七話
寝そべったまま、ふと顔をあげると、そこに鏖殺人の顔がある。
極めて奇怪な状況に、その時のユキは涙を流すのも忘れて、一時停止した。
「……お母さんは?」
最初に、鏖殺人はそう聞いてきた。
静かな口調だった。
全くの無感情で居るような。
あるいは、感情を圧し殺しているような。
未だに状況は理解できていなかったが、わかりきった質問でもあったため、ユキは反射的に答える。
「出ていった」
「そうか……その足は?」
淡々と、朗読でもしているかのような気勢で、鏖殺人は質問を続ける。
こちらも、簡単な問いかけだった。
「もう、動かない」
「いつからだ?」
「昨日……何しに来たの?」
この時点で、ユキの方からの鏖殺人の認識は、「自分の父親を殺した人」と「免罪符をくれた人」の二つだけだった。
尤も、逃亡生活のせいで、顔もよく覚えていない父親が殺されたことには大した感情も湧いてこなかったし、免罪符をくれた時も、少ししか話さなかったため、印象は薄い。
ユキの視点からすると、ほぼ他人だったと言ってもいい。
だから、不思議だったのだ。
何をしに来たのかが。
他の大人のように、ユキに暴力を振るうわけでもなく。
かといって、多少はまともな警士を呼んでくるわけでもなく。
静かに質問を重ねる、彼の姿が。
本当に、奇妙だった。
「君の様子を見に来た、と言えば、笑うか?」
続けての返答には、何故か自嘲的な感じを受ける言葉だった。
笑われることを待っているかのような言葉。
まだろくに鏖殺人のことを知らないと言うのに、似合わないな、と感じたことを覚えている。
母親からの話で、鏖殺人は異世界転生者を殺すためだけに行動していることは知っていた。
父親の死も、その行動の一部だと。
免罪符を与えた相手にも、執拗に調査をする人物だと。
人を人だとも思わない、悪魔だ、と。
そう聞いていたものだから。
次に、こう質問した。
「殺さないの?」
そう聞いた瞬間、仮面越しにも、鏖殺人をが表情を変えたのがわかった。
嫌がっているというべきか。
面倒くさそうというべきか。
何と言うか、しょっぱい表情をしているように思われた。
後で聞くところでは、「また説明するのか……」とげんなりしていたらしい。
それでも、鏖殺人は妙なところで律儀であるため、もう一度説明をしてくれた。
「俺の仕事は、異世界転生者をすべて殺すこと。そして、その活動の中で、人間を誰一人として殺さないことだ」
「この活動のために、免罪符を持つ人間を、転生局は出来るだけ保護するようにしている。そうしないと、間接的にだが、免罪符のせいで死ぬ人間が出てくるからな。……君のように」
「もしここで俺が君の状況を見逃せば、結果見殺し、ということになる。そうなれば、俺が君を殺したも同然だ。そんな有り様では、俺は転生局の局長などと、二度と名乗ることはできない。その資格がない」
「ただ、俺は異世界の概念で言うところの神ではない。君のいなくなった母親もそうだが、手の届かない人物まで全て保護することはできない」
「だが、君は手が届く人間だ。……遅くなってしまったが」
「覚えていないかもしれないが、君の父親が死んだ辺りで、君のことは調査している。君が異世界転生者ではないことは明白だ。……このような扱いを受ける謂れはどこにもない」
文字では表現しにくいのだが、実際には、もっと噛んで含めるような言い方をしていた。
まだ八歳の少女に過ぎなかったユキに、何とか理解してもらおうとするような言い方。
酷く、新鮮な気分だった。
よく覚えていない父親にしろ、少し前に出ていった母親にしろ、自分に対してこのような話し方はしなかった。
出てくる言葉は、命令と愚痴ばかり。
一応の家族ですらそうなのだから、他人には望むべくもなかった。
記憶にある限り、ユキに対して配慮した話し方をするのは、彼が初めてだった。
いや、もっと言ってしまおう。
ユキの人生で、ユキに対して優しく接してくれたのは、その時の鏖殺人だけだった。
その彼が、ユキの父親の仇でもあり、この状況を強いさせた遠因であることは、大きな皮肉だったが。
しかし、ユキはまだ優しさというものに慣れていなかった。
悪意よりもずっと、よくわからない概念だった。
だから、鏖殺人の言葉を聞いている時も、心の一部では、「この人はどのタイミングで殴ったり叩いたりするのだろう?」と考えていた。
故に、質問を重ねた。
「私、異世界転生者の子どもなのに」
「関係がない。異世界転生者の子どもは全て殺せなどとは、転生者法には書いていない」
「免罪符があっても、誰もやめなかったのに」
「それは、ここの人間の考え方が古いからだ。本来、あってはならない」
「お父さんもお母さんも、いなくなったのに」
「申し訳ないが、父親の方は謝ることはできない。これが俺の仕事だからね。ただ、君や君の母親に関しては、俺の落ち度を含んでいる」
鏖殺人の言葉は明瞭だった。
一切の迷いがなく、ポンポンと返答をしてくる。
だが、最後の質問に答えると、言葉を切って、それからゆっくりと告げた。
「今まで、すまなかった」
何故だろうか。
その言葉を聞いた時、ユキの瞳からはもう一度涙が溢れてきた。
どれだけ泣いても、枯れ果てるということのない涙が。
それはきっと、鏖殺人が、ユキを一人の人間として話しかけてくれたからだろう。
鏖殺人が父親を殺したとかいう、ユキにとっての過去の出来事は、もう脳裏から吹き飛んでいた。
もっと後になってから、ユキはこう考えた。
あの頃、ユキの父親も、母親も、周りの人間も、ユキを人間扱いしていなかった。
まず、「異世界転生者の娘」というレッテルがあり、次にそいつは宮野ユキとか言うらしい、と続いた。
ユキという存在が、他の人と変わらず、苦しみ、泣き、悲しむ存在なのだと、誰も考えていなかった、とすら思う。
だから、鏖殺人の揺るぎ無い言葉が、どうしようもなく胸に響いた。
そして、次にかけられた言葉は、確かにユキの心を射抜いた。
「転生局の局長として、あるいは最近よく呼ばれる、鏖殺人とか言う名前にかけて保証しよう。君は人間だ。このような扱いは、間違っている」
そう告げた次の瞬間には、彼はもう手を伸ばしていて。
気が付いた時には、鏖殺人は異臭も気にせずに、ユキのことを抱えていた。
そのままで──要するに「抱っこ」の状態で、彼はユキの家から離れる。
この日が、ユキがその家に住む最後の日となった。
「わぁ……」
家の外に出た瞬間、ユキは思わず声を漏らす。
声をあげずにはいられないほど、外の状況は一変していた。
まず路地は、見たことがないほどの数の中央警士で溢れ帰っていた。
五十人とはきかないだろう。多すぎて数えてはいないが、百人ほどはいるのではないか。
次に、大きな道の真ん中には、これまた大量の馬車が用意されている。
加えて、置いてある馬車は、少々異常だった。
馬の方は普通だが、引いている車の方がおかしい。
天井が藁でも編んだかのような荒いものになっているし、車輪の方も見るからに古い。
極めつけに、窓がなかった。
この時のユキは当然知らなかったが、これらは全て、王都に置いてある馬車の中で、最下級のものだった。
つまり、囚人の護送用である。
最後に、最大の変化として────。
近隣住民が、軒並み手を縄で縛られ、その馬車に詰め込まれていた。
パンだと言い張って石を売ってきたパン屋も。
通りがかるたびに泥を投げつけてきた農家も。
子どもたちと一緒になって殴ってきた教師も。
ユキの訴えに耳を貸さなかった地方警士も。
この近くの人間が全員捕まったのではないか、と錯覚するほどの勢いで、次々と人々が馬車に詰め込まれていく。
そして、ユキの目の前で────昨日、ユキの足を動けないようにした老人が連行された。
杖すらも取り上げられ、中央警士によって後ろ手に縛り上げられているその姿は、完全に罪人のそれである。
劇的な状況の変化に、思わずユキは息を飲む。
ちょうどその時、件の老人の目が鏖殺人を捉え、彼は大声でわめきだした。
「わしらは、異世界転生者じゃない!い、い、異世界転生者なのは、そこの娘だ!」
恐怖で声が裏返ってこそいたが、ユキの耳にもはっきりと聞こえた。
昨日の今日と言うこともあり、どうしてもユキの身は強ばる。
だが、間髪いれずに聞こえてきた鏖殺人の言葉が、その強ばりを解いてくれた。
「俺は、異世界転生者を殺しにきたんじゃない。この地域に、異世界転生者はいないからな」
「だったら……!」
「俺は今日、お前たちに法を執行するために、ここに居る」
淡々とした口調ではあったが、反論を許さないような重みがあった。
「未成年者に対する集団暴行、転生局の問い合わせに対する偽証、そして今日ここに来た際の、転生局及び中央警士局への執拗な職務執行妨害。これらは全て犯罪行為だ。お前たちを捕まえない理由はどこにもないな」
そこで一度、鏖殺人はまるで安心させるかのように、ユキの頭を軽く撫でた。
ユキは、生まれついたその日から、転生者法によって全てを失った。
そしてこの日、ユキは転生者法によって、全てを手に入れた。