護りたいもの
朔良はそのまま、再び意識を失った。
一樹はとてつもなく切ない気持ちになった。朔良のここでの本当の目的が分かってしまって、泣きそうになっていた。
いや、泣いていたかもしれない。瞳も頬も熱いから…。
「崇史、そういうことだから、手当てしてくれないか」
朔良は一樹にしがみついたままだが、一樹には何も出来ない。凄く歯痒かった。
何も言わない崇史に代わって、三吉が口をついた。
「とにかく血を止めないと!スタッフルームに救急箱がある。大したことは出来ないが無いよりマシだろ?」
スタッフルームには何でも揃っているのか?思わず聞きそうになって口を閉じた。今はそれどころではない。
「崇史」
遠慮がちに促した。
―――冬馬さんを刺激しないで。これが朔良の遺言にでもなったら、洒落にならない。
崇史はまだどこか生気の抜けた顔をしていた。驚愕したのはあの一瞬だけだったのだ。
「好きにしろ」
それだけ言ってこの場を去ろうとする。
「ま、待て!手を自由にしてくれないと…」
動けない…と最後まで言い終える前に崇史は動いた。ゆっくり一樹の元まで歩み寄り縄をほどく。
「崇史…」
崇史の表情を見たかったが、朔良がいるので振り向けなかった。
「木本と賢二は戻れ。一樹と三吉さんだけで何とかすればいい」
崇史は背中を向けると疲れた声を出した。半ば自棄になっているかもしれない。
「いいの?」
亮が崇史について出て行きながら訊いていた。しかしその答えを確認してる暇は無かった。
急いで朔良を抱き上げる。本当は動かすのは危険だと思ったが、トイレの、それも血痕の上に寝かせる訳にもいかない。
トイレから出て右に曲がると個室がある。三吉の指示でそこに朔良を寝かせた。
そこは畳のお座敷で、掘りごたつ式の部屋だった。
それからすぐに三吉の縄を一樹がほどいた。途中から賢二と結花は2人と離れて、広いホールの方へ戻って行く。どうせこの店から出るにはホールを通らないといけない。だからだろう。崇史も亮もついては来なかった。
三吉がスタッフルームに行って戻ってくる間、一樹は朔良の顔を見つめた。血が流れすぎたのだろう。比喩ではなく顔面蒼白だった。そして呼吸が荒い。
「朔良…」
呼び掛けてみるが反応がない。
「どんな想いでここまできたんだ?…何で、そんなに守りたいんだ?」
たとえ朔良が意識があって、同じように訊いたところで、朔良はまた適当に答えるだろうと思えた。
* * *
人があんなに血を流すところを初めて見た。しかも拳銃というドラマや映画でしか見たことのない物で。
結花は体が震えて中々止まらなかった。賢二の胸に寄りかかる。
崇史達は結花をなぜかまだ縛らなかった。しかしあんな衝撃な場面を見させられた後では、反抗的な行動を起こす気にもならない。
「賢二…」
弱々しく語りかけた。
賢二の胸に顔をうずくませる。聴こえてくるその鼓動は速かった。賢二も辛いのだろう。
「結花」
「私…何で、あんなこと言っちゃったんだろう」
朔良のことは今でも大嫌いだ。それは変わらない。
「殺してやるって…言っちゃったの………あんな感情が私の中にあったなんて…」
あの時は本気でそう思った。どす黒い憎しみに満ちたあの感情。しかし実際に朔良が倒れて怖くなった。
死というものを、初めて間近に感じたと思う。
殺すなんて絶対に言ってはいけない言葉だと、頭では分かっていたのに…。それがどうしてなのか、心の心髄で実感した。
「どうしよう。朔良が死んだら……私のせいだ」
硬く結花は目を閉じた。
自分が仕掛けたことだったから。朔良がトイレに行くのを見て、最初から詰問するつもりでついて行った。それがあんな事態を引き起こしたのだ。責任を感じずにはおれない。
ずっと黙って聞いていた賢二が口を開いた。
「結花のせいじゃない。結花は悪くない」
慰めのその言葉を、呪文のように結花は心の中で繰り返した。
* * *
窓際の定位置に戻り、崇史は窓から警察の動きを確認した。銃声が聞こえたことで、騒々しくなっていた。池田の姿も見える。
早く、志保の死について調べて欲しい。自分はそれだけを望んでいるのに、なぜこんなことになっているのだろうか。
崇史が感慨深く思慮していると、何度目になるか携帯が鳴った。
いくつかの友人や、会社関係の人から最初は着信が有った。しかしそれには一切無視していた。
何を言ってくるか、容易に想像出来たから。
志保が死んでから今まで、周りの人達は皆自分を憐れんだ。これまで腫れ物にさわるかのような扱いをうけた。
反吐が出る。
だから崇史が応対するのは決まって池田からの電話のみだ。
崇史は通話ボタンを押す。そして何も言わずに池田の言葉を待った。
「今、何があった?」
池田の声は深刻な感じに低い。銃声がして気を揉んでいるのだろう。
これを利用しない手はない。
「一人負傷しました」
崇史は他人事のように伝えた。
「なに?」
「まだ彼女は生きてますが時間の問題です。池田さん、分かるでしょう?このまま時間が経つとどうなるか。最悪の事態を招きたくなかったら、早く捜査してください」
「彼女?誰が怪我したんだ?」
拒否を許さない厳しい口調に変わる。
「それより捜査はどこまで進んでるんですか?まずはそれを教えてください」
電話の向こうで少し間が空いた。迷っているのだろうか。
「いいか冬馬。何度も言うようだが、笠原志保の部屋は密室だった。窓は開いていたが、第三者が侵入した形跡はない。部屋だって身辺整理されていたし…認めたくないのは分かるが…」
「それを調べるのが警察だろうがっ!」
声を荒らげて遮った。後ろで人質たちがビクリと反応したが、崇史にはそれを気づく余裕はない。
「志保は自殺じゃない。榊原だってそう言ったんだ!警察は榊原の話を聞いたのか?」
朔良はいろいろなことを言ってはこの場の空気をかき混ぜていたがこの言葉だけは信じたかった。
あの時の朔良の目は、何だか辛そうでとても嘘をついているふうには見えなかった。
「榊原…?榊原朔良か。…事情は聞いてるが……」
池田は思い出しながら喋っていた。
「何も覚えてない、の一言だったな」
「………」
朔良は警察にも答えていなかった。彼女は絶対に何かを知っているはずなのに。
「他には?何を言っていましたか?」
「何だ?……彼女に何かあるのか?」
池田が唸った。警察側はノーマークだったのだ。
(役立たずめ……)
心の中で毒づく。
「榊原が怪しい。俺でさえ分かったのに、刑事の貴方はみすみすそれを聞き流したんですね」
「どういうことだ?まさか突入した人物の中に女性がいたという報告があったが…」
「そうですよ、彼女です。だから教えてください。榊原が喋ったこと全部」
声を強めて崇史は命じた。丁寧な口調は、時に汚い言葉を紡ぐより迫力を持つ。
「……彼女は、酔っていてほとんど覚えてないと言った。だが笠原さんとは友人ではなく、同志だったと話している」
「同志?」
志しが同じである者?崇史は首を傾げた。
「それから笠原さんの部屋は、死ぬ前と何も変化がないことも証言している」
「なんだと!?」
崇史は抑えきれず叫んだ。志保と会うときは、いつも外か崇史の家だった。だから正直、崇史が初めて志保の部屋に入ったのは事件の後、だったのだ。
志保は一人暮らしだ。それは知っている。
確かにそこは、シンプルと言えば聞こえは良いが、余計な物が一切無い、つまり何も無い部屋だった。
間取りは1DKで、部屋にある家電製品はデスクトップのパソコンが一台、机に置かれ、そのディスプレイでテレビを見て、音楽もそれで聴いていたようだ。あとはベッドにもなるソファ……それだけだった。
キッチン道具は一応一通り揃っているが、一つずつで使った形跡はない。――そういえば料理は苦手だと言っていた。
そしてクローゼットの中も必要最小限の量の服があるだけだった。
この部屋では身辺整理された部屋、そう思われても仕方がないのかもしれない。だが例えば犯人がいて、自殺に見せ掛けた、という可能性だって捨てきれない。そう思っていた。
一度も志保の部屋に訪れなかった事を後悔した。この部屋が普段のままなのかどうか、今の崇史に知る術が無かったから。
何と志保の両親でさえ、来たことは無いと言った。契約の時には一緒に見たが、それからは志保が実家に帰ることはあっても、その逆は無かったと母親は涙ながらに教えてくれたのだ。
自分は志保のことをあまり知らなかったのだ。
部屋を見渡していると、それを実感して寂しい気持ちに襲われた。当時は気づかなかったが、今思えば、さりげなく崇史を自分の家から遠ざけていたと思う。
しかし朔良は志保の部屋に行ったことがあるというのか?
(しかも……死ぬ前と変化が無い、だと?)
いきなり黙り込んだ崇史に池田が怪訝な声をだした。
「冬馬?」
「なん、でもありません…それでは榊原は、やはり志保が自殺をほのめかしていたと?」
認めたくは無かったが、崇史より朔良の方が志保の近くにいたようだ。
「……いや、そうとは言ってない。…さあ、話したぞ。今度は冬馬が教えてくれ。中の様子を」
まだいろいろ訊きたかったが、池田はそう打ち切る。
崇史は拳を握りしめた。爪が食い込んだが、不思議と痛みは感じなかった。
「負傷者はその、榊原です。俺が撃ちました。俺はただ威嚇の為にこんなものを持っているんじゃない。それが分かってもらえたんじゃないですか?」
「冬馬!」
「俺は本気です。今日中に捜査の報告を入れてください。何も進展が無ければ、もう一発撃たないといけませんね」
そう言うと、再び崇史から通話を切る。 早くこんな状態から抜け出したかった。
安心、したかった。
* * *
―――また朔良は夢に引き戻されていた。
覚えている記憶と、潜在意識の奥底に眠っていた真実が、通して繰り広げられていく―――。
スナックを後にすると、賢二と結花は仲良く二人で帰って行った。そして俊が沙織里を送って行くよ、と申し出た。
「え?悪いよ。同じ方向でもないし…というか俊くんち、ここだし」
沙織里は遠慮していたが、志保が気遣って後押しすると、照れながらも一瞬に歩いて行った。なかなか良い雰囲気だ。このまま付き合うかもしれない。
そんな二人を後ろから見送ると、喧嘩したあと初めて志保と二人きりになった。
少し気まずい空気がその場に流れる。
「さて、私達も帰ろっか」
まず朔良が明るく切り出した。
「うん。あ、朔良今日泊まっていかない?」
志保もいつもの笑顔を朔良に向ける。たまに飲んだ後、こうして志保の家に泊まることがあった。朔良もいつものようにその提案に肯首する。
二人でタクシーに乗り志保のマンションに向かった。
車内ではどちらも無言だった。運転手が気を遣って、一言二言話し掛けてくるのを答えたくらいだ。
志保が何を考えているのか分からなかったが、朔良はこの日のことを思い返していた。
そして頭を抑える。
記憶が―――失われ始めていたのだ。
志保のマンションについてタクシーを降りたとき、やっと朔良達はちゃんと会話した。
「今日はごめん」
まず朔良が謝った。
「私、言い過ぎた」
「そんなの………。あたしこそごめん!あんなこと言うつもり無かったのに」
志保も頭を下げた。初めてした喧嘩の仲直りに朔良はむず痒い気持ちになって笑った。
志保も同様にふふ、と笑う。
朔良が続けて口を開こうとした時、後ろから声を掛ける者がいた。
「あれ。偶然だね」
その声に驚いて朔良は勢いよく振り返る。志保もそれに習って声の主を見た。貴尚―――だった。
朔良から完全に笑みが消えた。
―――そう、ここで貴尚は再び登場した。
朔良は厳しい目で見つめた。
真実のビジョンが、新しい記憶の穴を埋めながら頭に刻み込まれる。しかしそれはすでに起きたことだ。
新しく得るものではなく、すでに頭にあるものが再び溢れてきているはずなのに、まるで今が現在であるかのように感じる。
この辺りは、ほぼ忘れていた。だから、食い入るように次を見守った。
「松野さん?どうしたんですか?こんなとこで」
志保が無邪気にこの偶然を驚きながらもはしゃいでいた。
「どうした?って聞かれてもね。僕の家もこの近くなんだよ。ちょっと締めに何か食べようかなと思って」
「そんなんですか?偶然!あたしのマンションもここなんですよ」
お酒のせいだろう。あっさり志保は自分のマンションをばらした。
(え……?)
朔良は違和感を感じていた。それが何かはこの時は分からなかった。
それを追及するより、今の現状に危機感を覚えて流れを見守るのに必死だったのだ。
貴尚は、人当たりの良い微笑を朔良達に向けた。
「へえ。偶然だね」
そして、志保はとんでも無いことを言い出した。
「あ。だったらこれからあたしの家で三人で飲み直しませんか?」
「な………!」
朔良は突然の展開にうろたえた。人を部屋に入れるのを嫌い、朔良しか入ったことが無かったのは知っていたからだ。
「ちょ………」
「本当?嬉しいな」
朔良が拒絶するよりも速く貴尚は笑って頷いていた。志保に躊躇いはなく、その回答にあっさり“四次会”が決まってしまった。
―――なんてことだ。朔良はその展開を見て口を手で覆った。その手が震えている。
(こういう…こと、だったんだ………)
やっと、分かった。ここだけが謎だったのだ。
この流れを思い出したことで、後は大体想像がつくものとなった。
そして先ほど感じた違和感も今なら解る。貴尚は志保が自分のマンションをばらす前から“僕の家も”と言った。それが意味するものは、貴尚は初めから知っていたということだ。
そしておそらく、貴尚の家がこの近くというのも…嘘だろう。
すぐには志保の家に入らずに、近くのコンビニでお酒やおつまみを買った。
志保と貴尚は楽しそうに会話をしている。何も知らない者が見たらこの二人こそが恋人に見えたかもしれない。
少し下がったところで恨めしく朔良はそれを見ていた。
(どういうつもり…)
貴尚を見るとき、自然と睨んでしまう。
一応仲直りはしたが、三次会で志保が言ったことは、まだ志保の胸の内に在ったということだ。
志保はなぜが朔良と貴尚をくっつけたがっている。志保に今更何を言っても無駄だと気づいていた。
それに怪しまれず貴尚と離れて、二人で会話する機会はもうないだろう。
ならば貴尚の動きを見張るしかない。何を企んでいるのかは知らないが、貴尚には怪しいところがあったのだ。
「朔良。遅れてるよ」
振り向いて志保が朔良を呼び掛けた。慌てて表情をつくりなおし、朔良は二人に追いついた。
見張るつもりでいることを貴尚にばれる訳にはいかない。
「妬いてるの?朔良ちゃん」
「いいえ」
ふふふ、と笑う貴尚に素っ気なくそれだけで否定する。
あたし邪魔かなあ?とか言いつつも志保は相変わらず楽しそうだ。
「そんなことないよ志保ちゃん。それに、いつか僕は自分の力で朔良ちゃんと二人きりになるから大丈夫だよ」
「やだあ。松野さんってば」
この時、強い頭痛を覚えた。それはお酒のせいではなく、精神的なもので間違いないだろう、と朔良は思えた。
* * *
―――その時、朔良は薄く目を開けた。
最初に見えたのは暗めの照明だった。明らかに見慣れた自分の部屋とは違う。
「朔良!」
次に覗き込んできた心配そうな一樹の顔。
「気がついたか」
そして三吉がほっとしたような顔を見せてきた。その顔を認識すると、徐々に現状を思い出してきた。
(そうか…私、気を失ったんだ)
ぼんやりした頭のままで身体を起こした。
「あれ?痛くない」
つい声に出る。自分の身体を確認すると、インナーのブラウスはほぼ血に染まり、それが乾いていた。
しかし服の下は見えなくても手当てをされているのが分かった。包帯のようなもので止血されている感触がある。そして毛布を掛けてくれていた。
「朔良。三吉さんが救急箱を持ってたんだ」
「痛み止と、怪我のせいで熱だしてたからな、解熱剤を飲ませた。………あとは消毒とか簡単な応急措置だから、本当はちゃんと病院に連れて行きたかったんだが…」
二人は嬉しそうに教えてくれたが言葉の後半に少し三吉の顔が曇る。
ここはMIYOSHIの個室だった。朔良も通してもらったことがある。
「まだ寝ていた方が良い」
一樹が朔良の上半身を支えて横にさせた。毛布を掛け直してくれる。
やはり動かすと少し痛い。だけど撃たれた直後とは比べ物にならないほど軽くなっていた。
「幸運なことだが、弾はかすっただけだったんだ」
銃弾は大切な臓器を傷つけることなく朔良から離れてくれた、と一樹は教えてくれた。
「ありがとう…」
朔良は二人に素直にお礼を言った。でも運ではないことは朔良が一番良く分かった。崇史は言ったのだ。……まだ殺さないと。
「あれからどうなりました?」
よく見ると二人とも自由に動いている。この場には崇史も亮もいなかった。
「何も変わってない」
三吉がため息混じりに言った。一樹も辛そうな顔をしている。
「崇史は今日中に捜査が進展しないと、また誰かを撃つつもりらしい」
(そんな……)
少し絶望的な気持ちになる。そしてふと疑問を感じた。
「私、どれくらい気を失ってたんですか?」
今が何時か気になったが、近くに時計は無かった。朔良は腕時計はしない。時間を確認するときは常に携帯だったから。
だけど三吉が腕時計をしていた。それを見ながら言った。
「十時間くらいだ。もう夕方の五時だぞ」
「そんなに?」
驚いて、焦りから再び体を起こそうとする。しかし一樹がそれを許さなかった。
「寝ていろ。朔良は無茶をしすぎる」
「でも…」
「でもじゃない。大人しくしないと睡眠薬も呑ませるけど、良いか?」
朔良は一樹を恨めしそうな目で、無言の訴えをした。しかし一樹はすんなり受け止めると、優しく諭すように笑う。
「俺がいるから大丈夫だ。崇史には誰も殺させない。…だから安心して寝てろ」
その言葉に朔良は戸惑い顔を見せる。自分の心を読まれた気がしたのだ。そっと毛布を顔の半分まで覆って、目だけで一樹を見た。
そのとき三吉が立ち上がって言った。
「一応朔良が気づいたこと、崇史に知らせてくるわ。何だかんだ言って気にしてるはずだから」
どこかのんびりした口調だった。徐々にこの状況に慣れてきたのと、朔良が無事だった安心からか、普段の三吉を取り戻しつつあるようだ。
三吉が個室から出ると、ぼそぼそ朔良が呟いた。
「いつ気づいたの?」
「崇史のこと刺激するなって、俺に言っただろ?」
朔良はまったく覚えて無かった。これは意図的なものではない。意識が朦朧とした中で、言った言葉だった。
「覚えてない…」
素直に言うと、一樹はまた優しく微笑した。
「それから、今までの朔良の行動を思い出した。俺が撃たれそうになったとき、崇史を止めてくれたろ?阿呆な振りして」
「アホ……」
少々傷ついた。
「でも自分のとき、やっと明かした事実があった。あの時は、俺の時より崇史に殺気が満ちていた。だから奥の手を出したように見えたんだ」
図星をつかれて、毛布の下で朔良は赤面していた。毛布があって良かった。
「自分が撃たれたって言うのに、また俺が崇史を責めたら、君は刺激するなと言う。だから思ったんだ」
一樹はちらりと朔良を見た。
「君は自分が“死にたくない”とか、崇史を“ただ止めたい”とか、そんなことじゃなくて……それはもちろんあると思うけど、もっと違う視点に重点を置いていたんじゃないかって」
そう、朔良がここに来た目的。それは崇史に“人殺しをさせない”ことだった。
志保のために。
崇史が自分のことで犯罪者になることは、志保の意に反することだ。でももう、いくつか犯罪を起こしてしまっていた。だからせめて殺人者にだけはしたくないと、朔良は動いたのだ。
志保は自分が死んだ時には、周りにはなるべく早くいつもの日常を取り戻して欲しいと望んでいた。
しかしどのように言っても、崇史は止まらなかった。
一発、自分が撃たれることでショックを受けて止めてくれれば良い、とまで思った。
それで収まるならこんな怪我、いくらでもしてやる。だけど、だからこそ自分はこのまま死ぬわけにはいかない。
朔良は毛布を握りしめた。その手を一樹が上から触れる。
「でも、もう無茶はするな。俺も…協力するから」
「一樹さん…」
力強く一樹の言葉が心に響いた。
(だけど…ダメなんです…)
朔良にはもうひとつ、別の目的があった。そしてそれは今より無謀なことだと思えた。
だから体力はつけておく必要がある。
朔良は目を閉じるといつの間にか再び眠りに落ちた。
* * *
朔良の寝息が聞こえると一樹はその顔を見つめる。
(約束は……してくれなかったか………)
一樹にはそれが何を意味するのかが何となく分かり、ため息をついた。
いつの間にか朔良のことばかり考える。朔良のする言動が気になって、ひとときも見逃せない。
一樹は……つい。
眠っている朔良の顔に、自分の顔を近づける。
そして一瞬だけ、ほんの微かに、唇を重ねた。