五話
玄関で鏖殺人に出会ってから、ユキの記憶は少し飛ぶ。
恐らくは、鏖殺人に言われるがまま母親を呼んできたのだと思うのだが、あまり覚えていない。
尤も、これはそこまで奇妙なことでもない。
母親がユキの世話をしなくなった辺りから、ユキの母親に関する記憶は急速に薄れている。
覚えておきたいと思えるほどのことが、何一つとして無かったのだろう。
だから、ユキの記憶の続きは、母親に連れられたまま、鏖殺人にもう一度対面してからになる。
「このたび、副局長だった私が、局長に就任しました」
まず最初に、大して嬉しそうでもない言葉とともに、鏖殺人が似合わない挨拶をした。
「それに合わせて、今年度から、免罪符の形式が変わったため、少しお訪ねしただけです。……あなた方の免罪符は、少々注釈が必要なものですから」
感情の起伏をあまり感じさせないような声で、鏖殺人は粛々と告げる。
この言葉を受けたときの、母親の表情もまた、覚えていない。
あまり、良い顔はしていなかったと思うが。
基本的には、鏖殺人に対して無言を貫いていた。
故に、その母親が口を開いたときには、幼心に驚いたことをよく覚えている
「……二年前」
新しくなった免罪符を受けとりながら、ユキの母親が口を開く。
「どうして、この子を、…………なかったのですか?」
聞き取りにくい、濁った声だった。
この子、というのが、自分を指していることはわかった。
問いかけている相手が、鏖殺人であることも。
だがその時のユキには、何をしなかったのか、という部分は、ちょうど聞き取れなかった。
その言葉を境に、鏖殺人の雰囲気が、ほんの少し変わったことは、よく覚えている。
ろくに顔の見えない格好をしているというのに────ユキには、彼が眉をひそめたように見えた。
「……どうやら、我々の職務について誤解があるようですね」
続けて投げ掛けられた言葉は、子どものユキにも感じられるほど、諭すような声色をしていた。
「二年前にも、説明しているはずです。我々は異世界転生者を全て殺す。しかし、人間は一人も殺さない。転生者法の施行以降、これを大原則として掲げてきました」
そこで、鏖殺人は一度口を閉じた。
しかし、ため息でもつくような調子で、再び口火を切る。
「異世界転生者というのは文字通り、『異世界から転生してきた者』、のことです。……あなたも、あなたの娘さんも、この世界で生まれ、この世界で生きてきた存在──我々がどうこうする理由はどこにもない」
「例え、異世界転生者の血を引いている者であっても?」
噛みつくようにして疑問の声をあげたのは、もちろん、ユキの母親だった。
その言葉に、懇願のような意味合いが含まれていることに、ユキはぼんやりと気づく。
だが、ユキがその真意に思い至る前に、鏖殺人が返答した。
「そうです。確かに、あなたの娘さんは異世界転生者の娘であり、血族です。しかし、二年前に何度も言ったはずです。あなたの娘さんは、普通の子どもです。移動型異世界転生者でも、再誕型異世界転生者でもない。たまたま父親が異世界転生者だったというだけです。この世界に生を受け、普通の子どもとして生まれてきた、ただの人間なんです」
「……転生局は、血縁関係は重視しない、と?」
「当然です。その子は、異世界転生者ではないのですから」
ユキの母親は、この小さな論戦で、鏖殺人からある言葉を引き出したかったのだろう。
今なら、わかる。
だが、当時のユキは、大人たちの言い争いに目を白黒させるだけだった。
それはある意味では、幸福だったのかもしれない。
「……話がそれました。新しい方ですが、娘さんの方は大して変わっていません。ただ、あなたの方は多少変わっています。……では」
言うだけ言うと、鏖殺人は足早に立ち去っていった。
例のごとく、ここから先の記憶はない。
だから、その晩のユキの母親の様子や、表情も覚えてはいない。
きっと、醜く歪んでいたのだろう、とは考えているのだが。
後から、鏖殺人に聞いた話だ。
鏖殺人が取り替えに来た、古い方の母親の免罪符には、ユキのそれと同様、注釈が書いてあったらしい。
内容は単純。
「当該人物は一時期異世界転生者と婚姻関係にあったが、現在は解消されており、他の者と変わらず上記の内容を保証する」
これだけだ。
しかし、ユキのそれと同様、ユキの母親の免罪符に殴り書きされたその一文は、長らく彼女を苦しめてきた。
何かと免罪符を提示するたびに、「この人は異世界転生者と結婚していたのか!」と驚かれるのだから。
だが、その日、鏖殺人が届けに来た新しい免罪符には、この記述は無い。
形式が変わるにあたって、削除されたのだ。
その一文のために、免罪符が実質的に機能していないという、彼女の今までの訴えが、ようやく認められたのである。
というより、この変化があったからこそ、わざわざ鏖殺人が免罪符を届けに来たのだろう。
だが、この時、削除された文章は、ユキの母親のものだけだった。
ユキの免罪符には、以前と変わらず、「当該人物は異世界転生者の娘であり……」という一文が書かれていた。
鏖殺人は、この話をユキにした時、「彼女も、生活苦で混乱していたのだろう」と、語尾を濁した。
だが────いくら苦しんでいたとしても、自分達が迫害を受けている原因のような文章を削除してもらう時、自分の娘の分を、忘れるものだろうか?
ただ一言、言えばいいだけではないか。
訪ねてきた鏖殺人に対して、娘の方の一文も消してくれ、と。
この一文のせいで娘が苦しんでいるのだ、と。
そう言うだけで、ユキの方の免罪符からも、その一文は消えたはずだ。
だが、彼女はそうしなかった。
自分の分の免罪符だけ、注釈が無い、他の免罪符と同じ仕様にして、ユキの免罪符は放置した。
鏖殺人には悪いが、ユキはこの事実が意味することに、早くから気がついていた。
ああ、そうか。
母は、この時点でもう。
────自分を捨てる気でいたのだ、と。
あの時の会話。
鏖殺人と、ユキの母親の会話。
唯一、はっきりと聞き取れなかった言葉。
真実を理解したときから、ユキはその言葉が聞き取れるようになった。
「どうして、この子を、…………なかったのですか?」
「どうして、この子を、…………さなかったのですか?」
「どうして、この子を、……ろさなかったのですか?」
「どうして、この子を、ころさなかったのですか?」
「どうして、この子を、殺さなかったのですか?」
ただ、鏖殺人に理由を聞くだけの質問とも、考えることはできる。
大して意味がある言葉ではないと、誤魔化すことも可能だ。
だが、あの時の母親の様子と、その後の行動から考えると────。
母親はもう、ユキのことを捨てたいと思うどころか──鏖殺人に殺して欲しい、と思っていたのだろう。
何かと理由をつけて、死んでしまえば、自分の背負う苦労は軽くなる。
そう考えて。
だから、あの行動は。
ふと魔が差した、とか、不幸に耐えかねて、とかの行動ではない。
じっくりと計画を練り、考え込んだ末での行動だったのだろう。
この日の晩、ユキの母親は、ユキが寝ている隙をついて、家を出た。
そしてそのまま、二度と帰ってこなかった。
俗に言うところの、「蒸発」。
自分の免罪符だけをその手に持ち、彼女は新天地へ向かった。
ユキには、その時から家族がいない。
必要だとも、思わない。




