力の正体
まだ世話を焼こうとするソフィーにやんわり言って、万が一の為に部屋から出てもらう。
後にしようかと気遣う翔に、亜里沙は首を横に振った。
「私は大丈夫だから、話そう」
翔は眉尻を下げて亜里沙を見たが、やがて頷いた。
亜里沙はベッドに腰掛け、翔は小さな椅子に、少し離れた位置に向かい合って座っている。
「ニーズは起きてる?」
亜里沙はニーズに呼びかけてみた。少しして気配がしたが、ニーズは何も言わない。
「……今起きたよ」
翔は頷いたが、まだ迷いがあるようで難しい顔になる。何度か口を開きかけて、やめる。
「翔くん、大丈夫だよ」
近くにいたなら手を握って安心させたいところだが、この距離は翔の配慮の表れだ。亜里沙は翔の方に身を乗り出す程度にとどめた。
「ちゃんと聞くし、一緒に考えよう?」
翔は一度、ぐっと堪えるような表情を浮かべた。そうしてようやく、口を開いた。
「……来訪者が通る空間。俺は覚えてないけど……そこには、クルスが沢山いるんだよね?」
「うん。来訪者の体を狙って、集まるって」
「実際、あの洞窟でも亜里沙ちゃんと俺が狙われたようだったし」
「うん」
「クルスは……女神の力が人の姿を得たもので」
「うん」
「……クルスがその力を使うとなると、多分、肉体が必要になるよね」
亜里沙は目を見開いた。
喉の奥で引っかかっていた何かの正体が、分かった気がした。
「俺がクルスについてそう思ったのは、亜里沙ちゃんがニーズの力を使っているから……ニーズが、力は肉体を通して使っていたって話を聞いていたから」
「……待って……それ……」
翔は目を伏せて、小さく頷いた。
「……来訪者の力の正体は、クルスだ」
耳鳴りがするような静寂が訪れた。
ニーズは答えない。だがその存在に意識を向けると、痛いほどの悲しみが亜里沙の胸に流れ込んだ。
一粒の涙がこぼれ落ち、亜里沙は左目の下をそっと押さえた。
亜里沙の動きに気付いて目線を上げた翔が驚く。
「亜里沙ちゃん?」
「大丈夫……続けて。多分、合ってると思う」
言葉尻は震えた。
翔は目を見開いたが、しばらくして、再び目を伏せた。
「多分、来訪者はあの空間を通る時に……と言うより、入った瞬間にクルスに体を乗っ取られるんだ」
あの空間で起こった事と、洞窟での出来事の意味が亜里沙の中でやっと繋がる。
「だけどヒューゴの話だと、完全に人格が入れ替わったり意識や記憶がなくなる訳じゃないんだと思う。ただ、自己犠牲的な献身とか、人を疑わないとか、そう言った気持ちの部分ですごく影響を受けて、本来の人格がそれに逆らえないんだ」
自分の世界に帰りたいという当然の思いを、亜里沙と翔以外の誰も抱かなかった。それが、クルスの影響なのだ、と。
「愛欲……の部分も、クルスが肉体にすごく憧れを抱いているなら、おかしな事じゃないかも知れない」
一度言葉を切った翔の顔が歪んだ。
「ニーズ、答えてくれ」
翔の重い声色に、ニーズが緊張したのが分かった。
「来訪者は、本当は選ばれた人間なんかじゃないんだろ」
ニーズの緊張が高まって、亜里沙の心臓が強く打った。
「ニーズが適当に連れて来て、適当なクルスが取り憑くんだ。力の大小によって役割が違って、そして何らかの理由でクルスの影響が消えた時、やっと自分を取り戻して帰って行くんだろ?」
背筋が寒くなる。これは自分の感覚だろうか?
「……この世界の人間じゃ駄目なのも、クルスが異世界の人間にしか興味を示さないからだろ……どうやって、それを知ったのかは知らないけど」
(ニーズ……)
亜里沙は一度ニーズの名を呼んだ。
果てしなく感じる程の沈黙の後、ニーズの弱々しい声が、翔の問いに答えた。
『……我は、来訪者を選んではいない。入り口を開いてあの世界と繋がった後、近くにいる者を連れて来ていた』
亜里沙は自分の顔がひどく強張るのを感じていた。
「誰でも良かった、てこと?」
亜里沙が小さく呟くとニーズが再び緊張したのを感じる。
『……そうだ』
返ってきた答えに脱力する。
これを聞いた翔が強く歯を噛み締めたのが分かった。
「何でクルスは異世界の人間の体を欲しがるんだ?」
『……クルスは基本的に、自分の欲求を叶える為に動く。クルスが体を得たい理由は先にも言った通りだ』
一度言葉を切って、ニーズは声を落とした。
『クルスが来訪者の体にしか入らないのは……女神がこの世界の人間を守ろうとしているのを、知っているからだ』
亜里沙の口からニーズの答えを聞いた翔は顔をしかめた。
「最悪だな。その理屈だと、“体を乗っ取る行為は悪だ”と認識してるって事じゃないか」
『……そうだ』
「そして、それに抗えた人はいないんだね」
『ああ……』
「じゃあ、来訪者の体を乗っ取ったクルスがみんなこの世界を救おうとしたのはどうして?」
『あれは自分の欲求に忠実だが、同時に女神の意識の影響も受けるからだ』
「じゃあどうやって、その影響が消える?」
『それは……クルスが死んだ時だ』
亜里沙はこれもそのまま伝えようとして、ふと気が付いた。
(え? でもクルスは死んだら……)
『それはクルスが力を保持したまま死んだ時の話だ。来訪者の中に入ったクルスは、体に入る際に力が削られ、その体で活動する間も力を消費していく。そして我と違って、本体は魂ではなく力であるから、その力を使い切ると、消滅する』
ただし、とニーズは続ける。
『すぐに消える訳ではなく、少しずつ散るように、消えていく。クルスは来訪者に言葉と役割を与えていただけではない。守ってもいたのだ。そんなクルスが完全に消えてしまえば、来訪者は……だから、そうなる前に我が入り口を開いて送り返していた』
それを聞いた翔は、目を見開いた。
「……そうだよな。大変な事になるのは分かるよ。残れないっていうのはそういう事なのか……」
ニーズが沈黙した。少しして、翔が口を開いた。
「最初の来訪者は三十年この世界にいた。という事は、入ったクルスは三十年生きた、だよね。それだけ力が強かったって事?」
『あの来訪者には、三体のクルスが入った』
「三体も……」
亜里沙が驚愕の声で呟くと、翔も悟ったようだった。
「ひとりの人間にそんなに入って、その人は無事だったの?」
怖い顔で問い詰める翔。しばらく迷うような気配があって、ニーズが小さく言った。
『……我が一度、来訪者を連れて来るのをやめた時期があった。何とかしようとしたが追い付かず、その時の穢れは世界を覆い、水が毒された』
ティラにあった貯水槽を浄化した時、ニーズがその事を口にしていた。
『そうして、他に方法がなく……連れて来た来訪者に、十体のクルスが入った。その者は……世界を確実に救ってくれたが、肉体が崩壊した』
亜里沙は喉が引き攣って話せないのではないかと思った。何とかそれを翔に伝えると、翔は目を見開いて勢いよく立ち上がった。
翔は口を開きかけて、亜里沙の顔を見ると、うっと唸って言葉を飲み込んだようだった。
目線を亜里沙から外し、翔は深呼吸した。
「……亜里沙ちゃんが無事な理由は分かってるけど、俺が無事だったのはどうして?」
『それは……』
また迷うような気配がして、ニーズは歯切れ悪く答える。
『覚えていない……だが、カケルから、我の魂の破片の存在を感じる……恐らく、我が魂をほんの少し分けて、カケルに与えたのだろう……破片でもクルスより強力だから、無事だったのだ』
何故そんな事をしたのか思い出せない、とニーズは小さく言った。
ニーズが嘘を吐いていない事が分かった亜里沙は、そのまま翔に聞かせた。
翔は苛立ってため息を吐く。
「じゃあ……適当に連れて来ていたのに、茉利咲ちゃんを連れて来ようとしたのはどうして?」
『それ、は……』
ニーズが言葉を紡ぐ前に、亜里沙は気付いてしまった。
「ニーズ……茉利咲を連れて来ないといけなかった理由も……クルスから守った理由も、覚えていないんだね?」
『…………そうだ』
消え入りそうな声に、亜里沙が思わず吐いた息が震えた。
「ニーズは、覚えていないみたい」
ついに翔がカッとしたのが分かった。
「いい加減にしろよ!!」
怒鳴られて目を瞬く。翔はハッとして亜里沙から目を逸らし、だが怒りは収まらないようだ。
「……これ、何とかならないのか? ニーズの声を、俺も直接聞けるようにしてくれ! 亜里沙ちゃんの口から腹が立つ事を聞きたくないし、何より亜里沙ちゃんに怒鳴ってるみたいで嫌なんだよ!」
「翔くん……私なら大丈夫だよ、ちゃんと分かってる」
「でも俺が嫌なんだ!」
亜里沙は翔の気持ちを汲んで、ニーズに語りかけた。
『……分かった。やってみよう。我の魂の破片と共鳴出来れば、それくらいなら出来るかも知れない』
(どうすればいい?)
『破片に触れるのだから、カケルに出来る限り触れてくれ。触れる範囲が広く、また深ければなおいいが、難しいだろうから、お前のやり方でいい』
その言葉の意味を考えてしまう前に、亜里沙は立ち上がって翔に近付いた。
「翔くんに入ってる破片と共鳴してみるって。えっと、両手を繋いでいい?」
「あ……分かった……」
翔は恐る恐る両手を差し出した。亜里沙は思い切ってその両手を握りしめる。
『まだ遠い。もう少し接触してくれ』
焦って混乱した亜里沙は「ごめん!」と言って自分の額を翔の額にくっつけた。
勢い余ってゴチッと音がし、お互い短く唸る。
「……った……ご、ごめん翔くん」
「い、いや、俺が我儘言ったんだし……」
これで駄目ならハグしかない。亜里沙は心配だったが、ニーズは無言になったので、恐らくこれで良かったのだろう。
どのくらいそうしていたのか、どちらの手か──それとも両方なのかは分からないが──汗ばんで来た時、ニーズの小さな声がした。
『……これで、カケルが我の声を聞けるようになったはずだ』
亜里沙がパッと離れると、驚いた翔と目が合った。
「これ……ニーズの声?」
『そうだ。だが、出来るようになったのは我の声を、我の言葉を聞く事だけだ。それ以外は今まで通りだ』
「……そっか、もしかしたらって期待したけど……その他の言葉は相変わらず分からないままなんだ」
暗い表情で呟いた翔は、眉を顰めた。
「ニーズ……こんな声してるんだな……この、声……」
「翔くん?」
「……あ、ごめん。何でもないよ」
翔は亜里沙から視線を外して、口を開いた。
「まだ色々聞きたいけど……最後に一つ、いいかな」
『……ああ』
「適当に連れて来ているなら、存在だけで穢れが消えていくっていうのは、どういう仕組み? それ、俺たちにも当てはまる?」
『それは……お前たちにも当てはまる。ただ、今は穢れが蔓延しているから、浄化していかないと時間がかかるか、追い付かない可能性もある。存在が穢れを落ち着かせる理由は、あの世界から来た者の特性……としか、今は言えない』
翔は小さく笑った。それはどこか皮肉めいた響きだった。
「今度は“理”って言わないんだ……まあ、いいよ。結局俺は、俺たちが無事に、少しでも早く帰れるならそれでいいと思ってるから」
しばらくして、ああ、とニーズの静かな声がした。




