5
「一度、大きな病気をして、全身麻酔をしたんですけど、その時に思ったんですよね」
彼女はファミレスのソファー席、対面に座り、真っ直ぐに僕の目を見ながら、早口に言った。正確には、僕の姿は見えてはいない。彼女の大きな黒目の瞳を覗き込んでいるのは、僕の方だった。
スマートフォンを操作し、SNSのアカウントを表示させる。
蛍の写真をアイコンにして、名前も「蛍」を名乗るアカウント、今僕の目の前にいる彼女のものだ。
「蛍」さんは、安楽死の制度化を訴え、何年もSNSで情報を発信していた。自らのことは、『とある障害のために、早急な安楽死を希望』とプロフィールにあった。
タイムラインを遡っても、彼女がどのような障害を抱えているのか明らかにしていなかったが、今日実際に会ってみてすぐに分かった。
「ひっくり返ったというのは?」
テーブルには、新商品のイチゴを使ったパフェのポップが立ててある。僕は質問をしながら、広告を端に寄せて、ボイスレコーダーの位置を整えた。
「全身麻酔をすると、一瞬で時間がワープして、起きたら何時間も経ってたって、よく聞く話じゃないですか?」
「経験はないですけど、そうらしいですね」
僕らが話しているテーブルの横を、女子高生の集団が大きな笑い声を上げながら横切った。
彼女も、笑い声が過ぎ去るのを待つために、テーブルのコップを探るようにして手に取る。
平日夕方のファミリーレストランなので仕方はないが、やはり取材には不向きな場所だった。
「わたしも手術のあと、一瞬で目を覚ましたんですけど、思ったんです。ああ、なんかこのまま」
目が覚めないでもよかったのになって。
笑いながらそう言うと、生きて目を覚ましたことが耐え難い不運だというように、唇を結んで悔しそうに噛み締めた。
レコーダーの電源を入れようかと迷ったが手を止めた。
今日は『安楽死賛成の立場として、取材をしたい』という名目で彼女に連絡をしたが、正直仕事など、どうでもよかった。
記者の立場を使って、彼女にDMを送ったが、会社にも黙って、今僕はこの場所にいる。
「その時にはもう、安楽死について考えていたんですか?」
軽やかなメロディーの流れるファミレスには、あまりにも似合わない言葉だろう、声にしてから気づいた。
だが、彼女は「安楽死」という言葉に動じた素振りは見せず、自分でもよく分からないというように、首を少し横に傾けながら、僕の問いに答えた。
「いや、その時は死にたいとか、そういうのぜんぜん無かったのに、べつに麻酔から覚めてもよかったし、覚めないでも別によかったのにって、なぜか思ったんです」
取材では、相手が話やすいように、深く相槌を打つようにしている。いつもの癖で今もそうしたが、ハッと思い直して、ちゃんと声にして「そうなんですね」と言い直した。
彼女、蛍さんは目が見えていないようだった。
二ヶ月前、妻のスマートフォンを見たときに、僕の知らない妻のSNSアカウントを見つけた。
これまでは、家族だからと言って、不躾にプライベートに踏み込むことはしてこなかった。妻には妻だけの世界があって、互いに詮索しないことが、長く続く夫婦の秘訣なのだと、十年の結婚生活の中で矜持のように思っていた。
だがあの日は、妻のプライベートを覗き見ることに、ためらいも罪悪感もなかった。
集中治療室に入った妻が、なぜ一人で死のうと決めたのか、どんな小さな痕跡でも、知りたかったのだ。
タイムラインもDMの履歴も全て削除されていたが、妻が自殺を図った数時間後、新着のメッセージが一件届いていた。
『動画を共有してもいいと、先生から許可を頂きました』
そう書かれたメッセージのすぐあとに、動画のリンクが送られてきた。
妻が自殺未遂を図った理由が何か分かるかもしれないと思い、僕はリンクをコピーし、自分のパソコンから動画をダウンロードした。
動画を再生すると、古い民家の寝室が映った。色褪せた襖、シールが剥がされた跡の残るカラーボックス、どこにでもある家、日常の風景そのものだ。
部屋の中央に置かれたベッドには、初老の男性が腰掛けていた。息をするたびに、胸が上下し、掠れた嗚咽のような声が漏れる。呼吸すら苦しいという様子だった。
ジャケットの男が紙コップに液体を注ぎ終えると、予め用意した文章を読み上げるような淡々とした口調で、初老の男性に語りかけた。
「この薬を飲むと、どのようなことが起きるか、あなたは理解していますか?」
ジャケットの男がそう尋ねると、初老の男性は一呼吸置いたあと、虚空を見上げ、天井を仰ぎ見たまま、まばたきすらしなかった。
その場にいる誰も声を出さず、部屋には不気味な静寂が流れ、外から車道を走る車の音が、かすかに聞こえるだけだった。
初老の男性は紙コップを受け取り、応える。
「はい、この薬を飲めば、わたしは死にます」
まるで、演劇のセリフを読み合わせるように、道筋をなぞりながら二人は話す。
初老の男性が、コップの中身を一息に飲み干した。
その様子を確認したジャケットの男は、初老の男性をベッドに寝かせたあと、「2024年1月23日・・・」と時刻を読み上げた。
そして、僕が動画を見終えたのを見計らったように、送り主からの新たなメッセージが届いた。
『あなたの願いも、いつか叶うことを祈っています』
そう、最後に添えられていた。
その相手こそが、たった今、目の前にいる相手、「蛍」アイコンの彼女だった。




