第九話 元近衛中将、生計を語る
朝凪は屋敷に戻ると、自室の机の上に広げた紙へ視線を落とした。
あの日、神祇官庁の門を通った者の名が、時刻とともに記されている。
官吏、女官、下働きの者。神事の準備に訪れた者まで含めれば、決して少なくはない。
だが、侵入者にはいくつか特徴があった。
まず、小柄だった。朝凪が肩を通せなかった建物の隙間を、あの者は難なく抜けている。
次に、宮城の造りを知っていた。追い詰められて偶然あの隙間へ逃げ込んだのではない。迷うことなく、最初からそこを目指していた。
そして何より、門を破った形跡がない。あの日、不審な者が塀を越えたという報告もなかった。
「……普通に門を通ったのか」
朝凪の指が、紙の上をゆっくりと滑り、やがて止まった。
──舞姫。
「……女か」
黒装束に身を包んでいたため、あのときは分からなかったが、小柄な身体つきも、細い隙間を抜けられたことも、それなら説明がつく。
何より舞姫ならば、神祇官庁へ出入りしていても不自然ではない。
朝凪はしばらくその文字を見つめ、それから別の記録を引き寄せた。
桜桃が、あの花びらを筥迫につけていた花宴の日に、桜桃のすぐ近くにいた舞姫は──。
「三人」
朝凪は三つの名を順に見た。
まだ決めつけるには早い。だが、この三人のうち誰かが、花宴で桜桃の持つ花びらを見て、その後、神祇官庁の一室へ忍び込み、それだけを盗んだのだとすれば。
「……」
朝凪は静かに紙を閉じた。調べるべき相手は、ずいぶん少なくなった。
◇
神祇官庁へ向かう回廊を歩きながら、桜桃は何度目か分からないほど後ろを振り返った。
いつものように桜桃の斜め後ろに、朝凪がいる。宮城へ戻ってからというもの、ほとんどこの距離が変わっていない。
「……朝凪、仕事にまでついてくるの?」
「部屋を荒らした犯人が、まだ見つかっていませんから」
あまりにも当然のように返され、桜桃は口をつぐんだ。
「朝凪のお仕事は?」
「姫様のほうが大切です」
迷いすらなかった。桜桃は足を止めた。
「駄目よ」
「何がですか」
「そんなことをして、お金を貰えなくなったら困るじゃない」
思いのほか真剣な声になった桜桃に、朝凪が目を瞬く。
「私、ようやく自分で稼ぐことの大変さを知ったのよ。働かないとお金は貰えないし、お金がなかったら食べるものにも困るんだから」
「そもそも姫様が働く必要などありません」
「え?」
「私の貯金で養えます」
桜桃は咄嗟に返す言葉が見つからず、朝凪の顔を見上げるが、朝凪は至って平然と桜桃を見下ろしていた。どうやら冗談ではないらしい。
「……私、一生働かなくても?」
「問題ありません」
「そんなにあるの?」
「姫様お一人くらいなら」
「近衛中将ってそんなにお給金がいいの……?」
「使う暇がありませんでしたから」
そういえば、朝凪が何かに金を使っているところをほとんど見たことがない。
衣も必要なものしか持たず、酒にも賭け事にも興味がなく、休みがあれば鍛錬をしている。考えてみれば、貯まる一方なのかもしれない。
「でも嫌よ。朝凪のお金でしょう」
「姫様のために使うなら、私のお金の使い道としては正しいです」
「正しくないわよ」
「そうですか?」
「そうです」
きっぱり言って、桜桃は再び歩き出した。
「とにかく、私は働きます。朝凪も働いて」
「では、姫様をお守りしながらできる仕事を探します」
「今の仕事をして!」
背後から、ほんのわずかに笑う気配がした。絶対に面白がっている。
桜桃が振り返ろうとした、そのときだった。
「あ、六花」
前方から声がした。
桜桃が顔を上げると、向こうから、三人の舞姫が歩いてきていた。花宴でも一緒に舞を披露していた娘たちだ。
「先日は大変だったわね。怪我はなかったの?」
「ええ。私は大丈夫よ」
そのうちの一人が桜桃へ近づいてくる。人懐こい笑みを浮かべた、小柄な娘だった。桜桃も何の警戒もなく足を止める。
「お部屋に賊が入ったと聞いて、皆で心配していたのよ」
「ありがとう。でも、本当に何とも――」
桜桃の言葉が、不意に途切れた。朝凪が一歩、前へ出たからだ。桜桃と舞姫の間へ半歩だけ身体を差し入れた。
「……朝凪?」
「何でもありません」
そう答えながら、朝凪は舞姫を見ていた。
小柄。細い肩。神祇官庁へ出入りしていても、誰にも怪しまれない。
先ほどまで自分の生計について大真面目に語っていた男の目から、笑みが完全に消えている。
別の舞姫が近付いてきて、桜桃に声をかける。
「でも、鍵が失くなったと聞いたわよ」
「え?」
その隣で、朝凪の目が鋭く細められる。
「どうして、それを知っているんですか」
舞姫が朝凪を見る。
「……何が?」
「盗まれたものです。神祇官庁へ賊が入ったことは公になっていますが、発表されたのは六花の私物が盗まれたということだけです」
舞姫の顔から、笑みが消えた。
「鍵がなくなったとは、誰にも話していません」
「……え?」
「なぜ、あなたが知っているんですか」
「……そう、だったかしら」
舞姫の視線が泳いだ。一歩、後ろへ下がる。
「誰かから聞いた気がしたのだけれど……私の勘違いだったみたい」
「誰からです?」
「ええと……」
舞姫は答えなかった。代わりに、くるりと踵を返す。
「待ってください」
朝凪が踏み込むと同時に舞姫が走り出す。
──やはり、舞姫の一人だった。
朝凪の手が刀へ伸びるが、三歩走ったところで朝凪の足が止まった。
「……」
(──おかしい)
自分が疑われていると気づいた者が、わざわざ鍵の話をするだろうか。
失言したとしても、なぜこんなにも分かりやすく逃げる。
(……囮か)
朝凪は慌てて振り返った。
「姫様!」
桜桃の後ろの窓が大きく開け放たれていた。
風に煽られ、白い御簾が激しく翻る。その向こうに、黒い影があった。
「――っ!」
朝凪が床を蹴る。だが、そのときにはもう遅かった。黒装束の男の腕が桜桃の身体を抱え込み、その口元を塞ぐ。
「ん……!」
桜桃が身を捩ると、朝凪と目が合った。
「姫様!」
伸ばした指先の向こうで、黒装束は桜桃を抱えたまま窓枠を蹴った。翻った衣が、窓の向こうへ消える。
「姫様──っ!」
朝凪は迷わず、そのあとを追った。
◇
神祇官庁への出入りを記した帳面を、昊夜はもう一度めくった。
外から忍び込んだ形跡がない以上、考えられることは限られていた。
門を通っても、不審に思われない者。
賊が入り込んだと思われる時刻。その前後に門を通った者から絞り込む。
神祇官。あるいは、神事のために日頃から出入りしている者。
「……舞姫か」
昊夜の指が、いくつかの名の上で止まる。花宴の日にも、舞姫たちは神祇官庁へ出入りしていた。
昊夜は帳面を閉じ、神祇官庁へ向かった。周囲を歩きながら、昊夜は行き交う者へ目を配る。
神官、女官、下働きの者。
少し離れたところでは、神事に使うらしい道具を運ぶ者たちがいる。普段と変わらない光景に、目に付く動きがあった。
「……?」
二階の渡廊を、二つの影が横切る。一人は黒い衣で全身を覆っている。もう一人は──。
「六花?」
見間違えるはずがない。黒装束の男が、六花の腕を掴んでいる。六花も自らついていっている様子ではなかった。何度か腕を振りほどこうとしているが、そのたびに強く引かれている。向かう先は、神祇官庁の奥にある楼閣だった。
「……何をしている」
次の瞬間には、もう走り出していた。
「おい!」
近くにいた近衛が振り返る。
「中将?」
「あの楼閣の下を固めろ。誰も通すな」
「御意!」
昊夜はもう一度上を見た。黒装束と六花の姿が、楼閣の中へ消える。昊夜は迷わず楼閣へ続く階へ向かった。
◇
楼閣の上まで連れてこられたところで、桜桃はようやく腕を振りほどいた。だが、逃げるより早く、黒装束の男が前へ回り込む。
「鍵の使い方を教えろ」
「知らないわ」
「どこで使う」
「だから、知らないって言ってるでしょう」
男の手が動いた。鞘から抜かれた短刀が、桜桃の喉元へ突きつけられる。
「言え!」
鋭い声とともに、刃先が迫る。桜桃は身を引いた。しかし、背後には欄干がある。その向こうには、遥か下の庭が見えた。
「本当に知らないってば! あれはお父様からいただいただけで、鍵だということだって、あとから知ったのよ!」
「父親から?」
男の目が鋭さを増した。
「なら、日向は知っているのか」
「え……」
桜桃が息を呑んだ、そのときだった。
「──その手を離せ」
低い声が響いた。振り返ると、渡廊の向こうに、朝凪が立っていた。
「朝凪……!」
朝凪の右手は、すでに刀の柄へかかっている。だが、抜かない。黒装束が桜桃の身体を引き寄せ、短刀をその首筋へ押し当てたからだ。
「動くな」
朝凪の動きがぴたりと止まった。
「刀から手を離せ」
「……」
「聞こえなかったか」
朝凪は男を見据えたまま、ゆっくりと柄から手を離した。その顔は静かだった。けれど、朝凪の視線は一度も男の顔を見ていない。
短刀。男の手首。桜桃との距離。欄干までの歩数。
ただそれだけを見ている。踏み込む隙を探しているのだ。
男も、それに気づいたらしい。わずかに身じろぎするたび、逃げ道を塞ぐように、朝凪の重心が変わる。
「……ちっ」
男が舌打ちした。このままでは逃げられないと悟ったのだろう。
短刀が桜桃の首元から離れた。朝凪が踏み込んだその瞬間、男は桜桃の身体を力任せに突き飛ばした。
「──っ!」
桜桃の腕を、短刀の刃が走った。熱い痛みが弾ける。次の瞬間には背中が欄干を越え、足の下から床が消えていた。
「姫様!!」
朝凪の顔から血の気が引いた。黒装束など、もう見ていなかった。




