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葵三つ葉  作者: 丸亀導師
中つ事
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中事 8

帝都・東京で、議会発足と憲法草案という国家の基礎工事が凄まじい熱量で進められていたその裏で。

滝脇慶家は、一切の政務と軍務を部下や同僚に預け、数日間の休暇を取っていた。


彼が向かったのは、己の原点であり、家族が待つ地――駿府(静岡)であった。


フランスへの留学から始まり、帰国直後の九州での凄惨な鎮圧戦、そして陸軍省での査問会と、この数年間、彼はただの一度も親元へ顔を出していなかった。手紙でのやり取りこそ欠かさなかったものの、それはあくまで「生存報告」に近いものであった。


どれほど冷徹に盤面を支配し、人の命を数字として割り切る男であろうとも、彼の中には前世(家康)から引き継いだ、血の繋がりに対する深く泥臭い『情』が確かに存在していた。


「……随分と、景色が変わったな」


辻馬車に揺られながら、慶家は窓の外に広がる静岡の街並みを眺め、目を細めた。


かつて、江戸を追われた旧幕臣たちが寄り集まり、貧しさと屈辱の中でその日暮らしをしていた没落の街。しかし、今の静岡には、当時の重苦しい空気は微塵も残っていなかった。


渋沢栄一らが牽引した「徳川式近代税制」と、農村への資金流入。


その恩恵を最も劇的に受けていたのが、他ならぬこの静岡であった。牧之原台地を開拓した旧幕臣たちの茶畑は、良質な「輸出用製茶」として莫大な外貨を稼ぎ出していた。街には真新しいレンガ造りの銀行や商家が建ち並び、行き交う人々の顔には、確かな富と明日への活力が満ち溢れていた。


(みな、よく生き抜いた。……もう、徳川の旧臣だからと下を向く必要はない)


街の喧騒を抜け、静かな武家屋敷の面影を残す一角へ。

滝脇家の門をくぐった慶家を出迎えたのは、転がるようにして玄関へ駆けつけてきた母・菊の涙と、厳格な父・清孝の微かに震える声であった。


「市之進(慶家の通称)……! よくぞ、よくぞ無事で戻ってきてくれました……!」


母の菊は、立派な将校の軍服に身を包み、見上げるほどに逞しく成長した息子の腕に縋りつき、ボロボロと涙をこぼした。


「母上、ご無沙汰をしておりました。不孝をお許しください」


慶家は、戦場で敵を絶望させた時とは全く違う、ひどく穏やかで優しい手つきで母の背を撫でた。


奥の座敷では、父である清孝が、立派な髭を蓄えながらもどこか緊張した面持ちで座っていた。新聞で報じられる息子の異例の出世と、九州戦線での恐るべき武功。一介の幕臣であった父からすれば、目の前の息子はすでに、自分の理解の及ばない「途方もない大物」へと変貌してしまっていたのだ。


「……父上。ただいま戻りました」


「お、おお。大儀であった、市之進。……いや、今は滝脇中尉殿、と呼ぶべきかな」


「よしてください。家の中では、私はただの不肖の息子にございます」


慶家が苦笑しながら深く頭を下げると、清孝もようやく肩の力を抜き、目元を熱くして深く頷いた。

その横から、「兄様!」と弾んだ声を上げて顔を出したのは、妹の松(まつ)であった

。

慶家が海を渡った時はまだ幼さの残る少女であったが、今や見目麗しい、大人の女性の入り口に立つ年頃へと成長していた。


「松、大きくなったな」


慶家は目を細めると、持参した革鞄の中から、丁寧に包まれた小箱を取り出した。


「フランスからの土産だ。父上と母上、そして松にも」


箱の中から現れたのは、精巧な細工が施された純銀の『懐中時計』であった。


蓋を開ければ、オルゴールのように美しい音色で時を刻む。当時の日本(ましてや地方)では、どれほど金を積んでも手に入らない、欧州の最先端の工芸品であった。


「こ、こんな高価なものを……!」


「良いのです。私が向こうで、少しばかり『情報』を売って稼いだ小遣いですから」


慶家は事もなげに笑った。列強の外交官たちから最高機密を抜き取る交渉の場で、彼らを懐柔するために使われた裏金の一部が、こうして平和な家族の団欒を彩る土産へと姿を変えていたのである。


夜になり、家族水入らずの夕餉の席。


美味しい酒と地元の魚が並ぶ中、話題は自然と、妹・松の『婚約の話』へと移っていった。


「実はな、市之進。松に良い縁談が来ておってな。相手は、静岡で製茶の商いを広げている気鋭の若旦那なのだが……」


清孝が、少し言いにくそうに切り出した。武家ではなく商人の家への嫁入り。かつての身分制度を重んじる旧幕臣の意地からすれば、少し前までは考えられない話であった。


しかし、慶家は箸を置き、真剣な顔で頷いた。


「身分など、これからの時代は何の意味も持ちません。商才があり、この静岡の地を豊かにしようという志のある男ならば、大いに結構なことです」


「ほ、本当か! 兄様が反対するかと思って、ずっと気を揉んでいたのです……」


松が、ホッと胸を撫で下ろして笑みをこぼした。

慶家は、妹の無邪気な笑顔を見つめながら、かつて前世において、政略の道具として幾人もの娘や孫娘を非情に嫁がせてきた記憶を、脳裏の片隅で静かに反芻していた。


天下を獲るため、血を繋ぐため。家康としての彼は、家族の情を殺して冷酷な采配を振るい続けた。


(……だが、今の私は天下人ではない。ただの、滝脇慶家だ)


「松。お前がその相手を好ましく思っているのなら、兄としてこれほど嬉しいことはない。……だが」


慶家の声が、不意に一段低くなった。

そこには、戦場で数万の敵をすり潰した「覇王」としての凄みと、妹を絶対に守り抜こうとする「過保護な兄」としての執念が、奇妙に混ざり合っていた。


「その若旦那の商いの帳簿と、身辺の素行、そして『本当に松を生涯かけて守り抜く覚悟があるか』。……念のため、私の部下を使って、三日ほどで徹底的に洗い出させてもらおう。万が一にも、お前を不幸にするような隠し事があれば、私が直々にその男の社会的な息の根を止める」


「あ、兄様!? そこまでしなくて結構です! 怖すぎます!」


「市之進、お前、軍隊で一体何を学んできたのだ……」


松が慌てて抗議し、清孝が呆れたように額を押さえる。母の菊だけが、コロコロと楽しそうに笑っていた。


「よいではないですか。お兄様は、松のことが可愛くて仕方がないのですよ」


冷徹な計算と謀略で、日本の歴史を強引に前へと回し続ける若き特異点。


しかし、この静岡の小さな武家屋敷の中だけには、確かに、血の通った温かな「家族の情」と、穏やかな笑い声が満ちていた。

それは、滝脇慶家がこれから先の長く険しい近代戦の道を歩み続けるための、かけがえのない『心の錨(いかり)』となったのである。


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