186,猫ちゃんクッキーをかみ砕くことと唇を重ねることと有希が吐息交じりにつぶやいたこと
「うん。天気のわりには人が入っていたんじゃないかな。小さいところだし、日頃から、有名画家の個展でも、そんなに客は多くないらしいけど」
それは生野からの情報だ。香堂黎という画家のファンだという彼は、白岡美術館には何度も足を運んでいるらしい。
有希が、作業をしながら言う。
「あそこって、絵を見るために入るっていうより、デートの穴場なんじゃない? 隠れ家っぽいし、ちょうど人も少ないし、雨が降っているならなおさら」
「え……」
たしかに、最初に絵を見ていたのはカップルだったが。潤子が言う。
「有希くんの絵を買いたいって言う人、いるかしらね」
すかさず有希が答える。
「まさか。でも、伸くんの絵は、言われても売らないけどね」
伸は苦笑する。みんな有希の個展が開催されていることに感激して、将来は画家としてやっていけるのではないかと喜んでいるのに、本人は興味がないのか、冷めたことばかり言っている。
伸は話題を変える。
「生野くんもほめていたよ。こんなに絵がうまいとは思わなかったって。『西原にも、よろしく伝えてください』って言っていたよ」
「ふぅん」
有希は相変わらず、クッキーに顔を描く作業に没頭している。潤子が言った。
「明日、楽しみだわ」
潤子は明日、麗衣と一緒に個展を見に行くことになっているのだ。
疲れたので、少し部屋で休むと言って、伸は二階に上がった。着替えていると、後から有希がやって来た。
スウェットシャツの襟から頭を出すと、有希がすぐ目の前に立っている。
「伸くん、口開けて」
「え?」
何事かと思いながらも、言われるまま口を開けると、ぽいと猫ちゃんクッキーを入れられた。反射的にポリポリとかみ砕く。
「おいしい?」
「うん」
有希は、伸の体にしがみつきながら言った。
「今日はありがとう。僕の代わりに美術館に行ってくれて。今までも、僕のために何度も牧田さんと会ったり、美術館に行ったりしてくれて、本当にありがとう」
いつものように、伸も有希を抱きしめる。
「どういたしまして。毎回わくわくしたし、とても楽しかったよ」
「そうなの?」
「あぁ。ユウの絵が認められて、みんなに見てもらえるなんて、すごくうれしいことじゃないか」
有希が、ぎゅっと腕に力を込めた。伸は尋ねる。
「ユウはあんまりうれしそうじゃなかったけど、本当は気が進まなかった?」
「伸くんたちが喜んでくれたことは、すごくうれしかったよ。でも、たまたま描いた絵に目を留めてもらえたけど、それでどうにかなるほど、世の中は甘くないんじゃないかと思って」
「えっ……」
伸は、ちょっと焦る。
「ユウはずいぶん冷静なんだな。俺は手放しで喜んじゃったけど」
それは、麗衣も潤子も同じだろう。
有希は、伸の肩に顔をうずめたまま言う。
「それに、みんなの期待に答えられるかわからないし」
「あっ……ごめん。プレッシャーかけちゃった?」
「そういうわけじゃない。みんなにたくさん心配をかけたから、少しだけ恩返しが出来た気がして、それはよかったと思っているよ。
でも、僕はまだ、人に会ったり外に出たり出来ないし、一人じゃなんにも出来ないから」
「ユウ……」
伸は、有希の髪を静かに撫でる。
「ずいぶんストイックなんだな。そんなに気にしなくていいよ。
もちろん、前に進もうとする気持ちも大切だと思うけど、別になんでも一人でする必要はないんじゃないかな。だって俺たち母子も麗衣さんも、ユウのことが大好きで、いつもユウのために何かしたくてうずうずしているんだから」
「あ……」
「ユウの絵も、夢中で絵を描いているユウも、猫ちゃんクッキーを作っているユウも、とにかく、全部大好きなんだ」
あぁ。これは泣いてしまうパターンだ。伸がそう思った通り、有希は鼻をぐずぐず言わせ始めた。
「猫ちゃんクッキーをたくさん作って、ユウも疲れただろう?」
有希がこくりとうなずく。
「じゃあ、一緒にベッドで一休みしようか」
再びこくり。伸は、その肩を抱いてベッドに向かう。
ほっそりとした体をベッドに横たえ、潤んだ目で見上げている有希が愛おしくて、伸は覆いかぶさるようにしながら唇を重ねた。ひとしきりむさぼった後、酸素を求めて唇を離すと、有希が吐息混じりにつぶやいた。
「伸くんのキス、猫ちゃんクッキーの味がする」(終)




