第1話 熱を待つ男
目を開けると、茜色の空が視界に飛び込んできた。縁側の硬い板の上で寝ていたせいか、身体の節々がひどく痛む。小さく唸って寝返りを打つと、汗ばんだ黒髪が頬に貼りついた。猿丸赤也はそれを気怠そうに手で払うと、むくりと起き上がった。
蝉の鳴き声とともに、熱気を帯びた風が頬を撫でる。猿丸は空を見上げて、自嘲気味に息を吐いた。少しだけ仮眠をとるつもりが、こんな時間まで寝てしまった。道理で身体も痛くなるわけだ。
猿丸ははだけた茶色の着物の衿を軽く整え、縁側の前に脱いであった太い鼻緒の下駄を履いた。カランという軽やかな音とともに、ようやく腰を上げる。そして、茜空に向かって大きく伸びをした。
「ああ、退屈だ」
ついそんな言葉が漏れる。
猿丸は、昔から人の熱が交わるような、賑やかな場所に身を置くのが好きだった。なぜかはわからないが血が騒ぐのだ。拳を交え、刃を交え、互いの熱をぶつけ合う──そんな瞬間をいつも待ち焦がれていた。
猿丸は縁側に置きっぱなしにしていた刀へと視線を落とす。
──愛刀、篝。
相棒ともいえる刀も、最近はめっきり抜かなくなった。
十代のころはいまよりもずっと怖いもの知らずだった。何かあれば嬉々として愛刀を──もしくは拳を振りかざし、後先考えずに相手へ飛び込んでいったものだが、いまはそうはいかない。
十年前、この天原の地で喧嘩屋として名を馳せた少年は、歓楽街でひとりの男と出会い、極道「黒鉄組」を支える柱となった。何にも代えがたい仲間という名の家族もできた。だが同時に、熱情に駆られることも、汗と血がぶつかり合うような命懸けの喧嘩をすることもなくなった。
「ようやくお目覚めかい、猿くん」
背後から軽快な声が響く。振り返ると、シャツと暗色のベストに身を包み、柔和な笑みを浮かべた男が立っていた。肩ほどまである黒髪は軽く結われ、毛先が風に揺れている。大きめのべっこう眼鏡のレンズが、夕焼けの光を受けてきらりと光った。
猿丸は、そんな彼の腰を見てはっとした。拳銃のホルスターを着けていたのだ。
いったいなぜ、そんな装備を──。
「ずいぶんぐっすりだったね」
若頭である久世啓思はそう言うなり、小さく吹き出した。猿丸は訝しげに目を細める。久世は笑いを堪えられないといった様子で、自らの口元を人差し指で示した。
「よだれの跡」
猿丸は苦笑いを浮かべ、ごしごしと雑に口元を拭う。その様子が可笑しかったのか、久世の笑い声はさらに大きくなる。
「啓思、どうした?」
「何が?」
「その拳銃」
久世は一瞬きょとんと目を丸くしたあと、「やっぱり」と小さく呟いて笑った。
「忘れたの? 今夜は護衛の仕事。そろそろ行くよ」
すっかり忘れていた。天原では知られた極道である「黒鉄組」は、最近要人の護衛も引き受けていた。
とはいえ、この仕事も猿丸にとっては退屈だった。自分の役目は護衛全体を取り仕切ること。現場で護衛対象を守るのは舎弟たちで、猿丸は半分お役御免なのだ。
「他に二人連れて行きたいんだけど、誰がいいかな?」
久世の言葉に、猿丸は少し考えて応じる。
「まずは源次だろ。あとは誰がいいかなあ。道場に寄ってみるか」
猿丸は寝癖がついた黒髪を掻きながら、だるそうに縁側へと戻った。下駄を脱ぎ、あくびをしながら縁側をのそのそと歩く。そして、無意識に自らの愛刀を腰に差し、鍔に親指をかけた。
愛刀の鉄鍔には、黒鉄組の代紋が透かし彫りされている。太い円環の内側に並ぶ三つの黒菱──黒鉄組を象徴する印だ。だが、そんな誇りともいえる紋も、最近はどことなくくすんでいた。
──ああ、退屈だ。
何度となく呟いてきた言葉。
だがこの日を最後に、猿丸赤也はその言葉を二度と口にすることはなかった。




