第1話 俺は死んだのか
目を覚ますと、俺は冷たいコンクリートの上に血塗れで倒れていた。
頭がぼんやりする。
ゆっくりと体を起こすと、着ている半袖シャツが真っ赤な血で染まっているのが分かった。驚いた俺は、胸のあたりを指で触れてみた。すると心臓のあたりに、刃物による大きな刺し傷があるではないか。
「……なんだ、この傷!」
肋骨の隙間を貫くように肉が切り裂かれていたが、出血は止まっているようだった。痛みは感じない。
「俺の身に一体何が……」
俺は目を閉じて、記憶を遡ろうとしたが、まるで白い霧がかかっているようで思い出せない。俺は記憶喪失にでもなったのだろうか。
見上げると、空がオレンジ色に染まっていた。そして周囲を見回した時、すぐそばに流れていたどぶ川が目に入った。
「あっ、あの川は!」
どぶ川を糸口に、いくつかの映像がフラッシュバックする。
「そうだ……。あれは、焼き鳥屋で一杯飲んだ帰り道だった。俺はこのどぶ川沿いの裏路地で、何者かに刃物で刺されてしまったんだ」
俺はポケットの中を探ってみたが、財布がない。おそらく、俺を刺した男に奪われたのだろう。
俺は手のひらで顔を覆うと、長いため息を吐いた。
「もしかして……俺は死んだのか……」
俺は自分の指先を見つめると、すぐそばにあった看板に腕を伸ばした。指先は看板には触れず、そのまますり抜けてしまった。
俺は確信した。
俺は一度死んで……霊体としてここに立っているのだと。
「だが、死んだのなら、なぜ成仏しない?」
俺は俯いて、足元を見ながら考えた。そういえば人は、未練があると成仏できないと聞いたことがある。
「俺にはまだ、この世に未練があるというのか?」
この俺に、一体、何の未練があるというのか。独身だし、特別親しい友人もいない。これといった趣味もないし、会社で責任のある地位についているわけでもない。
「じゃあなぜ?」
だが、何かを思い出そうとすると、頭の奥が白い霧で覆われているように感じるのだ。霊体になったせいで、生前の記憶の一部を思い出すことができないのだろうか。俺は頭をかきむしった。
「……とにかく生前の記憶を取り戻さないと……。でないと俺はいつまでたっても成仏できない」
俺は周囲を見回した。
「何か記憶の糸口となるようなものはないのか……」
その時、後ろの方から「キャッ!」という女の悲鳴が聞こえた。
振り返ると、50メートルも離れた廃工場の、2階の窓から若い女の子がこちらを見ていたのだ。彼女は俺と視線が合うと、窓辺から姿を消した。
「なぜ、あんな遠くの悲鳴が聞こえるんだ……?」
俺は不思議に思いながら、廃工場の窓をジッと見つめた。
「あの子は俺が見えているのか?」
もしかすると、霊体だから遠くの声が聞こえるのかもしれない。俺は彼女がいた工場の窓をジッと見つめていると、窓の端からこちらを窺う彼女の顔が見えた。
「もしかすると、あの子と俺は顔見知りなんじゃないのか」
俺の直感が、あの女の子に会えと言っていた。
ただ霊が見えるだけじゃ、何度もこちらの様子を窺うなんてことをしないはずだ。
俺は立ち上がった。彼女へ会いに行くことにしたのである。
「とにかくあの子から話を聞いてみるんだ。そして少しずつ……生前の記憶を取り戻す。そして、俺がなぜ、この世に執着しているのかを知らなければならない」
俺は彼女のいた工場をジッと見た。するとその時、目の前を横切る通りから、大柄な男がこちらの路地へ駆け込んできた。上半身が裸で、肩から背中にかけて刺青が施されている。どう見てもヤクザの男だ。
そしてその男は鬼の形相で、俺に向かって突進してくるのだ。
「うわっ!」
俺は両手を顔の前でクロスさせて衝突に備えたが、なんとその男は俺の体をすり抜けてしまったのだ。
「ええ?」
体の中を、風が通り抜けたような妙な感覚が襲う。すると目の前でしわがれた老人の怒鳴り声が聞こえた。
「馬鹿野郎! どきやがれ! このボケが!」
着物姿の老人が腕を伸ばして俺の体を突き飛ばす。
「ああっ!」
俺の体は霊体だったはずだが、その老人は俺を突き飛ばしたのだ。俺は背中から地面に落ちて、そのまま横に転がった。すると、ヤクザの大男は上ずった声で泣き叫んだ。
「あああっ、誰か助けてくれ!」
俺は地面に伏せながら顔を上げると、その老人はなんと片手に抜き身の日本刀を持っているのだ。そして着物の袖をまくり上げると、そのヤクザの肩口からバッサリと斬り下ろしたのだ。
「ぎゃああ!」
ヤクザの男が絶叫する。野太い叫び声だ。
老人は刀を振り下ろした状態で静止していた。
「あああ……ぐうう!」
老人の刀が、ヤクザの背中を突き抜けて、そのまま腰まで斬り下ろした。男は凶悪な顔をゆがませながらのけ反ると、そのまま地面へと倒れ伏した。それを見た俺は絶叫した。
「ぎゃああっ! 人殺し!」
するとその老人は振り返って、眉を吊り上げながら俺を睨みつけた。
「馬鹿野郎! てめえ、もうとっくに死んでいるくせに、なにビビッてんだ!」
その怒鳴り声に、俺は思わず口を噤んでしまった。そしてその老人をジッと見た。
「俺が見えるんですか?」
すると老人は、俺の方へクルリと体を回して振り返った。
「見えるも何もあるかよ……ワシも、お前と同じ霊体だからよ」
俺が驚いた顔で絶句していると、老人は口の端をニヤリとさせながら笑った。
「霊体?」
その時である。
老人の顔を見たせいか、俺の頭の中で何かが疼き始めた。
「ううう……頭が!」
「おい、どうした!」
老人がそばへ駆け寄るが、俺は頭を抱えたまま膝をついてしまった。
その時。俺の頭の中で、いくつかの映像がフラッシュバックした。




