Contact.5-3 おふらいん こみゅにけーしょん-3★
おんらいん☆こみゅにけーしょん
Contact.05-3 『おふらいん こみゅにけーしょん-3』
「ごめんね、日向」
一頻りウォータースライダーを滑った後、子猫を見守るような表情の栄司に手を引かれてフードコートへ辿り着くと、目尻に涙を浮かべた姉に抱きしめられた。少し複雑ではあったが、姉の気持ちがわからないほど鈍感でも馬鹿でもない。ずっと目を逸らそうとしていた僕を心配してくれてたのも解ってる。
気にしないでとばかりに姉を抱き返して背中を軽く叩くと、僕の意図が伝わってくれたのか姉は身体を離した。……前は身長が殆ど変わらなかったというのに、正面から抱きしめられると額の部分に胸が押し当てられるのはすごく複雑な気分だけど。
姉に手を引かれて、声をかけてきたギルマスさんに愛想笑いを返す。2つのテーブルを隣合わせて大人数で掛けられるようにしたオープン席にギルマスさん、すあまさんをはじめ、怪談さんや伊吹、ミィも揃っているようだった。時計の針も16時に差し掛かっていて、水遊びを切り上げるのに丁度いい時間帯だろう。
適当な席に腰掛けて、久しぶりに暴れたせいで空腹を訴えているお腹を満たすために手近なところにあったフランクフルトを引き寄せる。頂きますと口を動かして、小分けのパックに入れられていたケチャップとマスタードを付ける。
大きく口を開けて先端に齧り付くと、ケチャップの酸味とぷりっとした皮に包まれていた肉汁が口の中に混ざって広がり、食欲を刺激する。
「…………?」
本能に任せるままに口を動かして咀嚼していると、何故か真剣な目で僕を見ているギルマスさんと目が合った。なんだかその視線に交じる奇妙な気配に、フランクフルトを咥えたまま動きを止める。
奇妙な緊張感を打ち破ったのは、音を立てずに背後に忍び寄っていたメイリのアイアンクローだった。
「何を、考えて、見てるの、かなぁ?」
「ちがっ、誤解です! 悲しいごか……
ちょっ、ま、ミシミシ言ってる、マジでミシミシ言ってっから!?」
この反応を見る限りフランクフルトは失敗だったかもしれない、でも食べかけのものを残すのもダメだと思うので処刑から目を逸らして極力意識しないように口の中へ運んでいった。
「あぁもう、ついてるわよ」
姉が紙ナフキンを手に口元を拭ってきて、白い無地に赤いケチャップがついているのを確認すると羞恥で頬が熱くなる。
「こうして見るとほんとにちびっこになったんだなぁと悲しくなるな」
「……哀れな」
親友達がそんな僕の様子を見て、笑いを押し殺すように俯いていた。かといって反論もできないので、ただ鬱憤を晴らすかのようにテーブルに乗っていたポテトや唐揚げの皿に手を伸ばした。
◇
「…………ぇふ」
口から小さな女の子のような呻きが漏れて、慌てて手で口元を隠す。そんな僕の姿を見た栄司が、呆れたようにつぶやいた。
「食べ過ぎだバカ」
仮想世界ではいくらでも入り、こういったみんなで囲むホットスナックの類はある意味で無制限に食べられる環境に慣れていたせいか、完全に自分の胃の容量を見誤った。苦しくて動けない上にお腹が無様にぽっこりと膨らんで居るのが目に見えてわかって凄く恥ずかしい。
「…………」
笑いをこらえているのだろう、暫くこっちを見ていると思ったら、急に俯いて肩を震わせだしたメイリとギルマスさんを睨みながらお腹を隠すように両腕で抱え込んだ……ちょっと苦しい。ミィやすあまさんまで微笑ましいものを見る目で見てるし。
「ぷっ、くく……そのお腹じゃ、もう泳げないわね」
さっきまでちょっとしおらしく遠慮していた姉に至ってはこの態度である、失礼にも程がある。さり気なくその肩にかけてるパーカーとかまた貸してくれてもいいと思うんだ。
しかしこちらの恨みがましい視線など何のその、みんなは和気藹々と談笑しながら残ったスナックを摘んでいる。
「あぁ、ほんと……今日は来てよかったわ」
笑いが落ち着いたのか復帰したメイリが顔を上げると、彼女はだらしのない満足そうな、とても気持ち悪い笑みを貼り付けていた。全くもって美少女が台無しだ。
「今回は大豊作だったな」
同じく大変な仕事を終えた男の顔をしたギルマスさんは、鼻から赤い液体を垂らしていた。黙って大人しくしてればイケメンに分類される顔だろうに、今は生理的な嫌悪感が凄まじい。
「俺さ、そろそろ本気で二人に自首を薦めた方がいいと思ってるんだけど……」
「奇遇ね……あたしも」
「あははー」
常識人サイドである所の怪談さんの意見に同意したすあまさん、どうやら僕の感じるこの気持ち悪さは共通のものであるらしい。ミィに関しては慣れっこなのか大物なのかいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。いや普段から気持ち悪いってストレートに言ったりしてるし、今更なのかもしれない。
「さて……私たちは夕方になる前に帰ろうと思うけど」
微妙な空気を真っ先に断ち切ったのは姉だった、僕としてもこの腹じゃ暫く運動は無理だし、体力的にも座ったせいか疲れが出てきたし、お腹いっぱいで眠いし……なんか身の危険を感じるし。否定する要素はない。同意を示すためにも姉に向かって頷いておく。
「うぅん、じゃあ私達もそろそろ引き上げようかな」
途端に表情を引き締めて元に戻したメイリが少し考えた後に答える。結局殆ど僕と一緒に行動してただけだというのに十分遊んだと言いたげな様子で、まさかほんとに幼女を見るためだけに来ていたのかと疑念が浮かぶ。今一番怖いのは彼女の目的を否定しきれないことかもしれない。
結局お互いに帰宅を決めると、みんなでテキパキとテーブルの上を片付けはじめた。僕も手伝おうとしたけどやんわりと断られてしまい、結局片付けるメンバーを見てるだけになった。この見た目じゃ一人前として扱ってもらえない……解ってはいるし、便利な点もあるけど、やっぱりちょっと切ない。
少しこなれたせいか、ちょっとだけマシになってもまだ重いお腹を抱えて更衣室へ入る。途中にあるシャワー室で軽く髪の毛や身体を流してから、ロッカールームへ。タオルで身体の水分を拭ってから、濡れて張り付いた水着を力を入れて引き下ろし、ロッカーの扉に引っ掛ける。体に残った水分をタオルで拭った後に、穿く度に奇妙な緊張を強いられる白い三角形の小さな布切れを身に着けると、頭からワンピースを被って着替え完了。
脱いだ水着をタオルでくるんでビニールバッグへ押し込んで終わったことを伝えようとしたら、苦笑した姉が更衣室の端にある、ずらりと並んだ鏡と洗面台を指さした。
「ほら、髪の毛乾かさないと」
どうにも男だった時の習慣が抜けなくて困る……いや困らない、だって僕は男の子だもの。いつか戻るのだから別に習慣が抜けなくたって困ることはないはずなのだ。心のなかでぶつぶつと呟きながら洗面台の近くへ行き、壁に備え付けられているドライヤーに手を伸ばす。
手を、伸ばす。
「…………」
「うん、なんかごめんね」
子供が悪戯できないようにという配慮だろう。拳3つ分ほど足りない位置にあるドライヤーに手を伸ばしたまま、つま先立ちで固まる僕の背後から姉が悲痛そうな顔持ちでドライヤーを取り手渡してくれた。お願いだから謝るのはやめてほしい。
「…………」
無かったことにしよう、着替えの時と同じようにほぼ無心で温風を上から下へと柔らかく当てて、ある程度乾燥したくらいでブラシで整えて終了。あんまりしっかりやるのも良くないらしいし、夏場だし外に出ればすぐ乾くだろう。
次に使うであろう姉にドライヤーを渡すと、なんともなしに洗面台へ向き直る。背伸びしないと覗き込めない鏡の中には、見た目だけじゃなく仕草や表情までもが女の子らしくなってしまった僕が、僕を覗き返していた。
◇
路線が違うグングニルの一行とは駅で普通に別れ、帰りの電車に揺られていた。決してメイリがお菓子で僕を家まで釣ろうとしてミィに突っ込まれてなんかはいないし、ギルマスさんが美術品を鑑定する目で僕の胸元、鎖骨あたりを凝視しててメイリに顔面鷲掴みにされたりとか、そんなハプニングなんて起きる気配すらなかった。実に平和な別れだった。
取り敢えず彼は世界の平和の為に一刻も早く捕まるべきではないかと思う。
冷房の効いた車内は意外と乗客が少なく、電車の振動が座席から伝わって身体をリズミカルに揺する。オレンジが強くなった陽射しは窓にかけられた日除けを通り抜けて、車内を満たす冷気によって冷えた肌に心地よく降り注ぐ。
隣で座っていた姉が空いている手で、すっかり乾いた僕の髪を撫でた。ビニールバッグを脇に置き、心地良さに撫でられるがまま体重を姉に預ける。
――カタンカタン、カタンカタン
壁を隔てて車輪が鳴る音が、子守唄のように微睡む僕の頭のなかを反響する。このままだとまずいなぁと思っても、眠気は今も僕に牙を剥き続ける。耐え切れずに目を閉じてから、僕が意識を失うまでにかかった時間は、きっと数えるまでもないほどに短かったのだろう。
「――んね」
「いや――軽い――」
暗い場所から僅かに意識が戻ると、ぼやけた頭は誰かの声を認識した。一定の間隔で身体をゆすられるのは、まだ電車の中なのだろうか? でも妙に暑いし、車内特有のあの臭いもしない。顔をうずめている物は適度な弾力を持っていて温かい。こうなった直後に嗅いだ、自分の枕の匂いに似ていて、今は僅かに汗とプールの匂いが混じっている。姉さんやミィ、メイリに近づいた時と違って良い匂いがするって訳でもないけど、なんでか不思議と不快には感じない。
「――――」
誰かが近くで話しているようだ、でも眠くてどうでもいいや。起こそうとしてないということはきっとまだ駅についていないのだろう。そう判断して、枕代わりになる何かに顔をこすりつけるように埋めるともう一度意識を手放そうとする。
「――っと?」
「――あらあら」
僕が顔を擦り付けたとたん、抱きついている何かは大きく"身動ぎ"をした。何かあったのだろうか、もう少し動かないでもらえると寝やすくてありがた…………え?
ひやりと背中を冷たいものが伝い、急速に意識がハッキリしはじめる。恐る恐る目を開けてみると、起きたばかりのせいかぼやけた視界の片隅に困ったような笑顔を浮かべる姉の姿が目に入った。じゃあ、今僕が乗っかっているのは一体"誰の背中"だ?
「起きたか?」
「―――ぴっ!?」
疑問に答えたのは、落とさないように気を使ってくれているのかやや前傾姿勢になった栄司だった。反射的にプールの、ウォータースライダーでの出来事が蘇って、喉が引きつったように息が漏れた。
「おわっ! ちょ、バカ暴れるな!」
「日向!?」
「っと!」
背中に乗った不安定な体勢のままでそんな極端な行動を取ればどうなるかなど、自明の理。案の定バランスを崩して後頭部から落ちそうになる。姉が僕を呼ぶ声をBGMに、危うく走馬燈が流れはじめる寸前で誰かが僕の頭を両手で抱えるようにして支えてくれた。
「動揺しすぎだろう」
間に合ったと安堵の息を吐いた伊吹が力を込めて体勢を戻してくれる。正直あまりありがたくはないのだけど、また頭から落下しそうになるのは僕もごめんだ。もう起きたから自分で歩けると、栄司の肩を軽く叩く。しゃがみながら降ろしてくれたので、顔を俯かせながら姉のほうに近づいて行き、姉が持っていてくれた自分のバッグを受け取った。
「ていうか、何で赤くなってんだよ……」
本当に不思議そうに言う栄司を見ることができない、僕だってなんでこんなに動揺してるのか訳がわからないのだ。できることなら教えて欲しいが、出来れば知りたくないという気持ちもある。
「あぁ、さっき私が余計なこと言っちゃったからね、すぐに戻ると思うわ」
姉のそれと無いフォローのおかげで、追求をやめることにした栄司の様子に隠れて息を吐く。ほんとに余計なことを言ってくれたものだと思う、おかげで栄司のことが直視できないではないか。僕は至ってノーマルなのに何で男に背負われてただけで動揺しなきゃいけないんだ。
そうだ、これはあれだ、気持ち悪かったからだ。親友とはいえ男の汗の匂いを嗅いで気分が良くなる変態などでは間違ってもないのだから、そう結論づけて大きく息を吸って吐く。これで大分落ち着くことができた。
落ち着いた所で、男だ女だ言う前に最低限の礼儀としてやっておかなければいけないことを思い出し、バッグの中で湿気を避けるように内ポケットにしまっていた携帯を手に持ち、文章を打つ。
『運んでくれてありがとう』
「あ、あぁ、どういたしまして……?」
目を合わせるのに抵抗はあったけど、文字ならば素直に気持ちを伝えることが出来る。今だけはこの声を失う病がとてもありがたく思えた。
気づいてみれば家は眼と鼻の先であり、玄関の前で栄司と伊吹に別れを告げると遠くなる背中を見送ってから扉をあけて中に入る。
「ただいまー」
姉の声に合わせて口パクだけでただいまと家の中に告げると、靴を脱いで真っ先に冷蔵庫へ向かう。食器棚からコップを二つ取り出して麦茶を注いで、リビングへと持っていく。
「ありがと」
ソファに腰掛けていた姉にコップを片方渡すと、僕も冷えたお茶に口を付けて腰掛ける。沈黙は数秒か数十秒ほど続いて、先に姉が口火を切る。
「今日は色々とごめん、やっぱり焦りすぎだったわね」
真剣な表情で僕の顔を見て頭を下げる。
「こんなにまとめて休みを取れる事なんてなかなか無いし、
日向が心配だったのと、仲直りできたのが嬉しくてついお節介しちゃった」
姉の休日は今日で終わり、明日には都心にある自宅に帰り、忙しい日々を送るのだろう。だから一緒に居て、沢山の時間を使えるうちに出来る限りのことをしたかったのだという。余計なお世話だなんて、僕は言う事が出来なかった。
姉が居なければきっと僕はこうやって外に出て、みんなと遊ぶことなんて出来ないはずだったから。ゲームの中での交流や通信上のやり取りを否定する気はない、むしろ素晴らしいものだと思う。でも、きっとそれは現実での自分があってこそだろうから。
あのままだったら僕はきっと、壊れてしまうまで逃げ続けて部屋から出ることは無かっただろう。結果良ければ、というわけでもないが、少なくとも今の状況を見る限りではあの時点で姉に見つかってよかったのだと思う。
「姿形は変わっても、一緒にいるほどに日向だって解るから、
やっぱり傍にいると可愛さ余って子供扱いしすぎちゃう……私はダメね」
姉が教えてくれなければ、きっと僕は頑なに男の自分にだけ固執して、現実と向き合うことは出来なかったはずだ。大切なモノが壊れる前に、きっかけを与えてくれた。姉は脅したり怖がらせたりするんじゃなくて、わざと茶化すようなやり方で僕に現実と向き合う機会をくれた。
素直に、感謝している。
『姉さん』
「……ん」
言葉を遮った僕の行動を黙って見守ってくれる姉に、伝えるために携帯を打つ。なんて言えば伝わるだろうか、なんて書けば解ってもらえるだろうか。考えれば考える程答えは不透明になっていく。時計の針は無情に進んでも、姉は少し悲しげに、黙って見守ってくれている。
何度も打っては消し、打っては消し。結局何も思い浮かばず、伝えたい言葉が頭の中から消えていく。小さい頃から悩んでる時にいつもそばに居てくれたのは姉だった。僕が壊れていた時期のことは記憶に残っていないけど、姉は今でもそれを悔やみ続けているのだろう。
僕としては確かに少しショックだったけど。仮に僕の事件が姉の夢が叶いつつあるのを邪魔する結果になったのなら、今度は自分を許せなくなっていたかもしれない。だから姉さんは気にしなくていいのだと伝えてあげたい。
どうして僕の語彙はこんなに乏しいのだろう。結局どんなに思いを込めて文章を綴ろうとしても、最後に残った言葉は一つだけだった。
口にするのも恥ずかしくて、直接打った文字を見せるのも羞恥が勝る言葉。
だからメールの形で認めて、目をつむったまま送信ボタンを押す。そのまま俯く僕の視界の中、携帯の画面はメールが無事に送信された事を教えてくれた。
少し不思議そうな顔をした姉が、携帯を取り出して僕からのメールを確認している。少しの間をおいて、姉は僕を強く抱きしめた。
拒否する理由はない。嫌がる道理もない。
姉が僕の頭を胸に抱え込むようにしているおかげで、顔を合わせる心配はないのだから。
それでいいのだ、いま顔をあげたらきっと、恥ずかしさのあまり逃げ出してしまう。テーブルの上に置かれた姉の携帯の液晶を横目で見た僕は、そこに表示されているはずの文字を思い出して、顔に火がつく思いをしていた。
『大好き』
今更ながら、もうちょっと伝え方があったのではないかと後悔している。けれど、僕にはこれ以上の言葉が思いつかなかったのも事実だった。
◇
その後、帰宅した母を合わせて三人で食事を取り、今日のことを話しながら入浴を済ませた。
それから暑さに負けてティーシャツとパンツ一枚で枕を抱えて自室でゴロゴロしていた僕は、乱入してきた姉に掻っ攫われることとなる。
ギルマスさんとメイリばかりに警戒をしていたが、まさか身内にも手遅れな人間が居るとは悲しい限りだ。弟としてはなんとしても自首を薦めたい。今ならまだ間に合う、きっとやり直すことが出来るだろう。姉さんのファンだってきっと待ってくれる。
「何かとても失礼なことを考えてる気がするんだけど……」
僕を食べても美味しくないよという主張が無事に伝わったのか、姉はベッドに腰掛けたまま深く溜め息をついた。
「なんというか、小さい時のこと思いだしちゃってね
休みの最後の日くらい一緒に寝ようって思っちゃっただけよ」
姉はひょっとしてブラコンというやつなのだろうか。僕も結構シスコンの気はあると自覚してるけど、流石にこの歳になってお姉ちゃんと一緒に寝れても嬉しくない、というかむしろドン引きだ。
「そりゃ私だって、男の日向と一緒の布団で寝ようなんて考えはないわよ?
いくら弟が可愛いって言ったって分別くらいはあるわ、
でもあんなメール打たれて、数年ぶりの日向分を補給したくなったのも本当、
そう考えれば今の日向の可愛い格好は都合が良いのよ」
そう言いながら僕の抱えている枕こと、兎四郎君ごと抱き上げた。要するに今まで僕の心理状態や色々を考えて自重してたけど、最終日の夜くらい欲望のままに突っ走る事に決めたらしい。携帯が手元にあれば『姉弟でこんなの駄目だよぉ』などと言って茶化して脱出したいところだけど、あいにくと通信手段を奪われた僕には意思疎通すら困難なので取り敢えず大人しくしておく。
「というわけで今日だけはお姉ちゃんに甘えさせなさい!」
もう好きにしておくれと枕もとに兎四郎君を投げるようにして配置する。姉は部屋の明かりを消すと僕を抱えたままベッドに倒れこんだ。大人しくしている僕を背中に回された手に少しだけ力が入る。
「日向、これからはどんなことがあっても、
お姉ちゃんは貴方の味方だからね」
姉の声に頷きながら目を閉じる、これからはもうちょっとメールをしよう、色んな事を話そう。僕は声を失ったけど、思いを伝える手段なんて今の時代はいくらでもあるのだから。
それでもっと色んな事を覚えて、いつか一人で胸を張って出歩けるようになったら、今度は僕から姉に会いに行こう。
いつかくる未来のことを考えながら、気づけば僕は眠りに落ちていた。
◇
翌朝は、夏日らしく良い天気になりそうな気配がした。空は青々と晴れ渡っていても、風があるためか朝の空気はどこかひんやりとして肌に心地よい。姉は家から仕事場に直行するそうで、自宅に帰ったらメールすると笑っていた。
早起きした母さんが妙に張り切って作った朝ごはんを食べて、お弁当まで持たされた姉は苦笑しながらも嬉しそうだった。ついでだからと何故か僕も同じようにお弁当をもらってしまい、姉と顔を見合わせて笑いあう。
それから僕だけが玄関の前で、仕事に行く母と姉に、それぞれメールで『いってらっしゃい』と送る。二人は笑顔で「行ってきます」と答えると、それぞれ別の方向へ歩いて行った。あくびを噛み殺して家の中に戻る。
家の中は僕一人で、慣れているはずの靜寂が何故か今日に限っては酷く苦しく感じた。まるで世界に取り残されてしまったかのような気持ち。お弁当を大事に抱えて部屋に戻ると、傷まないように日陰に置く。
クーラーは効いているのでお昼までなら室温と湿度は心配ないはずだ。昨日は結局一度も触れなかったパソコンを起動してゲームを動かすと、素早くログインを済ませてヘッドギアを被る。そのままコードを引きずってベッドに寝転がって目を閉じた。
ログインしてまず、登録してあるフレンドリストを見る。……朝っぱらからログインしてる廃人の姿がそこにあった。メイリ、伊吹……そして栄司、真っ先にメイリからささやきが飛んでくるのはいつものことだ。
『おはようサンちゃん! 昨日は無事に帰れた?
馬鹿栄司に変なことされなかった!?』
あいつは何でこんなに信用ないのか。いや、どっちかというと警戒されているのだろうか。今まで無防備に仲良くしていたせいかと思うと、ちょっとだけ悪いことをした気持ちになってくる。それでも、今僕が素のまま付き合える数少ない友人であり居場所なのだから、本当に悪いけどもう少しだけ付き合って貰いたい。
『おはよう、大丈夫だったよ、無事に家に帰れた』
『そっかー、良かったよ
昨日はすっごく楽しかった、また遊びに行こうね』
何気なく誘ってくるメイリに、ほんの少しだけ躊躇して、たっぷり数十秒ほど悩んで。自分の中で出しつつある結論に素直に従うことにする。
『うん、僕も楽しかった
だからまた、みんなで遊びに行こう』
栄司と、伊吹と、メイリと、ミィと……すあまさんや怪談さんも入れてもいい。山へ行くのもいいかも、普通に遊園地だっていいかもしれない。水族館や博物館だって悪くない。ゲームの中だって行きたい場所、行ってみたい場所はいくらでもある。せっかく出来た新しい友人たちとも、もっと交流を深めたくなっていた。でも……。
『うんうん、また遊ぼうね、でも』
そう、でも。
『ギルマスは放置で』
『ギルマスさんは誘わない方向で』
見事に一致した見解に、ログインしたばかりの街の広場、そこにあるベンチに座りながら笑う。
さぁ、今日もがんばろう。




