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後編

≪後編≫


 僕はテーブルに両方の手の肘を置いて頬杖をつきながら彼女の顔を眺めた。昼食に立ち寄った蕎麦屋のテーブル席で、僕と彼女は向かい合って座っていた。

長い髪と少し日に焼けた肌が高原の景色に溶け込んでいる。はっきり言って美人だ。わさび農場で一働きして来たと言う彼女はジーンズにウエスタンシャツを着ている。それでも、そこらへんに居る、着飾った観光客よりはるかにセンスがいいと僕は思った。

「圭祐君って、スケベでしょう?」

 彼女がいきなりそんなことを言ったので、僕は一瞬戸惑ったけれど、思わずうんと答えていた。

「正直で宜しい。男なんてみんなスケベだもんね」

「みんなということは無いかも知れないけれど、とりあえず、僕は普通にスケベだよ」

「そうよね。なのに男って、みんな嘘つきなんだから…」

 今までの彼女とは別人のような悲しげな表情が顔を出した。きっと、何か辛いことがあったのだろう。僕はそう思ったけれど、敢えて口には出さなかった。その代りに、話題を少し変えてみた。

「碌山美術館って、行ってみたら大したことなかったね。まあ、確かにあのツタは見事だと思ったけれど」

 僕がそんな話をし始めると、彼女はハッとしたように表情を変えて答えてくれた。きっと僕の意図を理解してくれたに違いない。

「そうなのよね。ほら、こういう写真を見るとすごくいいところみたいに見えるけれどね。観光地って結構そういうところ、多いよね」

 彼女は観光パンフレットを取り出して、そこに掲載されている碌山美術館写真を示した。話を始めた彼女はすっかり元の彼女に戻っていた。そこへ、二人が注文していた蕎麦が運ばれてきた。

「ここのそばは美味しいのよ。街中で“信州そば”って看板をよく見かけるけれど、実際に食べてみると、東京で食べる蕎麦と大して変わらないというお店も多いんだけど、ここのだけは違うの」

 彼女が自慢するだけのことはあって、この店のそばは本当に美味しかった。

「うん。美味い!それに、このわさびはとても風味がいいね」

「いいところに気が付いたわね!ここのわさびはうちの農場で作った物なのよ」

「へー、そうなんだ!」

「この後、農場に寄って行って。お土産に新鮮なわさびをおすそ分けしてあげるから」


 夕方、一緒に農場に戻ると、彼女はもう一仕事すると言ってわさび田の方へ歩いて行った。夕食まで自由にしていていい言われたのだけれど、せっかくだから、僕も仕事を手伝うことにした。

「ねえ、今日はどうするの?どこに泊まるの?」

「決めてないけど、穂高の駅の近くでどこか探そうかなと…」

「じゃあ、私がお世話になっているところに泊まって行かない?」

「えっ!」

「あっ、勘違いしないでね。ここの社長が持っている寮があって、いくつか部屋が空いているの。社長にはもう了解を貰っているから」

「なんだ…」

「なにあからさまにガッカリしているの?圭祐君って本当に正直なのね」

 何もかも見透かされている。我ながら、反省しなければならないと思った。こんなことでは現場でハッタリも効かせられない。


 農場の寮は木造2階建ての建物で、1階に食堂、娯楽室、浴場などの共用スペースがあり、2階が宿泊できる個室になっていた。個室は八部屋あり、今は彼女しか泊まっていないのだと言った。

 食事は自炊をすることになっていると言い、彼女は厨房の冷蔵庫の中を眺めた。

「もしかして、里見さんが料理してくれるの?」

「そうよ!こう見えても料理には自信があるのよ」

「それはなんか嬉しいな。女の人に料理を作ってもらうなんて、おふくろ以外にはなかったから」

「えー!そうなの?圭祐君ってすごくもてるでしょうに」

「何を根拠にそんなことを!」

「だって、好きだよ!私、圭祐君みたいな男の人」

「初めて言われたかも。真面目にうれしい」

「圭祐君って、年上の女でもストライクゾーンに入っているかしら?」

「年上って、誰が?」

「なにを今更。とぼけちゃって。と言うか、気を使ってくれているんだよね。きっと!」

「あれっ?里美さんって、いくつなの?」

「バーカ」

 彼女はそう言うとそそくさと料理を始めた。


 料理が得意だと大口をたたいた彼女がどんな料理を披露してくれるのか楽しみにしていた僕は正直、期待外れだったとがっかりした。テーブルの上に並んだ料理は山菜の炊き込みご飯、焼き魚、野沢菜の味噌汁と野沢菜の漬物、里芋と大根の煮物、トマトなど、地味なものばかりだった。そんな僕の心の中を見透かしたように彼女は言った。

「文句は食べてから言ってよね」

 それはもっともだ。僕は先ず、煮物に箸をのばした。

「美味い!」

 思わず声を出してしまった。こんなにうまい煮物は本当に食べたことがない。他の料理も絶品だった。なんと言えばいいのだろう…。おふくろの味などと言うレベルのものではない。高級料亭のそれに近いのではないか。そう思わせるに十分な味だった。

「ためしに、私のも食べてみて」

 料理はそれぞれ、僕のものと彼女のものは別々に出されている。彼女が言う様に僕は彼女の煮物を食べてみた。食べてみて驚いたのだけれど、僕のものとまったく味が違うのだ。

「圭祐君は九州の人でしょう。それに普段はガテン系の仕事をしていて、一昨日の夜からずっと移動しっぱなしだったでしょう?少し濃い味付けの方がいいと思ったの。私は関西の薄味で育ったから、これくらいがちょうどいいのよ」

 彼女は食べる人がどういう人なのかを短い時間の中で把握したうえで、その人が最も好む味を作り出してくれたのだ。これには僕も驚いた。驚いたと言うより感激した。これはちょっとマズイ。好きになっちゃうかもしれない。

「どう?惚れた?」

 何もかも見透かされている…。

 食事がすむと、順番に風呂に入り、娯楽室で映画のDVDを見た。なんだか新婚生活をしている夫婦みたいだと思った。悪くはない。しかも、相手はとびっきりの美人だ。映画が終わりに近くなったころ、彼女が僕に寄りかかって来た。僕はドキッとして彼女の方を見た。よほど疲れているのか彼女はいつの間にか眠ってしまっていた。

 映画が終わっても彼女が起きる気配はなかった。起こした方がいいのだろう…。そう思いながらも、彼女の髪の甘い香りが心地よくてしばらくこのままでいようと思った。テレビの画面ではDVDのロゴがゆらゆらと揺れている。僕はテレビの画面を切り替えようと、リモコンに手を伸ばした。そのはずみで、眠っていた彼女を起こしてしまった。

「ゴメン、起こしちゃったね」

「いいの、いいの。今、何時?」

「11時半」

「そっか…。もう少し一緒に居てもいい?」

「いいよ」

「変なことしないでね」

「自信がないなあ」

「そうよね。こんないい女が無防備でいるんだものね」

「うん」

 僕がそう返事をしたにもかかわらず、彼女は再び僕に体を預けた。僕は天井の照明器具からぶら下がっている紐を引っ張って明りを消した。静かな部屋の中で彼女の寝息だけがかすかに聞こえた。


目が覚めるとそこに彼女は居なかった。僕は重たい瞼をこじ開けて食堂へ行ってみた。

「おはよう!よく眠れた?そんなわけないか」

 寝癖で少し跳ねた髪が妙に色っぽい。彼女は朝食の支度をしていた。

「お別れだね」

 彼女が呟いた。

僕はこれから松本に出て、翌日、上高地まで行く予定を立てていた。

「また会えるといいね」

「きっと会えるわよ」

 彼女は満面の笑みを浮かべてそう言った。

 食事が終わると、彼女が穂高の駅まで送ってくれた。彼女が駅前のロータリーで車を停めると何とも言えない静けさに包まれた。僕はこのまま時間が止まってしまえばいいと思った。

「気を付けてね。行ってらっしゃい!」

 彼女はそう言って、僕の頬にキスをしてくれた。僕は驚いて彼女の顔を見た。

「おまじないよ。また会えるように」

「あ、ありがとう」

 僕が車から降りると、彼女は僕に手を振ってから車を出した。僕は彼女の車が見えなくなるまでその場で見送った。


 松本に着くと、松本城まで歩いた。国宝と言われるだけあって、本当に美しいお城だ。それから縄手通りを散策し、駅前に戻ってハンバーガーショップに入った。昼食をとるためなのだけれど、昨夜の彼女の料理の後ではどこの店に入っても味で満足することは無いと思ったからだ。

 それから、駅前のビジネスホテルにチェックインして翌日の上高地行に備えて早めに休んだ。

 翌日は早朝から松本電鉄上高地線で新島々まで行き、そこからタクシーで上高地に入った。道中タクシーの運転手がガイドを務めてくれた。上高地に着くと帰りのバスの時間を確認して梓川沿いを大正池の辺りまで歩いて、田代橋を渡り川の反対側を明神池まで進んだ。明神橋を渡り河童橋まで戻って来たところで、帰りのバスの時間が近づいていた。

 上高地から松本に戻り、松本でもう1泊して、僕は東京に戻った。


 僕は東京に戻ってからの数日間をだらだらと過ごしていた。休みを取り過ぎたのかもしれないと思いながら。

 休みが明けて仕事に復帰してからは、相変わらず、忙しい日々が続いた。土・日出勤も多かった。家と現場を往復するだけの生活が続いた。夏の休暇で訪れた信州の景色などすっかり忘れていた。

 そして、夏の暑さが一段落し、空気はすっかり秋に代わっていた。そう言えば、もうすぐ僕の誕生日だ。彼女でもいれば二人で食事でもして楽しく過ごせるのだけれど、生憎そんな気の利いた相手はいない。しかも、今年の誕生日はご丁寧にも3連休に絡んでくる。いっそ、仕事でもしようか…。と、休日出勤に志願したものの、結局、仕事も近隣からクレームが出て3連休は仕事が出来なくなった。


 10月12日。3連休の初日でもあり、僕の誕生日でもある。朝はゆっくり起きて、部屋の掃除をすることにした。大して広くもない部屋なので、掃除はすぐに終わってしまった。昼過ぎにコンビニで弁当を買ってきて食べていると、携帯電話が鳴った。なじみのない番号だった。

「はい、原です」

「圭祐君久しぶり。元気だった?」

「えっ?」

「忘れちゃった?里美よ。牧瀬里美」

「里美さん!」

「そう!覚えていてくれたのね。ねえ、今から会えないかしら?」

「今からですか?」

「何か予定があった?」

「いや、そんなものは何もないけれど、ちょっとびっくりしちゃって」

「圭祐君の家ってどこなの?」

「笹塚。京王線の笹塚だけど」

「あら、近いじゃない。私、今、新宿に居るの。これからそっちに行くから駅まで迎えに来て」

 彼女はそう言うと電話を切った。掃除をしておいてよかった。

 僕が笹塚の駅に着くと、彼女はもう改札を出て待っていた。

「また会えたね」

 そして続けた。

「誕生日おめでとう」

「どうして知ってるの?」

「バーカ!だってメールアドレスに入ってるでしょう!」

「あっ!」

「ねえ、誕生日にヒマしてるってことはまだ彼女いないのかしら?」

「残念ながら」

「まあ、ラッキーじゃない!だって、今、とびっきりいい女が彼女になったんだもの」

 彼女はそう言って僕に抱きついた。そして僕の手を取って歩き出した。

「行きましょう!私たちの部屋へ」

 私たちの部屋って…。いきなり飛躍しすぎだよ。それに二人だと、ちょっと狭いぞ…。嬉しさのあまり、僕はトンチンカンなことばかり考えてしまう。けれど、これって夢じゃない。彼女に何があったのかは判らないけれど、僕に会いに来てくれた。しっかり受け止めようと思う。

 彼女の手の温もりと、秋の日差しが心地いい。風は少し冷たくなっているけれど、僕の心には穏やかな春の風が吹いた。





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