二話
昼休憩が終わり、いつものようにユキは転生局の建物へと向かう。
さすがに手慣れているだけあり、車椅子と言えど素早く入り口に辿り着いたが、建物が視界に入ると、ユキの口からはため息がこぼれた。
出来るだけ綺麗にしようとは思っているのだが、目の前の建物はやはり全体的に薄汚れている。
──業者の人、あんまりちゃんとやってくれないからなあ……。
考え出すときりがないため、口にこそしないが、常日頃感じている不満が脳裏によぎった。
転生局にはあらぬ噂がついて回るため、立ち寄る人間は非常に少ない。
そのせいか、委託している清掃業者も、鏖殺人を恐れてすぐに帰ってしまう。
せめてもう少し、鏖殺人に相応しい、もっと綺麗な場所にしたいとは思っているのだが、現状としては難しい。
鏖殺人は、仕事さえこなせるのであれば、周りの環境には大して拘らない。
あまりに散らかっている時に、自分で整理するくらいか。
副局長の方は、もっと気にしていない。
元々研究肌であるため、しばしば倉庫に籠り、むしろ積極的に汚している。
渉外担当の方は、そもそもここにあまり来ない。
現在は、たしかアカーシャ国を訪れているところだろう。
結局、この建物の美観を気にするのはユキぐらいである。
しかし、この足では、どうしても掃除できない部分がある。
せいぜい、入り口の花壇に水をやるのが、ユキに出来る精一杯の抵抗といったところか。
──こんな建物だから、変な噂も増えるんだろうなあ。
器用に扉を開けながらも、ユキの思考は続いた。
自分達の行動が、国の業務の中でも取り分け血生臭いものであり、魔法大戦直後はともかく、現代ではかなり外聞が悪くなっていることぐらいは、ユキとて知っている。
実際、鏖殺人の異世界転生者に対する苛烈な扱いは、そばで見ているユキですらおののくことがある。
だが、その行動の是非と、妙な噂であげつらわれることは別問題だ。
特に、鏖殺人を侮辱するような噂など──。
無意識にユキの手に力が籠り、車椅子のタイヤに付属する取っ手が嫌な音を立てる。
──君が、鏖殺人が囲っている愛人だっていう噂。
事実と比べることが馬鹿らしくなるほど、真実から解離している。
大方、車椅子に乗り、どうしても自由に動けないことがあるユキへの印象と、鏖殺人に付きまとう悪い噂から捏造された話なのだろうが、どうにも気分が悪い。
──ティタンさん以上に、私に向き合ってくれた人は、他にいないのに……。
こんなに気分が悪くなる噂が生まれるのも、多分、建物が汚いせいだ。「……、……?」
廊下を進みながら、腹立ち紛れに、ユキは建物に八つ当たりする。「……、……君?」
やはり、もっと良い業者に頼むようにしよう。鐘原なら、どこか知ってるだろうか。「……、宮野君?」
「……ユキ?」
聞き慣れた声が耳の中に響き、反射的にユキは体を捻って声の元を見た。
「ティタンさ……いえ、ティタン局長、どうされました?」
そこには、局長室の扉を開けたまま、所在なさげに佇む鏖殺人の姿があった。
「いや、むしろ君の方がどうしたんだ?」
同じ質問を返されて、ユキは初めて自分の状況に目を向ける。
気がつけば、ユキは事務室どころか、局長室すら通りすぎて、その奥、行き止まりの壁にまで車椅子を進めていた。
どうやら、考え事をしているうちに壁にぶつかっていたらしい。
それを認識した瞬間、一気にユキに恥ずかしさが襲ってくる。
行き止まりであるというのに、変わらず車輪を進めていたこともそうだが、何よりもそれを鏖殺人に見られてしまったのが気恥ずかしい。
穴があったら入りたいくらいだ。
「すいません、すぐにそちらへ……!」
慌てて車椅子を方向転換させようとするが、生憎空間が狭すぎる。
手をタイヤの取っ手に添えようとすると、左手を壁にぶつけてしまった。
がつん、と意外に大きな音が鳴り、思わずユキは呻く。
「あー、よせ。運ぶ」
気がつくと、いつの間にか鏖殺人がユキのすぐ後ろにまで来ていた。
止める間もなく、車椅子の後部に付けられた、介助者用の取っ手を掴み、スムーズに車椅子の方向を百八十度変えさせる。
ユキの介助をするのは久しぶりのはずだが、さすがに十年前からやっていただけあり、その動きは滑らかだった。
そのまま、手慣れた様子で、ユキを乗せたまま車椅子を事務室まで進ませる。
叱責はされなかったが、その最中、ずっとユキは赤面していた。
──迷惑かけないようにって、決めてたのに……。
三年前、転生局に入った時に決めた誓い。
前々からあまり守れていなかったが、再び破ってしまった。
「……ついでに、知っての通り、転生憲章の契約更新が、一ヶ月後に行われる。それに合わせて、俺自身もアカーシャやナイトの方にある転生局に出向く必要がある。形骸化した飾りみたいな書類だが、一応視察許可証を書いて、平和庁の方の事務に届けてほしい」
「……はい、大丈夫です。わかりました」
鏖殺人からの用事は、何のことはない、ただの書類作成の依頼だった。
ここのところ、異世界転生者出現の通報はないのだが、代わりと言って良いのか、事務作業が妙に多い。
「では、頼む」
必要最低限のことだけ言うと、鏖殺人はすぐに身を翻して事務室から出ていった。
何か用事がある、と言うわけではないのだろう。
ただ単に、彼は理由もなく一ヶ所にとどまることなどしない、というだけだ。
扉が閉まる音が鳴り、ユキはほっと胸を撫で下ろす。
昔──ユキを育ててくれていた頃は、鏖殺人は常に優しかった。
だが、仕事の上司として考えると、鏖殺人は部下に対して、中々に厳しい。
慣れ親しんだ彼の話でも、仕事について語られている時は、どうしても緊張感が伴った。
──さて。
気を取り直して、ユキは車椅子の位置を少しずらし、机へと向かう。
だがその際、ふと壁にかけてある書類たちが、久しぶりに目に入った。
平和庁長官の訓示。
グリス王国建国者たちの肖像画。
さらに──転生局としては因縁の敵でもある、佐藤トシオの顔。
「最悪の異世界転生者が居たという事実を、我々は忘れるべきではない」
そう発言した初代ティタンの手によって、百五十年前に掛けられたものである。
異世界で言うところの、「顔写真」と言うものらしい。
さすがに月日が経ちすぎて大きく劣化してしまったが、どこにでもいそうな、十五、六歳の少年の顔がはっきりと確認できる。
そして、その横。
佐藤トシオの写真の隣には、ある証明書が額縁に入れられて掲示されている。
「当該人物における非異世界転生者証明に関する書類群」
当該人物、の単語のすぐ隣には、氏名欄がある。
そこには、ユキの記憶通り、鏖殺人の字で宮野ユキ、と書いてあった。
いわゆる、「免罪符」である。
──もう、ここへ来て十年かあ……。
不覚にも、自分の免罪符を見たことで、ユキはとてつもなく懐かしい思いに駆られた。
その思いに任せ、表題の下の部分も読んでいく。
内容自体は、他の免罪符との違いはない。
だが、一番下、額縁に掛かるとかどうか、というギリギリの場所に、鏖殺人の殴り書きがある。
「当該人物は、異世界転生者の娘であるが、変わりなく、上記の内容を保証する」
その一文は、ユキの意識を十年前に飛ばした。




