前篇
≪前編≫
ゴールデンウイークを過ぎたあたりから仕事が立て込み、土・日も休むことなく、ようやく落ち着いたと思ったら既に8月になってしまった。
僕はお盆休みと合わせて少し長めの夏休みを取った。これと言って目的があって休みを取ったわけではない。かといって、田舎に帰ろうとも思わない。
僕の田舎は九州の福岡。東京に出てきて3年。去年まではお盆と年末年始には必ず帰郷していた。けれど、今年の夏はどこか涼しいところにでも行って、ゆっくりしたいと思っていた。そこで思いついたのは信州旅行。軽井沢だとか、上高地だとか、どこかそんなようなところに行ってみたいと思った。
休暇前、最後の仕事を終えると、帰りに書店に立ち寄り信州のガイドブックを買った。家に着くと、田舎の実家に電話をして、今年は仕事が忙しいから帰れないと告げた。母親は残念だと嘆いていたが、父親は仕事なら仕方ない。一人前になった証拠だ。と褒めてくれた。
ガイドブックを眺めていたら、居ても立っても居られなくなった。2~3日分の着替えと、ガイドブックをリュックに放り込んで駅に向かった。
新宿発、白馬行き最終電車。ムーンライト信州81号に飛び乗った。全車指定席なのだけれど、どうにか空席があった。駅の売店で買った弁当を食べてガイドブックを開いたところで、立川に停車した。何人かの乗客が乗ってくるのが窓から見えた。電車が動き出した頃、声を掛けられた。
「すいません、そこいいですか?」
若い女性が切符を見ながら僕の隣の席を指した。通路側に座っていた僕は窓際の席に座ろうとする彼女に道を開けるように腰を引いた。
「どうぞ」
彼女は荷物をパイプ棚に納めると、僕に背を向ける格好で窮屈そうに窓際の席に入って行った。席に着くと彼女は微笑みながら僕に会釈をした。僕も会釈を返したが表情がこわばっているのが自分でも分かった。なにしろ、仕事柄、若い女性に接することがほとんどないので。それっきり特に会話を交わすでもなく、僕はそのうち眠ってしまった。
僕が目を覚ましたのは電車が穂高に着いた時だった。彼女が降りようと、僕の前をすり抜けようとしているときだった。
「あっ、ごめんなさい」
僕はそう言って、慌てて体を引いた。
「すいません、起こしちゃいましたね」
彼女はそう言って荷物を下ろすと、微笑みながら会釈をして続けた。
「お先に失礼します。またどこかでお会いできたらいいですね」
「あ、あー、そうですね。い、行ってらっしゃい」
彼女が降りると、電車は再び動き出した。ホームを歩いている彼女が見えた。僕に気が付いたのか笑って手を振っていたようにも見えた。
早朝の5時過ぎ。電車は信濃大町に着いた。僕はそこで電車を降りた。これから黒部ダムに向かうためだ。
僕は建設会社で工事部に所属している。いわゆる現場監督というヤツだ。入社した時の研修期間中に『黒部の太陽』という映画を見せられた。その時以来、一度は行ってみたいと思っていたのだ。僕の仕事は建築で、この映画のようにトンネルを掘ったりなどという仕事は実際にはしないのだけれど。
信濃大町に着いてすぐに、バスに乗って扇沢へ向かった。6時過ぎに扇沢に到着。それから、トロリーバスに乗り換える。トンネルの中を15分ほど走って黒部ダムに到着した。
僕はここで一休みすることにした。リュックから昨夜買っておいたおにぎりとお茶を取り出す。ベンチに座ってゆっくり朝食をとった。朝食を終えると、展望台へ向かった。眼下に見下ろす黒部ダムはアーチ式のダムで大量の水を放水するその姿は迫力満点だった。周囲の景色も立山連峰から北アルプスが一望できるとあって、山になど興味のない僕でさえ、心がときめいてしまう。それから展望台を下って、連絡通路を通り抜け、ダムの堰堤に出た。ここに来ると、ダムからの放水は展望台から見たものよりさらに迫力がある。その圧倒的な存在感に心を震わせながら、僕はダムを後にした。
黒部湖まで歩きそこからケーブルカーで黒部平へ。黒部平からはロープウェイで大観峰まで登って行く。雄大な景色を眺めていると、昨日まで工事現場で働いていたことがウソのような気がしてくる。大観峰からは再びトロリーバスで室堂へ。室堂からは高原バスで美女平まで行けるのだけれど、僕は途中の弥陀ヶ原まで行って引き返す予定にしている。
室堂を出るとバスはすぐに雪の大谷へさしかかる。道路の両側には巨大な雪の壁がそびえている。今回この黒部アルペンルートに来ようと思ったのはこの雪の大谷を見てみたいというのが目的の一つでもあったからだ。僕は暫し現実を忘れて夢のような世界を堪能した。
本来ならこのまま富山に抜けてトロッコ電車になど乗ってみたいところなのだけれど、引き返すと決めたのには理由があった。昨夜、電車で隣に座った彼女が気になって仕方がなかったからだ。
「またどこかでお会いできたらいいですね」
そう言った彼女の言葉が頭から離れないでいたのだ。弥陀ヶ原で立山の高原植物などを眺めながら辺りを散策したのち、僕は再び信濃大町まで戻って来た。
思いつきで電車に飛び乗った僕は当然宿の手配もしていない。彼女が降りた穂高辺りで宿を探そうかとも思ったのだけれど、木崎湖の花火大会のポスターを目にして僕は簗場で一泊することにした。駅の観光案内所で紹介してもらった民宿にたどり着いたのは午後5時少し前だった。宿に着くと、女将さんが笑顔で迎えてくれた。女将さんは部屋に案内してくれると、お茶をいれてくれた。
「今、食事の支度をしていますから、先にお風呂にでも入って疲れを取っておいでなさい」
そう言って、ゆっくりと立ち上がり、部屋から出て行った。
僕がゆっくり風呂に入って部屋に戻ると、既に食事の支度が出来たと女将さんが声を掛けてくれた。この日、宿泊しているのは僕だけだったらしく、料金の割にはたいそうな食事を用意してくれていた。
「今日はどちらからいらしたんですか?」
「黒部ダムに行ってきました」
「そうですか。それでは富山の方から来られたのですか?」
「いいえ、昨日の夜、東京から来て、弥陀ヶ原まで行ってから引き返して来ました」
「あら、そうですか。それにしても東京からじゃ、大変でしたね」
「ええ。でも、今日はここで花火大会があるそうですね」
「よく御存じで!それでここへ?」
「まあ、そんなところです」
「東京の花火に比べたら大したことはないですけど、楽しんでいってください。ご飯食べ終わったら声掛けて下さいな。うちの娘にでも案内させますから」
「はい、ありがとうございます」
辺りは大分、薄暗くなっていた。僕は浴衣を着た民宿の娘さんと木崎湖のほとりへやって来た。
「おっ!いつの間に彼氏が出来た?」
「彼氏じゃないよ。お客さんだよ」
娘さんの友達なのだろう。そんな風に声を掛けては忙しそうに走って行く。地元の人たちは何かと忙しいのだろう。そんなことを考えながら、「彼氏じゃないよ」と言った娘さんの言葉が妙に引っ掛かる。
「すみませんね。僕みたいなのが一緒で」
「いいんですよ。いつものことですから。それに彼氏が居るわけでもないので。さっ、あっちの方がよく見えるから」
娘さんはそう言うと僕の手をとって歩き出した。
花火大会が始まった。確かに隅田川の花火に比べると見劣りはするけれど、この大自然の中での花火はそれなに見応えはあった。花火がそろそろ終わりに近いころ、娘さんが僕の腕を引っ張った。花火の音で声が聞こえないからなのだと思った。何か言いたそうな表情だった。僕は娘さんの口元に耳を差し出した。
「ごめんなさい。用事が出来たのでちょっと離れます」
「ああ、いいよ。あとは一人でも帰れるからゆっくりしておいで」
僕がそう言うと、娘さんは両手を合わせてすまなさそうな顔をして、人ごみの中へ駆けだして行った。
花火が終わっても、余韻に浸るように集まった人たちはなかなか帰ろうとしなかった。僕もそんな人たちを眺めながら、湖のほとりをぶらぶらと歩いて帰ることにした。湖面を見ながら歩いていたら、誰かにぶつかってしまった。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。そちらの方こそ大丈夫ですか?」
そう言われて僕はハッとした。暗くて顔は良く見えなかったのだけれど、聞き覚えのある声だったからだ。先方も何か気付いたようで僕の顔を覗く様に見ている。
「あっ!」
二人同時に声を上げた。
「また会えましたね」
そう言って握手を求めてきたのは昨夜の電車で隣に座った彼女だった。
「本当にまた会えましたね」
僕は偶然とも必然ともいえる再会に、思い切って彼女を誘ってみた。とは言っても、辺りに気の利いた居酒屋なども無さそうだったので、とりあえず、湖のほとりで話をすることにした。
彼女は牧瀬里美というのだそうだ。大学4年生で今日から1週間ほどわさび農場でアルバイトをするのだと言った。今日、ここへ来たのはやはり、花火大会があることを知って、それほど遠くもないということで見物に来たのだそうだ。
「あなたはどうしてここへ?」
僕はまず、自分の名前、原圭祐と名乗ってから今朝、彼女と別れてからの経緯を話した。
「へー、そうなんだ。黒部ダムかあ…。私も行ってみたいなあ」
「僕も初めてだったけど、とにかくすごかった」
そんな話を1時間ほどした。
「圭祐君はこの後の予定とか決まっているの?」
「とくに。今日の黒部だって昨夜ガイドブックを見ていたら急に行きたくなって電車に飛び乗ったくらいだから」
「じゃあ、明日、うちの農場に遊びに来ない?」
「いいよ」
そこで、二人は携帯電話の番号とメールアドレスを交換してから別れた。
翌日、僕は民宿を引き払って、穂高の駅までやって来た。民宿を出るとき、女将さんと娘さんが見送ってくれた。昨夜は暗くてよく判らなかったけれど、こうして見てみると、あの娘さんもなかなか可愛らしい顔をしていた。まだ、中学生か高校生なのだろう。
駅に着いたら電話をしてくれと言われていたので、早速電話をしてみた。彼女はすぐに電話に出た。今から駅まで迎えに来ると言う。僕は駅舎のベンチに腰掛けて待つことにした。間もなく、彼女は白い乗用車でやって来た。
「お待たせ!」
そう言って助手席のドアを開けた。彼女は既に、一働きして来たらしい。これから少し時間があると言うので穂高の街をドライブしようと提案してきた。僕はいいよと返事をした。そして、運転を代ろうかと申し出たのだけれど、土地勘があるから任せてと言われ、彼女に任せることにした。大学4年生だと言うことは僕より彼女の方が一つ年上だと、この時初めて気が付いた。
「まず、ベタだけど、碌山美術館かしら。行ったことある?」
「あのツタの絡まるチャペルみたいな?」
「そうそう」
「無いです。長野自体が初めてなので」
「分かったわ。じゃあ、適当に色々案内するね」
「里美さんって、こっちの方、詳しいんですか?」
「まあね」
まあねという言い方に少し訳がありそうで気にはなったのだけれど、限られた時間でそんなことばかり考えていても仕方がない。僕は彼女が運転する車の助手席で奇跡の再会に感激しつつ、今後の展開にも期待しつつ、穂高の町を案内する彼女の声に耳を傾けた。




