夢で
夜が本格的に深まり、MIYOSHIではこんな状態に陥って初めての就寝時間がやってきていた。
皆に疲労が溜まっていた。それはそうだろう。朔良と一樹以外はもう丸一日拘束されてることになる。
三吉が店に毛布を置いてある、と崇史に教え、スタッフルームから出してもらった。
毛布は五枚ある。崇史は全部人質側に渡してくれた。それでも足りないので、二、三人で一枚を使うことになった。
朔良はこんなこともあろうかと、鞄に洋服を余分に持ってきてあったので毛布は断った。暖房もあるし問題ない。
「何が入ってるんだ?」
隣で一樹が大きめの鞄を見て、怪訝な顔をしていた。
「いやあ、何持ってきたら良いかわからなくて、旅行気分…では無いんですけど、ね」
朔良はそれに何とか体裁を取り繕う。
そして一樹もなぜか毛布を断り、朔良の隣から離れなかった。無謀なことをする朔良を見守りたかったのだろう。いや、信用を失ってるだけだな……と朔良は思う。
それからしばらくするとほとんどの人から寝息が聴こえ始めた。本当に疲れていたのだ。
崇史と亮は交代制で見張るようだった。
朔良はなかなか寝付けなかった。まだ興奮しているのかもしれない。
そして静まり返ったその場所では、志保のことばかりが湧き上がってきた。
(いや…違うな…)
此処だからではないのだ。毎日独りになると思い出す…志保のことを。
―――どこにも居場所を感じられない。
志保はよくそう言っていた。まだ崇史と出逢う…幸せを知る前だ。
「だからといって死に逃げるわけじゃあないのよ。でもこの世界は……この国はこんなに物に溢れているのにどこか孤独を感じるの」
彼女はいつもそんなことを言いながらも笑っていた。哀しい笑みだった。
「他人の気持ちって絶対分からないもんだよね。同じことを体験しても感じるところは一人一人違うし。でもつい近い人とだと錯覚する、いま同じこと想ってるかもって」
朔良もそう言いつつ、今は彼女と同じ気持ちなんじゃないかと錯覚する。
そしてそんなとき、そこに少しでも相違があることを知ると、自分は独りだと気づかせられるのだ。
「朔良、人はいつか死ぬけど………私はその時は自分で決めたいな」
志保はそう言うとまた笑った。
今というわけではない……そう、いつかだ。
「そしたら私は笑って見送るよ」
朔良もそう言って笑っていたのだ。
そういう話をした後、いつも志保は、朔良が先に逝くかも知れないよ、と冗談ぽくやはり笑っていた。
(やっぱり志保が先だったんだね………)
なんとなくそんな気がした。
まさかそれがこんなに速く訪れて、こんなに笑うことが難しいことだとは思わなかった。
ひと月経ってもまだ薄れない。
「地球が誕生してどれだけの年月が経ってると思う?長い目でみれば悲しみなんて一瞬だよ」
出逢った頃の志保の言葉は、今や酷く無情に聴こえる。
(分かってるから…志保……)
志保は笑って送られることを望んでいる。
―――そして、なるべく早く周りの人には普段の日常を取り戻して欲しい、と。
しかし崇史はどうだ?志保の想いとは正反対の行動を取っている。
志保の想いは志保と朔良だけのものだった。破られることは許されない誓い。
だから朔良が崇史を止めなければならない。
(志保…必ず思い出すから…)
志保の最期は自分しか知らない、と言ったのは本当だった。
―――失われた記憶には他意がある。
いつの間にか朔良も眠りに落ちていた。
* * *
「ホント朔良には悪いことをしたなあ」
隣で彼女は一人言のように呟いた。頬がほんのり赤い。
「やめてよ。私普通に祝福してるんだから」
朔良は笑いながら心の底からの気持ちで言った。視線は目の前のカクテルに向いたまま。
嘘はなかった。
(ただ…ちょっぴり寂しいだけ…)
声に出さず付け足す。
「でもあの気持ちは今も変わってないの」
「うん」
ちゃんとわかってる。
「結婚してもあたしは変わらないよ」
「うん」
「また時々こうして飲もうよ」
そこで朔良は彼女を見る。
「当たり前だよ!家庭が出来ても誘うから」
誘わなくてもあの店に行けば、高確率で会えるのだが。
「ホントに酒好きだねえ」
彼女はからかうように笑っていた。
「自分もでしょ」
朔良も負けじと笑い返す。
「うん。お酒は日常を忘れさせてくれるからね。…ねえ、あたし達はどんな風に死ぬのかなあ」
何でもないことのようにさらりと彼女は言った。朔良はその言葉を慣れたことのように聞いていた。
彼女と二人きりになるとよくこんな会話をしていたのだ。
「先のことは分からないからねえ。周りは哀しむんだろうけどね」
朔良は苦笑した。彼女は切なそうに言った。
「どうして人ってそうなのかな」
逃れられない死の連鎖。
生あるものはいずれ死ぬのに、必ずそこには悲しみや哀しみが生まれる。
だけどそんな負担をかけるようなことは嫌だね、と朔良達はよく語り合っていた。
そのときふと、彼女の目線は朔良を通り越して、朔良の後ろに向かって笑いかける。
「あ。お久しぶりですね」
朔良は彼女、笠原志保の目線を追って振り向いた―――。
* * *
はっと朔良は目を醒ました。毛布のように掛けていたダウンコートが、少しずり落ちた。
(夢…?)
頭を押さえたい衝動に駆られる。そこで手が自由に動かないことを再認識させられた。
順を追って、現在の状況を思い出す。
朔良は窓際を見ると崇史が見張る番だった。目が合った。
心臓が早鐘のように鳴りだす。隠すように下を向いた。コートを顎で引き上げる。
「何か思い出したか?」
崇史が小さい声で訊いてきた。
周りは皆寝ている。亮でさえ、一樹だって目を閉じていた。起きているのは二人だけ。
朔良も俯いたまま、皆を起こさないように気を遣いながら小声で答える。
「まだですよ」
先ほどのはただの夢では無かった。
所々失くなった記憶の一欠片。
場所はあの日の二次会の会場で、vistaというバーだった。MIYOSHIの後には良く行く店だ。
そこでの志保との会話。
記憶はパズルのピースのように、少しずつはめこまれる。しかしまだ完成はしていなかった。
崇史は片膝を立てて座り、じっとこちらを見ている。朔良の奥底を見定めようとする目だった。
「何が目的なんだ?」
口からストレートに発せられる疑問。
「私が動くのは志保の為だけです」
Dark Killで言った言葉とまったく同じことを呟く。
「冬馬さんとは別のところで」
そして付け足した。
崇史はピクリと反応する。
「どういう意味だ?」
瞬時に朔良は後悔した。まだ言うべき時では無かったのだ。
「志保は今の貴方を見て、どう思うでしょうか?」
しかし重要な記憶を取り戻した朔良は興奮していて、止まらない。
重要なのは、志保との会話のその後だった。二人に近づいてきた人物。確信があった。あの人が怪しい。
そんなことが分からない崇史は朔良を睨み付ける。
「お前も一樹と同じ意見なんだな」
そう言えば一樹も最初に言っていたな、と朔良は思った。
あの時はこの台詞は逆効果だった。だから少し違ったことを伝えた。ただひとつの事実として。
「志保は貴方が本当に好きでした。冬馬さんがいなかったら、志保はもっと早くいなくなっていたかもしれない…」
思わず崇史は立ち上がった。椅子が音を立て、亮が目を開いた。
「それはどういう、ことだ?まさか……」
崇史が頭を抱える。
(言うな!)
心の別の声が朔良を遮る。しかしその口は止まらず、言うつもりも無かったことを吐き出した。
「違います。志保は自殺はしていません」
「!」
崇史は目を見開いた。
ずっと誰かからそう言ってもらいたかったのだろう。その目が少し赤くなる。そして大股で朔良にまで近づいた。
僅かに朔良は身構える。しかし崇史は乱暴はしなかった。
「頼む…教えてくれ。榊原が知ってること全部」
朔良の前にしゃがみこんで頭を下げた。
その姿を見るのは正直辛かった。こうなることが分かるから、言うべきでは無かったのに………。朔良は自分を責めた。
「ごめんなさい」
仕方ない。誤魔化すのはやめよう。誠実に朔良は言った。
「すぐ思い出すから…これ以上は、もう少し待っててくれませんか?」
しゃがみこんだまま崇史は顔を上げる。泣きそうな表情だった。
たまらなくなって朔良は目を逸らした。
「自殺じゃないのは…確かなんだな?」
「………はい……」
自殺志願者だったのはもうずっと前だ。それに志保はこんな形で終えたりしない。それを朔良は知ってる。
「そうか…」
崇史はそれだけ言うと、しばらく黙ったまま項垂れていた。
どうしても朔良は志保の本音だけは伝えられなかった。そして怪しい人物のことも、まだ中途半端な情報しか持ち合わせていなかったのだ。
* * *
そして夜が開けた。
暖房が一応ついているが、真冬の朝はやっぱり寒かった。
ひとつ身震いをして朔良は目覚めた。またいつの間にか眠っていたらしい。
しかし眠りが浅かったせいかまた夢を見た。今回はただの夢。母親が怒りながらこちらを見ていた。よくヒステリックに怒っている母親だった。
(こんな状況になって気になっているのかも……)
遠く離れた両親に、ここに居ることは伝わるのだろうか。
朔良はこの街で独り暮らしをしていた。会社には隼人に連絡をしてもらうことになっている。今日は平日だが出勤は出来ない。
(会社から実家に連絡が入るのかな?)
それは嫌だな、と朔良は思った。無用な心配は掛けたくない。
(でもしょうがないか…)
自分の意志でここにいるのだから。
周りを見るとほとんどの人が起きていた。皆も、あまり深くは眠れていないみたいだった。
朔良はトイレに行きたいと崇史に告げる。
ここにいる間、トイレは申告しなければならなかった。崇史か亮が見張る為ついて来るが、その間だけは縄をほどいてくれる。
「あ、私も…」
遠慮がちに結花も申し出た。この中で女性は二人だけだ。
移動する二人の後ろから崇史がついてきて、そして縄をほどくとトイレの前で待つ。トイレには逃げれるような窓は無い。
最初は待たれることが何だか恥ずかしかったが、二度目には慣れた。
用を足して手を洗っていると結花が左隣に来て話しかけてきた。
「あんた、なにしに来たのよ」
崇史に聞かれないよう、小声だったがはっきりと怒りが伝わってきた。
栗色の短い髪が頬に掛かってくるのも構わず、中腰で手を洗いながら睨み上げている。可憐な花柄のワンピースがその表情と不釣り合いだった。
「みんな同じようなことを訊くね」
蛇口を捻りちょっと朔良は笑ってみせる。しかし結花にはそれさえも苛立ちを募らせる要因となった。
「ちゃんと答えないからでしょ。なにを企んでるのかって訊いてるのよ」
結花とは今までよく一瞬に飲んでいた。あの日もメンバーの中にいたほどなのだから、本当はかなり近しい間柄だ。
そして結花は志保のことが友として大好きだった。
だが志保はよく朔良といるので、常日頃から嫉妬の目を向けていたのだ。このようにあからさまなものは初めてだったが、朔良は気づいていた。
志保が死んだことで、感情が抑制を仕切れないのだろう。
「結花には関係ないことだよ」
自然と朔良も拒絶するような口調になってしまった。結花の目に憎しみの色が混じる。
「あんたなに落ち着いてんの?気持ち悪いっ!なに考えてんのか全然わかんない!」
徐々に語調が荒くる。朔良は黙ったまま結花を見つめた。まるで、静かにその憎しみを受け止めるかのように。
「志保が死んだ日もそれからも、あんたが泣いたところを見たことがないわ!むしろ笑ってばっかり。頭おかしいんじゃない?それとも馬鹿!?」
叫びながら蛇口の先を手で抑え、その水を朔良にぶちまけた。
思わず右手で顔を覆い少し後退る。冷たい水は庇いきれず髪と服を濡らせた。
そのとき、ここの異変に気づいた崇史がドアを勢いよく開いて入ってきた。
「なんだ?何をしている!」
崇史から見て手間に結花、奥に朔良がいる。濡れた朔良と出しっぱなしの水。
事態を瞬時に理解すると結花の腕を抑えた。
「やめろ!」
しかし一度爆発した結花の感情は収まらない。腕を捕まれられながらも糾弾した。
「私は聞いているのよ!あの日あんたは志保に死ねって言ったじゃない!!それから通夜にも葬式にも来なかった!なにを企んでるか言えよ!」
結花は崇史がいなければ掴みかかってくる勢いだった。かくいう崇史は結花を抑えながらも、その内容に訝しげな顔で朔良を見る。
朔良はハンカチを出し、かかってしまった顔や髪を拭いた。まるで平穏な心を取り戻すかのように。
(私が志保に?)
まだ、思い出せない場面だった。
そこに驚きはなかったが、ただ胸は痛んだ。どういう流れでそう言ったのかはまだ分からない。
でもよく生と死について話していたんだ。どうかその延長線上であって欲しいと朔良は願った。もちろん志保の死なんて望んでないから。
(傷つけてしまっていたらどうしよう……)
朔良はそっと目を伏せた。
「そんなこと、どうでも良いでしょう」
「なんですって?」
「たまたま忙しかったから行けなかった、それだけよ。別に何も企んでないし、あの言葉は………そう、ただの冗談」
「なにそれっ!どこまでも自分は関係無いみたいにっ!…そうやって無関心でいればいいわ!私は絶っ対!許さないから!……殺してやりたい!殺してやる!!」
最後の方は絶叫に近かった。何度も殺すと叫び、崇史の腕を振りほどこうとする。
しかし男の力には敵わない。崇史も本気で抑えていた。
「やめろ!大人しくしないと撃つぞ!」
崇史は榛色のジャケットのポケットに入れていた拳銃を、威嚇のために引き抜く。
結花は崇史を睨み付けながらも口を閉ざすと、みるみる内にその目から涙が溢れ出した。
それを見ると崇史は朔良に視線を移す。
「お前も、あんまりスカしてんなよ。勝手なことするな、って言ったのは俺に対してだけじゃないんだ。この場を荒らすなら容赦はしない」
崇史の感情は不安定でぶれていた。怒りと哀しみが左右にあるとしたなら、中心にある針が極端に振れる。
今は結花に感化でもされたのか、怒りの中にいた。朔良はハンカチをポケットに押し込む。
「私だって…別に怒らせたいわけじゃあ、ないんだけどな」
聞き取れないほどの小さい呟き。崇史は僅かにこちらに耳を寄せ、結花は構わず泣いていた。
その時、なかなか戻ってこない三人に不審に思ったのか亮がやってきた。
肩に機関銃を乗せながら飄々としている。中を一度見渡すと朔良に目線を戻して、ぼそりと言った。
「また、あんたなの」
朔良は苦笑するしかなかった。
「こいつ撃っちゃえよ崇史。こいつがいなければ全て巧く纏まる」
とんでもないことを、さらりと無表情で亮は言う。
崇史は即答しなかった。迷っているようだ。
(まずいな…)
直感的に朔良はそう思った。明らかに不利だ。
そしてどう動くべきか迷う。
ひととき沈黙が続き、先に口を開いたのは結花だった。
「もういい。こんな人、相手にしなければいいのよ……構われたいだけなんだわ」
まだ涙声で疲れたように言う。
崇史は結花から手を放した。結花はもう朔良に突っ掛かりはしなかった。
「確かに…木本の言う通りかもしれない」
崇史はポツリと呟く。
「お前のことが分からない。何が言いたいのか、何がしたいのか…」
崇史の、結花の、亮の視線が痛い。
一挙手一投足を見張られているようだった。
「本当に榊原はここに荒らしに来たとしか思えない」
そして崇史は拳銃を朔良に向けた。この状況がもう何度目になるか数えるのも億劫になる。
崇史の表情は読めなかった。
感情を荒立てないで静かに銃口を向けられるのは初めてだ。
だからこそ朔良は恐かった。どういうつもりでいるのか、まったく読めない。一寸先は闇。その言葉を痛感する。
表情に変化もないまま静かに崇史は撃鉄を引き起こした。
「安心しろ。まだ殺さない」
朔良がその意味を考える前に、崇史は引き金を引いた。
乾いた音がトイレに響く―――。
「!」
朔良は跪いた。右脇腹に貫くように衝撃がきて、立てなかった。目の端に赤い液体が広がっていく。
「くっ…」
遅れて、卒倒しそうなほどの痛みが朔良を襲った。
目の前が霞んできて跪くことさえままならなくなる。やがて朔良は前のめりに倒れた。
「きゃあっ!」
やっと事態を把握した結花の叫び声が、どこか遠くから聴こえてきた。