第8話「名前」
私はずっと、誰かに名前を呼ばれたかったのだと思う。
そんなことに気づいたのは、外交局の書斎で、殿下と二人きりになった夕暮れ時だった。
窓の外では王都アストレアの鐘楼が六つ目を打ち、書記官たちはとうに帰っている。樫材の机の上に広げた条約草案の修正も、今日の分はほぼ終わっていた。インク壺の底が見えかけている。明日、新しいものを持ってこなければ。
殿下はまだ向かいの席にいた。いつもなら書類をまとめて「本日はここまでに」と切り上げるのに、今日はペンを置いたまま、何か言いたげに視線を羊皮紙の端に落としている。耳の先が——ほんのわずかに赤い。
「殿下、何か」
「いえ」
間があった。殿下の指がペン軸を二度回し、止まった。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか。業務とは関係のないことですが」
「差し支えなければ」
「三年前の秋の夜会を、覚えておいでですか」
三年前。記憶を辿る。秋の夜会といえば、イルメリアの通商条約の改定を祝う催しだった。あの夜、イルメリアの大使補佐官が酔って王家の紋章を侮辱し、場が凍りついた。私が大使補佐官にイルメリア語で話しかけ、彼の故郷の詩を引用して気を逸らし、事なきを得た——ことは覚えている。
「……ええ、覚えています。イルメリアの大使補佐官が問題を起こした夜ですね」
「あの時、あなたがイルメリア語で対応した。大使補佐官の出身地の方言まで使い分けていた」
「そうでしたか。方言は……たまたま留学中に覚えたものです」
「たまたまではないでしょう」
殿下の声が、ほんの少しだけ力を帯びた。
「大使補佐官の出身地を事前に調べ、その地方の慣用句を準備していた。資料をお持ちしましたと言ってくれた書簡の中に、イルメリアの地方語の語彙一覧があったのを覚えています。あれを書いたのは、あなたです」
言葉に詰まった。あの語彙一覧のことを、この人が覚えている。三年も前の、夜会の準備資料の中の一枚を。
「あの夜、私はあなたの首筋に汗が一滴流れるのを見ました」
思わず、殿下の顔を見た。彼は視線を机に落としている。耳の赤みが、首筋まで広がっていた。
「冷静に見えて、あなたは必死だった。けれど、誰もそれに気づかなかった」
私、は。
「問題ありません。今更お伝えすることでもないのですが——資料をまとめていて、ふと思い出しました」
嘘だ、と思った。「ふと思い出した」のではない。この人はずっと覚えていたのだ。三年間、あの夜のことを。
——いや。正確に言えば、「嘘」ではないのかもしれない。この人はたぶん、自分が覚えていることの意味を、自分ではうまく言葉にできないのだ。だから「資料をまとめていて」という理由をつける。不器用な人だ。
胃のあたりが、そわそわと落ち着かない。殿下の声だけが、やけに鮮明に聞こえる。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。もっと気の利いた返しがあるはずなのに、喉が上手く動かない。
◇◇◇
書斎を出たのは、鐘楼が七つ目を打った後だった。
冬の夜は早く、外交局の廊下にはもう人影がない。燭台の炎が等間隔に揺れている。
「お送りします」
「いえ、お気遣いなく。一人で帰れます」
言い切った三十歩後に、私は自分の失敗を悟った。
外交局の正面玄関を出て、左に曲がるべきところを右に曲がった。石畳の色が違う。見覚えのない通り。空気に微かに潮の匂いが混じっている。港の方角だ。
……また、だ。
三か国語を操れるのに、王都の道を覚えられない。暗号表は完璧に記憶しているのに、右と左を間違える。我ながら、説明のつかない欠陥だ。
背後から足音が聞こえた。振り返ると、殿下が数歩後ろに立っていた。濃紺の軍服が夜の闇に溶けかけている。
「迷いましたか」
「……いえ、少し遠回りを」
「正門を出て右に曲がるのは、港に行く時だけです」
言い訳が詰まった。殿下はこちらに歩み寄り、隣に並んだ。並んで歩き出す。一言もなく。
しばらく無言のまま石畳を踏んだ。冬の夜風が頬を刺す。銀糸の刺繍入りショールを肩に寄せたが、指先は冷えている。
「三か国語を操る人が」
殿下の声がした。前を向いたまま。
「一本道で迷うんですか」
——笑った。殿下が。声に出して。
小さな、けれど確かな笑い声だった。喉の奥で鳴るような、不慣れな響き。この人が声を出して笑うのを、私は初めて聞いた。
「……申し訳ありません」
「謝ることではありません」
角を曲がった先に、見覚えのある通りが現れた。焼きたてのパンの匂い。窓に明かりがともった小さな店——あのパン屋だ。離縁の日に道に迷って、黒パンを買った店。
また来てしまった。迷うたびにこの通りに辿り着くのは、もはや呪いなのかもしれない。——いえ、呪いではなく、たぶん、私の足が覚えている唯一の道なのだ。
「あのパン屋」
つい口に出てしまった。
「以前、道に迷った時に立ち寄ったことがあります。干し杏をおまけしてくれました」
「干し杏」
殿下が小さく頷いた。何を考えているのかは、相変わらず読めない。
パン屋の前を通り過ぎ、見慣れた街路に出た。ランベルト通りの角の街灯が、橙色の光を石畳に落としている。ここまで来れば、もう迷わない。
「殿下」
「はい」
「ここからは一人で大丈夫です。お付き合いいただいて、ありがとうございました」
殿下が足を止めた。私も立ち止まる。街灯の下、殿下の顔に橙色の光が当たっている。影が半分だけ落ちて、表情が読みにくい。
「一つ、お願いがあります」
声が少し低くなっていた。
「何でしょう」
「あなたの名前を呼んでいいですか」
足裏から地面の感覚が消えた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。名前。私の名前。セラフィーナ、という、あの。
「……名前、ですか」
「はい。セラフィーナ、と」
呼ばれた。
ただそれだけのことだった。街灯の下で、冬の夜風の中で、殿下が私の名前を口にした。
胸の奥で、何かがほどけた。封蝋が溶ける時の、あのじわりとした熱。ゆっくりと広がって、肋骨の内側を温めていく。目の奥がじんと痺れる。泣くほどではない。泣くのとは違う。もっと静かで、もっと深い場所で、何かが動いた。
殿下は私の返事を待っていた。耳の先は相変わらず赤い。視線は私の顔のあたりにあるのに、焦点がほんの少しだけ外れている。目を合わせようとして、合わせきれないでいる。
「……ええ」
声が掠れた。
「どうぞ」
殿下は頷いた。何も言わずに。それから一歩下がり、「では、おやすみなさい」とだけ言って踵を返した。
背中を見送った。濃紺の軍服が、夜の通りに溶けていく。銀の肩章だけが、街灯の光を反射して最後まで光っていた。
◇◇◇
自室に戻り、扉を閉めた。
鏡の前に立つ。頬が火照っている。冬の夜気に晒されていたはずなのに、身体の芯が温かい。
セラフィーナ。
あの人の声で、再生される。抑揚の少ない、事実を述べるような声。けれどあの一言だけは——名前を呼ぶその瞬間だけは——声の輪郭が少しだけ揺れていた。
五年間、誰にも呼ばれなかった名前。「奥様」でも「公爵夫人」でも「お前」でもなく、ただ「セラフィーナ」と。
胸の中にあるこの感覚に、まだ名前をつけたくなかった。つけてしまえば形が決まる。形が決まれば、期待になる。期待は裏切られることがある。それを、私はもう知っている。
だから今は、このまま。名前のないまま、胸の奥に置いておく。
窓の外で、冬薔薇が風に揺れていた。




