十四話
その石に座っていた時間は、どのくらいだったのだろうか。
鏖殺人が去った後も、カケルは石の上に座ったままでいた。
自分がしたこと。
鏖殺人がしたこと。
今までの生活。
これからの生活。
様々な考えが浮かんでは、消えた。
だからかもしれない。
結構な距離があるというのに──遠くに人だかりがあることに気が付いたのは。
──何だ?
見た瞬間、カケルはその光景に強い違和感を覚える。
朝っぱらから衝撃的な出来事が連続して起きたために、時間の感覚を忘れていたが、今はまだ九時くらいのはずだ。
周囲の農家では、自分の畑の世話をしている時刻である。
何人も集まって作業をするのは、もっと遅くなってから。
つまり、この時刻に人だかりができているということ自体が、かなりおかしい。
考えられるのは、事故か、急病か。
火事ということも考えられる。
その人だかりに近づいた理由は、暇だったから、としか言えない。
ちょうど、自分に課せられていた、大げさに言えば使命とかいうものが消失した直後である。
とりあえずのところ、やらなくてはならないことは何もない。
厳密に言えば、まだ家の中で気絶しているであろう母親への処置とか、一人で泣いているかもしれないランの世話だとか、した方がいいことはたくさんあったが、今のカケルにとって、それらはすべてどうでもいいことのように思われた。
ふらふらと足を進めれば、五分もしないうちに住宅街の近く──カケルの同級生たちの家がある場所に出てくる。
そこまでくれば、カケルにも人だかりの詳細が見えてきた。
何のことはない。その場所は、つい先日カケルが夜の散歩のついでに訪れた場所──新築祝いということで、宴を開いていた家だった。
それに気づいた瞬間、カケルはその場所への興味を急激に失う。
大方、新築祝いの続きでもしているのだろう。人が集まっているということは、餅でも配っているのかもしれない。
だが────。
カケルは、自分が抱いた考えに違和感を覚える。
新築祝いを何度も開いているのはまあいいとしても、時刻がおかしい。
この村での生活スタイルから言って、普通宴の類は全ての農作業が終わってから行うはずである。
そうでなければ、この村では宴に参加できない人の方が多くなってしまう。
実際、前回は夜に行っていた。
先ほども少し考えたが、朝っぱらから宴を開き、しかもそれにここまで人が集まっているというのは、やはりおかしいのだ。
そこまで思考した時には、カケルはもう人だかりのすぐそばに辿り着いていた。
──やっぱり、多いな。
その家の塀に群がるようにして、三十人近い人数が集まっている。この村の人口と時刻を考えれば、異常といっていい。
だが、どうやら火事や事故ではないようだ、とカケルは集まった人の様子から察した。
上を見ても煙が立ち上っている様子はないし、消火道具も辺りには無いようだ。
また、群がる人々には深刻な様子が見られない。
基本的に農家同士での助け合いで生きているこの村で、急病人が出たり事故が起こったりしたのであれば、もっと深刻な雰囲気になっているはずだ。
カケルは人ごみの中に見知った顔を見つけたのは、その時である。
「キャベツ、それに役人?」
集まった人の中でも一際背の低い彼らは、カケルを見ると待ちかねたような様子で近づいてきた。
「カケル!お前も来てたのか?」
「大変なことが起きたんですよ、カケル君!」
キャベツは、他のことに気を取られているような、気の抜けた口調で。
役人は、こんなに興奮したことはない、と言わんばかりの熱い口調で。
各々の驚きを言葉に変えた。
その言葉を聞き、カケルは今日何度目かの絶句をした。
「この家の上の子ども、異世界転生者だったんだって……」
「ほんの三時間前に、鏖殺人が来て、その子どもを殺したそうです!」
二の句が継げない、とはこのことだ。
驚きが喉を固まらせ、何の感想も声に出来ない。
だが、キャベツも役人も興奮しているのか、カケルのことは無視して言葉を連ねた。
「今日の朝、突然鏖殺人が訪ねてきたって、言ってた。昨日のうちから早馬を飛ばしてきたらしい」
「ここが副村長のお宅なのは、カケル君もご存じだと思いますけど、副村長も最初は訳が分からなかったそうです。転生局が何の用だって、何度も怒鳴ったとか」
「だけど、転生局ってかなり強い権利があるみたいで、そのままずかずかと家の中に入ったんだってさ」
「副村長の奥さんは、上の子供が異世界転生者だなんて全く思っていなかったそうです。鏖殺人に何を聞かれても、意味が分からなかったとか」
「ただ、鏖殺人はその子供を起こすと、二、三個質問したらしい。それで、答え終わった時には、もう……」
「……そのまま、死んだ子どもを抱えて鏖殺人はどこかに消えたそうです」
「副村長は、帰ろうとする鏖殺人に殴りかかったそうだけど……。返り討ちに会って、診療所の方に担ぎ込まれてる」
「そして、奥さんはあそこに……」
そう言うと、役人は人だかりの方に目をやった。
その時には、何とかカケルも口を開けるようになっていた。
「役人、あそこには、何があるの?皆、何を見ている?」
「あそこには、その……」
役人はどうやらその先のことを言葉にしたくないようだった。
しばらく沈黙が続くと、見かねたようにして、キャベツの方が口を開く。
「あそこの家、ちょっと前に新築祝いをしてたんだよ。その時、客を呼び込むために塀の一部をあえて作らずに、庭を解放してたんだ。まだ追加で建てていないから、今もあそこから中の様子が見える。それで、奥さんの様子が見えて……」
キャベツも、そこで口をつぐんだ。
このままでは、埒が明かない。
気が付いた時には、カケルは人ごみの中飛び込んでいた。
遠目では多いと感じたが、それはあくまでこの村での話。入り込めない程の人数がいるわけではない。
実際に飛び込んでみると、奥に進むのは意外に簡単だった。
背の低さも利用して、カケルはあれよあれよという間に人ごみの最前列───副村長の家だというその場所の、庭ギリギリにまで至る。
カケルは、目を凝らしてその光景を見つめた。
最初に目に入ったのは、襖を開け放ったために丸見えになっている、家の一室。
以前宴が開かれた場所の一つで、カケルが酒を飲まされた場所でもある。
もちろん、今そこには酔客は存在していない。
代わりに、一つ、テーブルが置かれていて。
その周りに、地味なエプロンを身に着けた女性の姿が見える。
年恰好は三十半ばくらいだろうか。優しそうな顔立ちをした人物である。
役人たちの話からすると、彼女が副村長の奥さんらしい。
不意に、彼女はカケルにも聞こえるくらいの大声で、言葉を発した。
「あら、シュウちゃんったら、ご飯をこぼしちゃって。もうー、やっぱり、お母さんがいないとダメねえ」
最初、カケルは彼女が自分の子供に話しかけているのだと思った。
それほどまでに、彼女の口調は平凡そのものだった。
だが、注意してみなくても、カケルはおかしなことに気が付いた。
──子どもは、どこだ?
彼女の正面には、子どもの姿は見えない。
乳児が使うような、小さな椅子が置いてはいるが、そこには誰も座ってはいない。
そんなカケルの疑問をよそに、彼女は不思議な行動に出た。
「ほら、あーん」
そう言うと、いつの間にか手にしていた小さな鍋──おかゆのようなものが入っているらしい──から一匙、掬って見せると、誰も座っていない椅子へその匙を向ける。
いや、訂正しよう。誰も座っていないのではなく──。
──あれは、何だ。ぬいぐるみ?
その椅子には、小さな熊のぬいぐるみが置いてあった。
そのぬいぐるみに向かって彼女は「あーん」と呼び掛けているのである。
もちろん、ぬいぐるみは食事をしない。
口元に押し当てられた匙からは、だらだらと中身がこぼれていく。
「あら、またこぼしちゃった……。しょうがないわねえ」
そう言うと、彼女は匙を引っ込め、再び鍋のそれを突っ込んだ。
そしてもう一度、ぬいぐるみに向かってそれを食べるように促す。
何度も、何度も。
何度も、何度も。
「朝からずっとなのか?ここの奥さん……」
「ああ、上の子が殺されて、気が付いた時には、あんなことを始めていたらしい」
「あのぬいぐるみは?」
「その子の形見らしい……可哀そうに」
ふと、後方から集まった大人たちの会話が耳に入った。
だが、その情報がなくても、カケルには何が起こっているのか理解できた。
──あれが、俺たちにも、有り得た姿。
心の中で、誰かが叫ぶ。
──もし本当にランが異世界転生者だったなら、有り得た未来。
頭の隅々にまで響き渡ったその言葉は、ひどい余韻を残す。
ちょうどその時。
カケルの耳に、低い声が、かすかに聞こえた。
赤ん坊の泣き声のような、嫌な音が。
気が付いたのは、カケルだけではない。
周囲の大人たちも、不思議そうにあたりを見渡す。
だが、次の瞬間には、カケルはその正体が分かっていた。
今までにいた情報が、頭の中に繋がっていく。
──異世界転生者だということで、殺されてしまったのは「上の子」。だったら、「下の子」は……?
副村長は、殴られて治療中。
奥さんは、あんな状態。
集まった人々も、奥さんの様子に怯え、家の敷地に入ってはいない。遠巻きに眺めているだけだ。
つまり、「下の子」を世話する人は、誰もいない。
無意識に、カケルは目を細め、室内の様子を注視する。
見つけるのは簡単だった。
カケルから見て、机のさらに向こう側。
畳の上に、赤ん坊のような、小さな影が見える。
お腹がすいたのだろうか。
あるいは、おむつが気持ち悪いのだろうか。
弱々しい声で泣いているようだが、母親は振り向こうともしない。
鏖殺人が上の子を殺したのは、三時間前。
すなわち、カケルの家に来る前のこと。
もしかすると、あの赤ん坊は、その時からずっと泣き続けて────。
もう、我慢できなかった。
足に力を籠め、赤ん坊がいる部屋に向かって一直線に走り出す。
後ろから何やら声が聞こえてきたが、無視した。
五秒もせずに庭を駆け抜け、土足のまま部屋に向かうと、カケルの耳にもはっきりと聞こえてきた。
代り映えしない奥さんの言葉と。
赤ん坊の泣き声が。
唇を噛み締め、カケルは奥さんとぬいぐるみのいる、机の横を通り過ぎる。
奥さんには、何も言われなかった。
そもそも、見えてすらいなかったのだろう。
彼女にはもう、失われた我が子のことしか見えていない。
その影を振り切るようにして、カケルは部屋の奥に向かう。
──いた!
布団にすら寝かされず。
床に直に置かれている、赤ん坊の姿。
目に入った時には、カケルはその子を抱きかかえていた。
排泄物の異臭も、止まらない泣き声も、気にならなかった。
そして、その子を抱えたまま、ふとカケルは顔を上げる。
その目に映るのは、狂気の世界に囚われた母親。
およそ、赤ん坊の望むものが何も用意されていない、暗い部屋。
遠くには、怖がって助けようともしない村人たち。
「君は……」
意識せず、カケルは呟く。
泣き続ける赤ん坊に向かって。
「君は…………俺だ」
何故か。
そう言わずには、いられなかった。




