」から「外征」へと、静かに、そして確実にシフトさせ始めていた。
―――
朝鮮国・漢城――王宮の深部。
日本の公使館ルートを通じ、密かに、しかし「確かな証拠」と共に高宗の元へともたらされた一件の機密報告書。
そこには、王室の親族であり、政府の重鎮である閔謙鎬が、旧式軍の給与である米に砂や糠を混ぜ、差額の良米を横領しているという、生々しい事実が記されていた。
「……謙鎬め。余の顔に泥を塗り、あろうことか軍の食い扶持を私物化したというのか」
高宗は、報告書を握りしめる手を震わせていた。
怒りであった。信頼し、近代化の要職を任せていた男のあまりにも見下げ果てた背信行為に、腸が煮えくり返る思いだった。
だが、高宗の背筋を冷たい汗として伝ったのは、身内の裏切りに対する怒りだけではない。
(なぜ、余の足元で起きている腐敗を……海の向こうの『日本』が、これほど克明に把握しているのだ?)
王宮の奥深く、廷臣たちの懐事情に至るまで、日本の諜報網(慶家の放った草の者たち)が完全に浸透しているという事実。高宗は、日本という国の底知れぬ恐ろしさに、背後から首筋に刃を突きつけられているような戦慄を覚えた。すぐにでも日本の公使を呼びつけ、「どうやってこの情報を手に入れたのか」と問い詰めたい衝動に駆られた。
「王様。……これはただ事ではございません。直ちに謙鎬を呼び出し、問いたださねば」
隣で報告書を覗き込んだ王妃・閔妃もまた、一族の不始末に顔を青ざめさせていた。閔氏の権力基盤そのものを揺るがしかねない致命的な失態である。彼女は即座に宦官を走らせ、閔謙鎬を王の御前へと急遽呼び出した。
―――
「お、王様……! 誤解にございます! 私は決して、そのような……!」
王の御前に平伏し、脂汗を流しながら必死に申し開きをしようとする閔謙鎬。
その見苦しい姿を見下ろしながら、高宗は彼をどう処断すべきか、頭を猛烈に回転させていた。
横領の罪を問い、彼一人の首を刎ねて兵士たちに未払いの米を配り直せば、不満は収まるかもしれない。そうすれば、この情報を突きつけてきた日本に対しても「我が国は自浄作用がある」と毅然と撥ね退けることができる。
「……謙鎬。其方の罪は万死に値する。直ちに捕縛し、投獄――」
高宗が、その決断を下そうと口を開きかけた、まさにその時であった。
――ドァン!!
王宮の静寂を切り裂くように、遠くから重い「銃声」が響き渡った。
一つではない。次々と連鎖する発砲音と、地鳴りのような数千の怒号が、漢城の街の方向から王宮へと急速に近づいてくる。
「な、何事だ!?」
高宗が玉座から立ち上がった直後、血相を変えた武官が転がるようにして御前に駆け込んできた。
「ほ、報告いたします!! 宣恵庁(給与の支給所)にて、旧式軍の兵士たちがついに暴動を起こしました! 暴徒と化した兵士たちは、武器庫を襲撃して銃を奪い……今、この王宮と、日本公使館に向けて進軍しております!!」
「……遅かったか」
高宗は、玉座に崩れ落ちるように座り込んだ。
足元に平伏していた閔謙鎬は完全に腰を抜かし、閔妃もまた、その美貌を絶望に歪ませていた。
滝脇慶家が日本の参謀本部から放った情報の矢は、見事に的を射ていた。だが、それを重く受け止めた朝鮮王朝が「閔謙鎬一人の咎」として法的に裁き、事態を収拾するには……彼らに残された時間は、あまりにも足りなかったのである。
兵站を奪われた兵士たちの怒りは、もはや誰の命令も届かない巨大な業火となって、漢城の街を焼き尽くそうとしていた。
―――
漢城の空を、どす黒い暴動の煙が覆い始めた。
武器庫を襲撃し、小銃と槍で武装した数千の旧式軍兵士たちは、もはや統制の利かない怒りの濁流となって、市街地を蹂躙していた。
その怒りの矛先の一つである「日本公使館」。
しかし、そこには史実のような「不意を突かれた大混乱」は存在しなかった。
「暴徒の接近を確認! 距離、五百!」
「撃ち方待て。無駄弾は撃つな。我々の任務は敵の殲滅ではない、『脱出』だ!」
公使館を警備していた日本陸軍の警護部隊は、数日前から参謀本部(滝脇慶家)よりもたらされていた『暴発の可能性極めて高し』という極秘電信を受け、すでに有事の態勢を完了させていた。
彼らは、漢城内に散らばっていた居留民(商人や民間人)をいち早く公使館内へと収容し、書類の焼却と武装の点検を終えていたのである。
「公使閣下、および居留民の保護を最優先とする! ここを放棄し、一目散に済物浦(チェムルポ・港)へと撤退する!」
指揮官の号令のもと、警護部隊は一切の躊躇なく公使館に火を放ち、自らの判断で退路を切り開くための機動を開始した。
プロイセン式の「命令を待つ」硬直した軍隊ではない。慶家が徹底的に叩き込んだ「現場の状況判断による流動的機動」が、ここで完璧に機能していた。
彼らは迫り来る暴徒に対し、中隊規模の統制された一斉射撃で足止めを行いながら、血路を開いて港へと整然たる後退戦を展開していったのである。
一方、暴動のもう一つの標的である「王宮」。
怒り狂った兵士たちがついに城門を打ち破り、宮内へと雪崩れ込んできた。
先ほどまで高宗の御前で平伏していた閔謙鎬は、逃げ惑う最中に暴徒に見つかり、哀れにも無数の槍に突かれて惨殺されていた。
「お、王様! こちらへ!」
「駄目だ、外はすでに暴徒で溢れ返っておる! どこへ逃げればよいのだ!」
玉座を捨て、奥御殿へと逃げ込んだ高宗と閔妃であったが、護衛の武官たちも次々と逃亡し、完全に孤立無援の窮地に立たされていた。
外からは、彼らを探し回る兵士たちの怒号と、障子や調度品を破壊する音がひしひしと迫ってくる。
もはや、これまでか。
高宗が絶望に目を閉じた、その時である。
「――国王陛下、および王妃殿下。こちらへ」
天井の梁、あるいは屏風の裏の死角から。
音もなく、黒ずくめの衣服を纏った数人の男たちが、王と王妃の目の前に『出現』した。
「ひぃっ!? き、貴様らは何者だ!」
「大日本帝国陸軍参謀本部より、両殿下の『命(国益)』を保護せよとの密命を帯びた者たちにございます」
流暢な朝鮮語で答えた彼らは、商人として長期潜伏していた「草の者」たちではない。慶家の手足となって動く、有事の際の戦闘と要人警護に特化した短期行動部隊――すなわち、近代兵器と古流武術を併せ持つ『隠密』たちであった。
「に、日本の軍人だと……? なぜ、お前たちが王宮の奥深くに……!」
「ご説明している時間はありません。追っ手が来ます」
隠密の一人が、躊躇うことなく奥御殿の床板の一部を蹴り外した。
そこには、王宮の裏手へと続く、暗く狭い『抜け道』が口を開けていた。
「この経路は、我が方の『草』が数年がかりで買収し、密かに整備しておいた逃走ルートにございます。すでに港へ向かうための馬と護衛も手配済み。さあ、急ぎ足をお運びください」
高宗と閔妃は、あまりの事態に息を呑んだ。
日本の諜報網は、暴動の発生を正確に予測していただけでなく、あらかじめ王宮の構造を把握し、いざという時に他国の国家元首を秘密裏に連れ出すための「脱出ルート」まで、完全に盤面に用意していたというのだ。
「……恐ろしい国だ、日本とは」
閔妃は、震える唇を噛み締めながら、隠密に促されるまま暗い床下へと足を踏み入れた。
自分たちを助けてくれたことへの感謝よりも先に、王宮の最深部すら自らの庭のように手回しを終えていた「日本という怪物の底知れなさ」に対する、強烈な恐怖が勝っていた。
かくして。
壬午事変という巨大な暴発の裏で、日本の国益にとって最大のカードである「高宗と閔妃」は、滝脇慶家の張り巡らせた見えざる手によって、暴徒の刃から完全に保護され、闇夜の漢城から静かに消え去ったのである。




