異世界転移
呆ける亜里沙に、先ほどの声が語りかけてくる。
『おい、しっかりしろ。大丈夫か? おい?』
硬直したままでいたせいか、声が焦りを帯びて返事を急かしてくる。
「あの……ここはどこ」
ひとまず大きな疑問から、やっと言葉を絞り出す。
『ここはカンドルヴィア王国だ』
「ええっ、どこ?」
聞いた事もない国の名前に足の力が抜け、ふらついた踵が何かに躓いて、ペタンと綺麗に座り込んだ。
改めて周囲を見回してみる。
来た方向にはあの空間の痕跡はない。
石造りの建物の跡地のような場所に、亜里沙は座っているようだった。数段しかない階段の一番上に腰掛けている。
この感じ、どこかで見た古代の神殿跡の写真に似ている。
『おい』
「わあっ!?」
再び呆けていたら頭の中からガン、と響くような声がした。
頭の中?
「え!? 頭の中で声がするんだけど! 誰!?」
今更の疑問だったが仕方ない。
この状況を理解したいのに何一つまともに分かることがない。
「トカゲ!? もしかしてあのトカゲが喋ってんの!? どこに行ったの!? 何で頭で喋ってんの!?」
『少し落ち着け。まず我はトカゲではない。お前も見た通り、我はドラゴンだ』
ドラゴン、と噛み締めるように呟く。見た通り、と言われても亜里沙の目にはトカゲにしか見えなかったが。
いや、確かトカゲの種類にそんなのがいた。
『念のためもう一度言うがトカゲではないぞ。なぜお前の頭の中で声がするかというと、それは』
いやそもそもトカゲは話さない。
「いやいや、現実なわけない、そんなわけない。だってトカゲは喋らないし、夢だよね、これは夢だ」
覚めろ、覚めろ、と頭を抱えて呪文のように繰り返す亜里沙に、少し同情的な声が語りかける。
『我はドラゴンであって、トカゲではない。我が喋るのはドラゴンだからだ。そして、これは夢ではない』
「勝手に答えないで、ていうか喋んないで!」
むう、と唸るような声がして、頭の中は亜里沙自身のパニックを除いて静かになった。
どれくらいそうしていたのか、唐突に冷静さを取り戻した亜里沙は顔を上げた。
どこを見ていいか分からず、宙で視線を泳がせる。
「あの、夢じゃないのは分かったんで、帰りたいんですけど」
『それは出来ない』
「即答しないで、せめてちょっとは間を置いてよ!」
再び頭を抱えて、亜里沙は何度か深呼吸を繰り返した。
「えっと……そうですね……まず、あなたはドラゴンで」
『ああ』
「ここは日本じゃない」
『ああ、大陸の東に位置するカンドルヴィア王国だ』
だからどこなのだ、そこは。
大陸と言われても。
「それで、なぜ私はここに……?」
『お前が選ばれた者だからだ』
「え、選ばれた?」
『この世界では“異界からの来訪者”と呼ばれる存在だ。来訪者はみなこの世界を救う役目を持ってやって来る』
来訪者、と口の中で繰り返していた亜里沙はふと口をつぐんだ。
ゆっくりと目を見開く。
「いや、待って? この世界では、って何、“この世界では”って?」
『この世界はこの世界だ。お前の世界とは違う』
そんなことを言われたら、どんなに突飛でも考えつくことが一つに絞られてしまうのだが。
「何……? ここ、異世界……?」
『ああ、そうなるな。お前は選ばれた』
選ばれた、と繰り返す声。
ここが異世界ということだけでも呑み込むのが大変なのに、選ばれたとは。亜里沙は小さく歯噛みした。
「誰がそれに私を選んだの? あなた? 私を連れて来たのもあなただし」
自慢じゃないが割とどこでも寝られることと、そこそこある体力以外で秀でたものなどない、と亜里沙は自分で思ってほんの少し情けなくなった。
自称ドラゴンは、あなたが選んだのか、という問いには答えなかった。沈黙はもはや肯定だろう。このドラゴンのせいで、こんな訳の分からないことになっている。
亜里沙は齧った程度にならファンタジー作品を知っている。これはいわゆる異世界転移という現象なのだろう。
「あの……私、ちゃんと帰れるんですか……?」
襲いかかってきた諦めと絶望で声が震える。
『役目を果たせば』
それは肯定のはずで、こんな理不尽な状況では希望であるはずだったが、果てしなく重い言葉だった。
役目を果たすだなんて。それが難しいことだったらどうしたらいいのだろう。
そうして再び亜里沙が脱力した時だった。
「おい、あれ……」
亜里沙が顔を上げると、中年の男性がふたり、少し離れた位置からこちらを窺っていた。
思わず肩が大きく跳ねる。全く気配がしなかった。
ふたりとも薄い茶髪と灰色の瞳。色もそうだがその顔つきも、西洋の外国人のそれだ。
くすんだ緑と茶色のマントをそれぞれ羽織っている。
マントから覗く服は一目で上等だと分かるものの、その服もマントも現代のファッションとは言いがたい。
中世を舞台にしたファンタジーな映画でしか見た事のないようなデザインで、印象としては金持ちの旅人だ。
「どこの人間だ? この森には立ち入れないようにしてあったはずだが」
「なあ、あの風貌。もしかして」
警戒と緊張で少しも動けない亜里沙に、ふたりの男はおずおずと近寄って来る。
「ああ……やっぱりそうだ!」
左の緑マントの男に笑みが浮かぶ。
「まさか、来訪者様か? 珍しいお召し物だというのは本当だったんだな」
右の茶マントの男の顔も明るくなった。
「ああ、十年前、遠くからだったがお姿を見た事があるんだ。お召し物もだが、お顔立ちがその時の来訪者様と似ているよ!」
「なんと、イーリス様に感謝申し上げねば!」
よくぞこの時に、とふたりは亜里沙の目の前で嬉々として語り合っている。
(言葉が分かる……異世界だから?)
外国語でも話されていたら頭が真っ白になるところだった。
亜里沙は視線だけでふたりの男を交互に見ていたが、緑マントが何かに気づいた様子で跪いた。
「なっ、何」
視線を追うと、亜里沙の剥き出しの両膝が擦りむけている。
思ったより大きな怪我で自分が一番驚いた。途端にジンジンと膝が痛みを訴える。
「手当てしましょう」
言って、男は腰のベルトに下げた皮の袋から怪しげな瓶を取り出す。
「いやっ!」
膝に手が伸びるのを見て反射的に出た拒絶だった。
男たちは目を丸くし、顔を見合わせる。
「あの……来訪者様、ですよね?」
茶のマントの男が不安げに眉尻を下げる。
「えっ?」
普通、その確認は真っ先にするものではないのか?
そしてそんなことを聞かれても、亜里沙がそれに答えるというのもどうなのだろう。
そもそも望んで来たわけではない。
「あの、それ、どういう意味ですか?」
むっとして聞くと、ふたりの男は何故かほんの少し怯えた様子を見せた。
(何? 何でそっちが怖がるの?)
「おい、滅多なことを言うな」
緑のマントが小声で苦言を呈して、亜里沙に向き直る。
浮かんだ微笑みは優しかった。
「こちらへ来られたばかりなのでしょう? 混乱されるのも無理はない」
茶のマントも思い直したように笑みを浮かべた。
「春先とは言えまだ冷えますし、このままここに居ては風邪を引きます。我々の野営地へお越しください」
「春先……? 今、6月じゃないんですか?」
確かに少し寒いと思ったが。
「ああ、そちらの世界とは暦が異なるんですよ」
そうして男が口にした日付は2月8日だった。
けして危害は加えません、と言われた亜里沙は、恐る恐る立ち上がった。まだふらつくし上手く力が入らない。
人の良さそうなふたりに、ひとまず従ってみることにする。
『我は少し寝る』
「ひぃっ!」
ふたりが揃って振り返る。手で口を覆い、目を丸くする男たちに首を横に振ってみせた。
衝撃的なことが続いて一瞬このドラゴンの存在を忘れていた。
『我のことは絶対に他言するな。お前の命にも関わることだから、くれぐれも話すなよ』
抗議したかったが、とにかくこの場では話せない。
言いたいことだけ言ってドラゴンの声はふつりと途切れたので、宣言通り寝たようだ。
ドラゴンのことを誰かに話す?
頭がおかしいと思われるだけでは?
(いや、でも、異世界だし……)
亜里沙は前のふたりに気づかれないように頭を振った。
望んで来てもいないのに、命に関わるなどと脅されるとは。
だが威圧的な声であんなに恐ろしい事を言われては、ひとまず従うしかない。
寝てしまったようなので伝わるか怪しいが、亜里沙は頷いた。




