第1話「天使の串焼きと黄金の投資」
石畳から立ち上る熱気が、擦り減った革靴の底越しに足の裏をじりじりと焼く。
タクミはひび割れた唇を舌で舐め、鉛のように重い足を無理やり前へと引きずった。
視界の端で、見慣れぬ意匠の木造馬車が土煙を上げて通り過ぎていく。
車輪が石畳を叩く激しい音が鼓膜を打つ。
すれ違う人々の服装は、現代日本のビジネス街では決して見かけない、粗い麻布や獣の革を縫い合わせた無骨な作りのものばかりだ。
石畳から外れた道の土埃、粗悪な染料の匂い、露店の前で声を張り上げて値を交渉する人々。
ここがかつて自分がいたコンクリートのジャングルとは異なる、物理的にも経済的にも未発達な世界であることは明白だった。
(ブラック企業での連日の徹夜作業……)
パソコンの青白いモニター前で突然心臓が大きく跳ね上がり、そのまま暗闇へと意識が沈み込んだ記憶が最後だ。
次に目を開けると、この見知らぬ街の、埃っぽい路地裏の隅に転がっていた。
状況を冷静に分析するより先に、全身の細胞が生存本能から悲鳴を上げている。
胃袋の裏側を冷たい手でねじ切られるような、鋭い痛みが走る。
ただの空腹ではない。
命の炎が風前の灯火となっていることを、肉体が直接脳髄に訴えかけてくるような飢餓感だった。
路地を抜けると、石造りの建物が並ぶ大通りに出た。
様々な匂いが入り混じり、容赦なく鼻腔を打つ。
香辛料の刺激的な匂い、馬の獣臭さ、行き交う人々の汗、そして、焼け焦げた脂の匂い。
胃の底から酸っぱい胃液がせり上がってくる。
タクミはふらつく足取りで、幽鬼のように匂いの元を探した。
大通りのざわめきから少し外れた、日陰の目立たない場所。
そこに、古びた木材を組み立てただけの小さな屋台があった。
煤けた石造りの小さな炉の上で、串に刺された肉の塊が焼かれている。
脂が弾け、赤い炎が肉の表面を舐め上げるたびに、周囲の空気が重く甘い匂いに染まる。
タクミは目に見えない糸で引かれるように、その屋台の前に歩み寄った。
炉の奥で火の番をしているのは、煤で顔や手を汚した、成人したばかりのエルフの娘だった。
長い銀色の髪を後ろで無造作に麻紐で束ねている。
髪の隙間からは、鋭く尖った耳の先が覗いていた。
その事実に対してファンタジー的な感動を抱く余裕すら、今のタクミには残されていない。
少女は、落ち窪んだ紫色の瞳でタクミを見上げた。
彼女の纏う服はあちこちが擦り切れ、長らくまともな食事をとっていないのか、頬はひっそりとこけている。
その瞳の奥には、警戒心とともに、今日初めての客かもしれないという微かな期待が揺れていた。
タクミは震える指で、スーツのポケットを探る。
奇跡的に、先方の接待用に用意していた純金のタイピンが指先に触れた。
「これを……その肉と交換してくれ」
喉の奥が張り付き、かすれた声しか出ない。
震える手でタイピンを差し出すと、少女は目を丸くし、タイピンの放つ鈍い輝きとタクミの青白い顔を交互に見比べた。
数秒の沈黙の後、彼女はタイピンを受け取らず、焼き立ての串を一本、無言のままタクミの手に押し付けた。
熱い。
指先から伝わる串の熱量ごと、タクミは獣のように肉に食らいついた。
表面は炭火で香ばしく焼き上げられている。
奥歯で弾力のある肉の繊維を噛み破った瞬間、堰を切ったように熱い肉汁が口内へとあふれ出した。
野生の獣特有の強い旨味と、少しの血の匂いが舌の上で広がる。
粗塩の尖った塩気と、ピリッとした安物の香辛料だけの素朴な味付け。
しかし、飢えきった肉体にとって、それは星付きレストランのフルコースにも勝るごちそうだった。
食道を通って胃袋へと落ちる熱い塊が、冷え切っていた体を芯から勢いよく燃え上がらせる。
タクミは無我夢中で肉を咀嚼し、熱さも忘れて喉の奥へ次々と流し込んだ。
一瞬にして太い串を平らげ、タクミは大きく息を吐き出した。
額からはじわっと汗がにじんでいる。
その瞬間、視界の端が白く明滅し、脳の奥でパチンと何かが弾ける感覚が走った。
突如、空になった串と、目の前の少女の頭上に、空中に浮遊する半透明の文字が浮かび上がった。
(なんだ……これは?)
目をこすっても、文字は空中に固定されたままだ。
『粗挽き野豚の串焼き』
素材価値:低(鮮度は良いが肉質が硬い)
調理技術:高(火入れのタイミングが完璧)
潜在需要:極大(適切な資金投入により、王都の美食家をも唸らせる逸品に昇華可能)
視線を少女へと向ける。
『セレン・アルベール』
種族:エルフ
状態:重度の資金難・疲労困憊
才能:商才(大)、調理(中)
適性:投資対象として最優良
頭の中に、スキル『真贋鑑定』と『エンジェル投資』の使い方が自然と流れ込んできた。
前世のブラック企業で血を吐く思いをしながら培った、事業の将来性を見抜く嗅覚。
それが異世界の未知の法則と結びつき、一つのスキルとして形になったのだ。
タクミは口元を手の甲で拭い、もう一度純金のタイピンを力強く握り直した。
「君の肉は、美味い。火の通し方は的確だ」
タクミの低い声に、まだ名乗っていないセレンは肩をビクッと震わせ、うつむいた。
「……でも、肉質が硬すぎる。安物の香辛料で臭みを無理やりごまかしているせいで、せっかくの脂の甘みが死んでいる」
的確な指摘に、セレンは唇を強く噛み締めた。
「……お金がないの。良いお肉を仕入れる余裕なんて、もうどこにも……」
消え入りそうな声だった。
彼女がまともに食べられないほど追い詰められていることは、細く震える肩からも伝わってきた。
タクミは手元のタイピンを見つめ、静かに息を吸い込んだ。
「俺が、投資しよう」
タクミは静かに、しかし確かな意志を持って宣言し、スキルの発動を強く念じた。
(『エンジェル投資』)
手元のタイピンが、眩い黄金の光を放ち、細かい粒子へと分解されていく。
光の粒子はセレンの屋台全体をふわりと包み込み、炉の上に積まれた残りのくすんだ色の肉塊へと吸い込まれていった。
変化は劇的だった。
くすんだ色をしていた安物の野豚の肉が、鮮やかな桜色へと変貌する。
きめ細かい脂のサシが雪のように入り、セレンが焼き網の上に乗せた瞬間、甘く濃厚な香りが通り全体へ一気に広がった。
安物の香辛料は、肉の旨味を最大限に引き立てる複雑なスパイスへとその成分を変質させている。
ジュワァァァッという脂の爆ぜる音が鳴り響く。
「な、何か起きたの……これ……」
セレンが信じられないものを見るように目を見開き、震える手で新しい肉をトングでひっくり返す。
透き通るような脂が赤々と燃える炭に落ち、白い煙が立ち昇った。
その香りは、大通りを行き交う人々の足を一斉に止めさせた。
誰もが鼻をひくつかせ、無言で屋台の方へと顔を向ける。
「おい、今の匂いは何だ! その串を一本くれ!」
「こっちにも二本頼む! いや、三本だ!」
「銀貨を払う、早く焼いてくれ!」
怒涛のように、目を血走らせた客たちが小さな屋台へ押し寄せる。
セレンは一瞬慌てふためいたが、すぐに料理人としての本能を取り戻し、懸命に肉を焼き始めた。
絶妙なタイミングでひっくり返され、肉汁を閉じ込めた極上の串焼き。
焼き上がる端から飛ぶように売れ、彼女の擦り切れたエプロンのポケットは、あっという間に銅貨や銀貨で重く膨れ上がっていく。
◆ ◆ ◆
騒ぎがようやく収まったのは、日が完全に落ち、夜の闇があたりを覆い始めた頃だった。
仕込んでいた肉はすべて完売。
屋台の横にある小さな木箱には、鈍く光る硬貨が山のように積まれている。
セレンは屋台の脇の地面にへたり込み、荒い息を吐いていた。
その顔には、驚愕と、久しく忘れていた大きな達成感が入り交じっている。
タクミは彼女の隣に静かにしゃがみ込み、視線を合わせた。
「君の料理の腕と、俺の事業を見抜く目。これがあれば、世界中のどんな美味いものだって手に入る」
タクミは右手を差し出す。
「俺の名前はタクミ。君の名前は?」
「セレン……アルベール」
セレンは恐る恐る、タクミの大きな手を取り、力強く握り返した。
長時間の調理で小さな火傷の痕があり、包丁を握り続けたことで硬いたこができている。
しかし、確かに温かい熱を帯びた手だった。
「よろしく、セレン。美味しいものを探す旅に出よう」
それが、二人の成り上がりと、美味なる旅の幕開けだった。
異世界の冷たい夜風が、極上のスパイスの残り香を優しく撫でていく。
タクミの胃袋は満たされ、新たな活力が全身の血管を熱く駆け巡っていた。




