8、滅光の聖女、遠い日々の面影と再開する(シリアス注意)
周囲からの憧憬と羨望の中向かった上層機関での日々は、実際は悪意と困難との戦いの連続だった。
ある程度の地位と信頼を築いていた教会とは違い、移り住んだその場所において私は何の役にも立たない新参者であり、また出自も卑しい下賤な者だった。
私の同輩となった多くの人間たちにとって、おそらく特例によって選ばれた私の存在は、目障りで仕方がなかったのだろう。
推挙されたのだって女の色香を武器にしたからだ、と人前で聞えよがしに嘲笑われることすらあった。
そうした周囲の目を変える為に、私がしなければならなかった苦労はこれまでと比しても並大抵のものではなかった。
たった一つのささやかな失敗で、全ての努力が崩れ落ちる。一瞬の油断も命とりになる状況下を、私は細い糸の上を歩くかのように慎重に渡り歩いた。
こちらの足元をひっくり返そうとする悪意も、理由もなく努力を台無しにしようとする戯れも、邪魔をし続けた挙句成果だけを奪っていこうとする卑劣な企みも。
振り払い、時には利用し、やり返し。そして一年程の時が過ぎた頃にようやく、私はどうにか自分の立ち位置を確保できたと、そう思っていた。
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冷たい汗がこめかみを流れる。
私の前には数人の男女が、醜い笑みをくすくすニヤニヤと浮かべていた。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのですか?」
問い詰める私の声は、恐らく硬く強張っていたことだろう。しかし私はそれを露とも感じさせないよう、あえて平然と不敵な笑みを浮かべてみせる。
「ああ、その目。ずっと気に食わなかったのよ。……本当に、あの女によく似てること」
女の一人が忌々しそうに吐き捨てる。
肩を掴む女の長い爪が、血が滲むほどに皮膚に食い込んだ。
ある日、緊急の任務だと言われて呼び出された。拠点から一両日のところにある鄙びた村である。
すでに何度か簡単な任務なら何度か命じられたことはあるが、深夜にただ一人で向かわされるなんてただ事ではなかった。
その時点で少々怪しんではいたものの、それでもまだ命に関わるような悪質な嫌がらせはするまいと楽観視していた。
いくら奴らと言えど、そこまで愚かではなかろうと買い被っていたのだ。
村は人口数百人程度の、小さな集落だった。
近隣の村と比べて突出している物は何一つないが、我々にとってはある一点に置いて他と違っている。そこが『裂け目』の一つに最も近い所にあったからだ。
今から三百年ほど昔の話である。
豊かな森を育んでいた大地に突如亀裂が走り、瘴気が噴出した。
異臭を放つ瘴気によって森は枯れ、獣は死に絶えた。そして、人が立ち入ることすらできない禁忌の地へと、変貌した。
そして現れ出た魔物は、周囲の村々を壊滅へと追いやった。
多数の犠牲を出した末に魔物は退治され、やがて瘴気も収まった。しかし三百年が経った今も『裂け目』の周辺は僅かな下草だけが生える不毛の地のままであり、『忌地』として国と機関によって厳格に管理されていた。
その『裂け目』から異臭がしたという情報があり、今回即急に動ける者が先だって動員されたのだ。
異臭と言うのは『裂け目』が発生する前兆であると言われている。これらの事象の原因であるとされる魔王はここ何十年かの間大人しく、新たな『裂け目』が発生したという記録はない。しかし、再び『裂け目』から瘴気が、魔物が噴き出すようなことがあれば一大事だ。
だから通常の任務で行われる手順を省略してでも、私が急きょ派遣されるようなこともあり得るだろうと思っていた。
村にて合流した同輩たちを確認した時は、些か嫌な予感を覚えた。機関では私に悪感情を抱いていない人間を探す方が難しい。だがこの場において目につくのは、取り分け私に対して直接的な手段を取ることに躊躇しない派閥の人間ばかりであった。
だが、ここまで来て任務を放棄する訳にはいかない。私は抱いた予感を押し殺して、彼らとともに先発隊として出発した。
村からさらに二日間の距離を移動して、私たちは『裂け目』にたどり着いた。
三百年前に現れた魔物はとっくの昔に退治されていたが、『裂け目』の周辺では動植物が異形化するのは良く知られたことである。有難いことにこちらに積極的に襲い掛かってくるような異形の獣は現れず、周囲は静まり返っていた。
『裂け目』は言葉通り、大地に開いた巨大な亀裂だった。最も広い部分は庶民の家がそのまますっぽりと落下してしまうほどの幅があり、長さは両端に立てば人の姿が針の先ほどの大きさにしか見えないほどだった。
情報にあった異臭は特には感じられず、我々は周囲の探索をしつつ野営を行い、しばらくその場に留まることになった。
その日の晩のことである。
満月が数日過ぎた臥待月の夜だった。
不寝番の当番が回ってきたという事で、私は起こされた。哨戒の為に見張りが必要なことは十分承知しているので、是非はない。何人か、さも当然のように務めを免除されている人間もいたが、それについては興味はなかった。
共に寝ずの番を行う同輩と、野営地から『裂け目』の方へ向かう。
野営地では焚き火を焚いた後の埋め火が燻るだけだったが、月の灯明が周囲を青く照らしていた。周囲を見回しても、あやしい影は目に入らない。
「貴女は、いったい何を支えにしてここまで来たの?」
ふいに背後から、不寝番の相方の声がした。
互いに死角を作らない為、少し距離を取り背中合わせの状態での見張りである。深夜の見張りはどうしても緊張感を欠く。だからこうして会話をするのは、良くある事だった。
「アタシのような立場の人間の聞くことだから、怪しむのも当然よね。でもこう見えてアタシは、貴女のことを結構すごいと思ってるのよ」
答えない私に、相手は警戒していると見たのだろう。
確かに彼女は私を忌み嫌っている派閥の一人だ。今さら自分だけは違うと親しげに振る舞われても、それを言葉通りに受け入れられるはずがない。しかし、私が言葉に窮したのは別の理由からだ。
血の滲むような努力だった。周囲の称賛など、何の慰めにもならなかった。
己を殺し、屈辱と汚泥に塗れ、辛酸を舐め、それでも凍てついた心に慈愛の仮面をまとって、聖母の如き微笑みを浮かべ続けた。
そんな途方もない努力ができたのは、一人の少女の姿が胸にあったからだ。
忌々しく、厭わしく、そして――直視を阻むほどの眩しさ。
私はその姿を、一心不乱に追ってきたはずだ。
だけど今になって、私はその感情の源を復讐と断言することを躊躇っていた。
「……見返して、やりたい人がいます」
無意識に、私の口から呟きが漏れた。
こんな事を言えば言葉は瞬くまに、向こうの都合の良いように、さらにはこちらを貶める形で吹聴されるだろう。
そして、それ見ろと。やはりこんな正義も信念も持たない俗人は、この組織に不相応な人間なのだと、嘲笑われるだろう。
一瞬、口に出したことを私は後悔したけれど、それでも私の言葉は真実から遠いものとは思えなかった。
実際、聖霊への敬愛もなく、民衆への慈愛もなく、悪に打ち勝たんとする正義の心すら持っていない私は、与えられたこの地位に相応しくない俗人なのだ。
「ふぅん、それで無事に見返してやれたの?」
そう問われた私は少し考え、首を振った。
「いえ、もう会う事のない相手ですから」
その言葉は嘘でも偽りでもない。現実に、私の彼女の道は幼い頃のあの日を境に分かたれ、二度と重なることはないのだ。
そんな感傷に浸っていたからだろう。そして任務の最中であり、哨戒中でもあるが為、警戒の大半を外に向けていた事も不利に働いた。
「そう。それは……残念ねっ!」
背後から回された腕により、突如口の中に何かを捻じ込まれる。
振り解き、吐き出そうとするが、蛇のように絡み付く手足が動きを妨げ、手加減なく髪を掴まれ顎が上を向く。皮の水筒から流し込まれたどろりとした液体が、咽喉と臓腑を焼いていく。
拘束を解かれ、地面に四肢を着き咳き込みながら振り返ると、もはやそこにいたのは不寝番の相方だけではなかった。
「準備が出来ました」
「随分時間が掛かったわね。でも、良くやりました」
数人の男女の後からゆっくりやって来るのは、私を忌み嫌っている派閥の中心にいる女たちだ。
「いったい何を……っ」
まだ掠れた咽喉で問い質しながら立ち上がろうとした私は、意図せず地面に崩れ落ちる。手足が痺れ、上手く力が入らない。
「ああ、忌々しいこと。こんな売女とわたくし達が同列に見られるなんて、許しがたいことです」
見るのも汚らわしいとばかりに、女は吐き捨てる。それに追従するように、くすくすと嘲笑の輪が広がっていく。
私は罪人にするかのように扱いで、『裂け目』に向かって引っ立てられる。意味するところは一つだった。
「上の方々も、承知しておられる訳ではないでしょうに!」
「高き座におわす方々だって、同じ人間ですもの。過ちを犯すことはありますわ。それを一つ一つ、陰ながら正して差し上げることも、敬虔な使徒の責務じゃないかしら」
振り絞るように低く尋ねた声に、女は甲高く弁明を口にする。
特例とは言え、自分とて選ばれた一人としてここにいる。それを手前勝手な理由で謀殺することに正当性は有り得ない。
しかし、今この場においては、彼女らの物言いは全きの善として認識されていた。
『裂け目』は夜の闇よりも暗く、深く底が見えない。ここから落ちれば、命がないのは明白だった。
深淵より吹き上がる冷気は、骨の髄から身を凍えさせ、強張らせる。
「任務の最中に命を落とす人間は、少なくありませんわ。不幸な事故が何と多いこと」
肩を掴まれ、『裂け目』の縁に立たされる。たった一押しで、私は奈落の底に落ちるだろう。
薬の影響だけでなく、身体が震える。手足の先が冷たくなり、視界がくらむ。しかし、それでも私は無理やり口元に笑みを張り付けた。
「……こんなことをして、ただで済むと思っているのですか?」
死を目前にして浮かべた笑みに、幾人かの目に怯えたような色が過ぎる。
「ああ、その目。ずっと気に食わなかったのよ。……本当に、あの女によく似てること」
女の一人が忌々しそうに吐き捨てた。掴まれた肩が痛む。
恐らく、自分以外にもこうして彼女たちに殺められた人間は少なくないのだろう。
何が正義だ。何が聖霊だ。
上にあがればあがるほど、世界は醜く真っ黒じゃないか。
そして、同じ黒ならば自分はもっと美しい黒を知っている。
「所詮お前たちの傲慢さも、残酷さも、あの人に遠く及ばない。その程度の存在を、私が恐れると思うなっ」
私の恫喝が、彼女らの顔に朱を注いだ。怒りに我を失った中心の女の「落とせ」という金切声が響く。肩を掴んだ手に、力が込められた。
「――慈悲深き聖霊よ、正義もて罰し給ふ審き主よ。邪悪なる者を永久の業火に追ひやり給へ。呪はれし者を罰し、罪ある者を裁き給へ」
ふいに声が響いた。
経典に掛かれた祈りの一節を唱えるその声は凛と鼓膜を打ち、かつ月の光が砕けて鳴ったかのような涼やかな残響を残す。
しかし同時にその声は、心胆寒からしめるような冷酷さもまた宿していた。
「『裂け目』が再び開いた可能性があると言われ、飛んできたというのに、いったいいつからここは処刑場になったのかしら」
「聖女……っ」
押し殺したような誰かの声が辺りにこぼれた。
各地にある修道院や聖霊教会の上層機関・首聖庁。その名において選ばれた同輩たちは、私を含めみんな候補者にすぎない。
男ならば『聖人』、女ならば『聖女』。
功績を認められ、特に選ばれ『勇者』として列聖されることを目指しながら、与えられた任務を果たしているのだ。
そして、彼女はすでに選ばれた『聖女』の一人だった。
「我々は世の罪を除く聖霊の使徒であるけれど、その女はどんな罪を犯したのかしら。それとも、ねえ――罪人はどちら?」
ぎりりとすぐ側から歯ぎしりが聞こえた。
薬で足元も定かでない私を含めたとしても、二人に対して複数人。諸共に始末をしてしまえば、隠蔽は可能だろう。任務の最中に命を落とす人間は、事実少なくないのだから。
しかし、彼女らは『聖女』に敵対することを選ぶとは考えられない。
「……貴女の考え違いよ。聖女……様」
女の一人が、苦々しげに答える。
「わたくし達は、はぐれた彼女を助けただけ。役目は終えたから、もう戻るわ」
そう言って、彼女らはぞろぞろと野営地に帰っていく。残されたのは『裂け目』の縁に座り込む私と、月を背に神力をまとって中空から私を見下ろす聖女だけ。
首聖庁より列聖された『聖女』『聖人』は、神力を授かり人知を超えた能力を得る。それが同じ聖霊の使徒とは言え、我々と彼女たちの大きな違いだった。
冷たく、慈悲のない眼差しが私に向かって落とされる。
しかし私は言葉なく震え、ただ呆然と目を見開くしかなかった。目に映るものが信じられなかった。
夢か幻か。あるいは、自分はすでに死んでいるのか。
けれど、ふいに彼女の厳しい目が僅かに緩む。
「……随分と、見違えたこと」
もう死んでもいいと、私は思った。
――会えた。やっと会えた。歓喜の感情が怒涛のように心中に渦巻く。
私の目から滂沱の涙が溢れた。
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本当は気付いていたのだ。
あの運命の日、私を陥れたのが彼女ではないことを。
先に貴族男性の申し出を断っていた彼女には、私を嵌めてでも養子の口を横取りしようとする必要はない。そして、貴族の養子として連れ出されていた彼女には、私が閉じ込められていた部屋の鍵をこっそり開けておくことはできない。
あれは、私の彼女への態度が腹に据えかねた別の取り巻きによる独断だった。
しかしそうと気付いても、一度でも自分の愚かしさによって彼女を蔑み、憎んだ私にはもはや彼女に会いたいと願う資格はなかった。
そして実質的に、彼女に再び会う手段は失われていた。
あの芋虫のような指を、いくつもの宝石で飾っていた貴族は断罪された。あの男は憐れな孤児を引き取る慈善家などではなく、連れ出した子供を玩具のように弄び、傷めつけることを愉しみとする異常者だった。男に壊されてしまった少女は、両の指では足りなかった。
そんな男の罪を暴き、裁きの場へと引きずり出したのがまだ幼い彼女だったと後になって噂に聞いたが、それが事実だったのかは定かではない。
しかし唯一明らかだったことは、彼女の位所を知る術をもはや私は持っていないということだった。
彼女を求めることも、慕うことも許されない私にできることは、ただ復讐の名のもとに高みを目指すことだけだった。
何処までも高みを目指して突き進めば、いつかその先で彼女に巡り会えるのではないかと、そんな密やかな願望を隠し持つ事だけだった。
そして私の願望は、望み以上の喜びを伴って叶えられた。
私は彼女を見返したいのではない。認められたかった。そして己が愚かさを赦されたかった。
その2つの望みが果たされた後、私は再び彼女に付き従う道を選んだ。
貴族を告発し、特別に首聖庁に迎えられた彼女はめきめきと頭角を現し、聖女となっていた。それは私にとって不思議でも何でもないことだった。
より美しく、気高い女性となった彼女に私は幼い頃以上の熱心さで彼女に傾倒したし、彼女もまたそれを受け入れてくれていた。
「あんたも馬鹿よね」
ある日、彼女が私に言った。
「私が、あんたを見捨てたことは分かっているんでしょ?」
修道院にいた頃、引取りを打診してきた貴族の男を見て、彼女はこの男が碌でもない人間であることに気が付いた。だからこそ申し出を断っていたのだが、一方で私が養子の口を受けたことを知っても、それを止めようとはしなかった。
そしてこの首聖庁においても、後を追うようにやってきた私が酷い嫌がらせを受けているのを知っていて、一年間何もしなかった。
だから自分を恨んでいるのではないかと聞かれ、私は首を振った。
私が心酔しているのは、美しく、賢く、傲慢で、残酷な彼女なのだ。
側にあることを許されるならば、どんな扱いを受けたとしても喜びでしかないない。そう主張する私に、彼女は呆れた物でも見るような目を向けた。
「……あんた、変な奴ね」
いつかと同じ台詞を口にする彼女に、私は恍惚と頬を染める。
彼女の側にいられるならば、きっと世界すら壊せるだろう。私はそう確信していた。
それから数年後、彼女は首聖庁の最高指導者より直々に、特別な任務を任された。
聖霊教会が『聖人』を、『聖女』を生み出す最大の目的。
それは、全ての邪悪の根源たる『魔王』を滅ぼすこと。
歴代の『聖女』『聖人』の中でも飛びぬけて優秀であった彼女は、光の聖霊の代行者たる『勇者』の資格があるとして、使命を授けられたのだ。
鼻息も荒く命じられる『魔王を滅すべし』との言葉に、彼女は一瞬皮肉な笑みを浮かべたが、すぐに恭しい態度で拝命した。
そして、懇願する私を置いてたった一人、魔王の城がそびえる魔の荒野へと向かったのだった。