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記憶市場(メモリー・マーケット)  作者: 鷹司 怜


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第二章 消された人々

雨は三日続いていた。


都市全体が灰色に沈んでいる。


空中道路を走る自動車のライトが濡れた路面に反射し、街はまるで海底のようだった。


俺は四十二階のオフィスを出て地上へ降りた。


匿名通信を解析した結果、発信源は旧居住区の外れを示していた。


今ではほとんど人の住まない区域だ。


再開発計画から取り残され、行政の監視も薄い。


そういう場所には必ず何かが隠れている。


そして大抵の場合、それは見つけない方がいい。


エレベーターを降りると湿った風が吹いた。


傘を開く。


通りには人影が少ない。


みんな仮想空間の中で生きている。


現実を歩く人間は年々減っていた。


だが俺が向かう場所には違う種類の人間が集まる。


忘れられた人間たちだ。


旧居住区第八ブロック。


古いコンクリート建築が並ぶ。


外壁は黒ずみ、広告ホログラムも途切れがちだった。


都市の中心部とは別世界である。


通信記録が示した建物は五階建ての共同住宅だった。


半世紀以上前に建てられたらしい。


入口の認証装置は壊れている。


誰でも入れる。


俺は階段を上った。


三階。


三〇七号室。


ノックする。


返事はない。


再び叩く。


すると中で何かが倒れる音がした。


「……?」


慎重にドアを押す。


鍵はかかっていなかった。


ゆっくり開く。


暗い。


部屋の中には異臭が漂っていた。


腐敗臭ではない。


薬品とカビの混じったような臭いだ。


窓は全て新聞紙で塞がれている。


家具もほとんどない。


ベッド。


机。


椅子。


それだけ。


そして。


部屋の隅に老人が座っていた。


痩せている。


異様なほど。


骨に皮膚を貼り付けたような身体だった。


白髪は肩まで伸びている。


視線だけが妙に鋭かった。


俺を見る。


そして。


その顔が凍り付いた。


「お前……」


しゃがれた声。


「生きていたのか」


俺は眉をひそめた。


「誰と勘違いしてる?」


老人は答えなかった。


ただ震えている。


恐怖なのか。


驚愕なのか。


判別できない。


「三日前」


俺は切り出した。


「この通信端末から匿名発信があった」


老人の視線が泳ぐ。


「知らん」


「女の声だった」


沈黙。


「俺を呼んだ」


老人はゆっくり首を振った。


「遅すぎた」


「何がだ」


「全部だ」


会話はそこで途切れた。


老人は明らかに何か知っている。


だが怯えていた。


まるで盗聴されているかのように。


実際、この街では珍しくない。


記憶管理局の監視網はどこにでもある。


俺は部屋を見回した。


そのときだった。


壁に貼られた一枚の写真が目に入る。


古い紙焼き写真。


珍しい。


今どき物理媒体などほとんど残っていない。


俺は近づいた。


そして足を止めた。


写真には広場が写っていた。


大勢の人々。


旗。


演説台。


祭りか集会か。


分からない。


だが。


俺はその場所を知っていた。


あの記憶だ。


虐殺の記憶で見た広場。


間違いない。


建物の配置。


石畳。


巨大な時計塔。


全て一致する。


心臓が強く脈打つ。


「これはどこだ」


老人が顔を上げた。


「……知らん」


「嘘をつくな」


「知らんと言った」


「この場所を見たことがある」


老人の瞳に恐怖が広がった。


その瞬間だった。


部屋の照明が消えた。


真っ暗になる。


停電ではない。


電源そのものが切断された。


老人が息を呑む。


「来た」


震える声。


「見つかった」


窓の外で低い駆動音が響く。


ブーン。


ブーン。


複数。


ドローンだ。


俺は反射的に腰の端末へ手を伸ばした。


窓の新聞紙を突き破り、光が差し込む。


サーチライト。


白い光。


部屋の中を舐めるように走る。


老人が悲鳴を上げた。


「逃げろ!」


次の瞬間。


窓ガラスが砕け散った。


銀色の球体が室内へ飛び込む。


監視ドローン。


いや違う。


警備型だ。


軍用に近い。


民間では見ないモデル。


俺は床へ飛び込んだ。


ドローンの下部が開く。


青白い閃光。


熱線。


机が蒸発した。


木材が一瞬で炭になる。


「くそっ!」


なぜだ。


ただの聞き込みだ。


なぜ軍用ドローンが来る。


老人は床を這っている。


俺は腕を掴んだ。


「立て!」


「無理だ!」


「死にたいのか!」


さらに二機。


窓から侵入。


部屋が蜂の巣になる。


熱線が壁を焼き切った。


コンクリートが溶ける。


異常だ。


国家テロ対策レベルの戦力だった。


老人一人に使う規模ではない。


つまり。


この老人は重要人物なのだ。


俺が知らない何かにとって。


非常階段へ飛び出す。


背後で爆発。


建物全体が揺れた。


警報が鳴り始める。


老人は息を切らしている。


限界だった。


七十代後半か。


八十代か。


まともに走れる状態ではない。


だが階段を降りながら老人は何度も振り返っていた。


追っ手ではない。


俺を見ている。


まるで信じられないものを見るように。


「お前……」


息を切らしながら呟く。


「本当に覚えてないのか」


「何を」


老人は答えない。


代わりにポケットから小さな記録媒体を取り出した。


古いメモリーチップ。


今ではほぼ絶滅した物理媒体。


それを俺の手に押し込む。


「預かれ」


「何だこれは」


「全部入っている」


老人の顔が青ざめていた。


「広場も」


震える声。


「死んだ人間も」


そして。


「お前自身も」


俺は立ち止まった。


その瞬間。


老人が俺を突き飛ばした。


閃光。


轟音。


熱風。


世界が白く染まる。


何が起きたのか理解できなかった。


数秒後。


視界が戻る。


そこには穴が開いていた。


階段ごと吹き飛ばされている。


老人の姿はない。


血痕も。


肉片も。


何も残っていなかった。


まるで最初から存在しなかったかのように。


ただ壁だけが黒く焼けている。


俺は呆然と立ち尽くした。


握り締めた掌の中。


古びたメモリーチップだけが残されていた。


その表面には、掠れた文字で一行だけ刻まれている。


第零区画 収容記録


その言葉を見た瞬間。


頭の奥で激しい痛みが走った。


知らないはずの景色。


泣き叫ぶ人々。


鉄格子。


白い部屋。


そして。


誰かの声。


――蓮くん。


逃げて。


痛みは一瞬で消えた。


だが俺は確信していた。


この記憶は他人のものではない。


俺自身の中にある。


忘れさせられているだけだ。


そして誰かが、それを思い出させようとしている。

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