始まり
その日、鈴木亜里沙は急いでいた。
いつもより遅くなった高校からの帰り道。
街灯が灯ったのが見えて焦る。
体力にはそこそこ自信のある亜里沙でもこの全力疾走はきつかった。夏服を着て来なかった事を後悔するくらい汗が噴き出す。
「みおのバカ……!」
つい口をついて出るクラスメイトであり仲良しへの悪態。
だって今日は、推し配信者のマコトくんの復帰記念の配信があるから絶対、絶対リアタイするってあれだけ言っておいたのに。
そんな大事な日に限って亜里沙がスマホを家に忘れたこともみおだって知っているのに。
差し掛かった分かれ道で亜里沙は一瞬躊躇った。
普段ほぼ人通りも無く、昼でも薄暗い路地。ここを使えば家までかなり短縮できる。
人がいない場所は怖くて、いつも避けていた道だが──マコトくんの為ならば、乗り越えられるというものだ。
心の中でマコトくんの名を叫びながら亜里沙は路地の先へと走った。
異変はすぐに起こった。
亜里沙が覚悟を決めて路地に飛び込んですぐ、目の前に何か真っ白いものが見えた。
ぶつかりそうになって足を止める。
「……猫?」
じゃ、ない。
それは猫ほどに大きな、多分トカゲだった。
何でこんなところにトカゲ。
丸まって地にへばりつくトカゲの側を通り過ぎようとして、良心が咎める。
「あの……どこかで飼われてる子……?」
もちろんトカゲは答えないが、荒く上下する背中がとても苦しそうだ。
爬虫類の事は詳しくないにしろ、飼育されていた場所から逃げ出したのは明らかだ。
それにしても、このトカゲの近くに来るにつれ、何かおかしな音が聞こえるが呼吸音だろうか?
呼吸音にしてはどこか、人の声のようにも聞こえてゾッとする。
何故そんな事をしようと思ったのか、亜里沙は怖々トカゲを抱き上げた。
見た目より軽いというか、どことなくふわふわした感触だ。
噛まれるかも、とか、そもそも動かしていいのか、とかそういう疑問は後からやって来た。
『ようやく……』
「えっ?」
空耳か?
亜里沙はトカゲを持ち上げてみたはいいものの、そのままの姿勢で固まった。
よく見たら背中に魚のヒレのようなものがあり頭に何だか角みたいなものが二本生えているが今はそんな事は些細な問題だ。
「えっと……どうしよ」
この後の事をまるで考えていなかった。
昔からよく考え無しと言われる亜里沙の頭が必死で回転し始めた時だった。
「……ん? あ、あれ……?」
いつの間にか暗闇に包まれている。慌てて辺りを見回す。
街灯が消えた?
目を慣らそうと閉じたり開けたりしていると、亜里沙の周囲、三歩ほど先にぼんやりと人影が見えた。
亜里沙は息を呑んだ。
ほとんど人通りのない狭い路地にこんなに沢山の人影が。それに、人影はなんでそんなに白いんだろう。
何か、音が聞こえた。先程トカゲから聞こえた音に似ている気がする。
それはおそらく人影の方から、女性の声だった。人影たちが口々に何かを言っている。
だけど何を言っているのかはまるで分からない。
気付くと亜里沙の周りの人影たちは、顔が分かる距離にまで詰めていた。
「ひっ……!」
今度はとうとう声が漏れた。
人影はみな恐らく女性だった。不気味に微笑む沢山の、頭も顔も体も白い女性。
どう見てもそれが人間のようには見えない。
思わず後ずさった時、抱き締める腕の中から男の声がした。
『何をしている……走れ!』
ほとんど反射的に亜里沙は女性たちの間を縫って走り出した。
何かの単語を繰り返し叫びながら、女性たちが追いかけて来るのが分かる。
「いっ、やだやだやだ! 怖い! 無理ぃ!!」
亜里沙の叫びに被せるように、腕の中のものが吠える。
『違う! この子はお前たちのものじゃない! 去れ!』
走り始めたはいいが足がやたらともつれる。
何かとてつもなくゴツゴツしたものの上を走っているようだ。
亜里沙がやばいと感じた時にはもう間に合わず、咄嗟に突き出した左手と両膝を強かに打ち付けると同時に、バサッと音がして腕のものが空中へ飛び出した。
無数の声が背後に迫る。
(逃げないと……でも……なんか、痛……苦しい)
打ちつけた手と膝が痛いのはもちろんなのだが、体中の関節が痛いし息が詰まってどうにかなりそうだ。
亜里沙の体が意思に反してその場に蹲ると、聞き取れなかったが焦ったような声がして、直後に背中から強い衝撃が突き抜けた。
『走れ!』
もう一度そう言われて、亜里沙は顔を上げた。
急速に視界が開け、ここが、見える限り何か透明な石のようなものでびっしり覆われた空間である事が分かる。
体が屈するほどの息苦しさと痛みは消え、素早く立ち上がった亜里沙はとにかく前方を目指して走った。
走り出して間も無く、周囲が明るくなり始めた。
それはすぐに目を開けていられないほどの眩しさとなり、あまりの眩しさにとうとう亜里沙の足が止まり、腕で顔を庇う。
しばらく続いた静寂が、唐突に破られた。
木々になる葉のささめき、鳥の声、遠くに滝のような音──
『……おい、もう大丈夫だ』
固く閉じた目を開け、恐る恐る腕を下ろす。
「……へ……?」
そこに広がっていた景色は、少なくとも住んでいる団地のものではなかった。
というよりも、亜里沙が生まれてから十八年の間、見た事もない大自然がそこに広がっていたのだ。
「……どこ……?」
間の抜けた声が亜里沙の口から漏れた。




