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184/186

184,思わず涙ぐみそうになったことと個展の開催と生野にメッセージを送ること

 言われてみれば当たり前だが、まだ展示すると決まったわけではないのだ。

 

「ところで、展示することになった場合の雅号といいますか、仮の名前のことですが」


 牧田には、前もって、本人の希望で本名は明かしたくないと伝えてある。伸は言った。

 

「はい。片仮名で、『ユウ』でお願いします」


 牧田は、手帳に書き込みながら言った。

 

「『ユウ』ですね。承知しました」



 その話をしたとき、有希は即答した。

 

「それなら『ユウ』だよ。伸くんの呼び方だし、伸くんのおかげで、僕は絵を描くようになったんだもん。


 それに、伸くんにそう呼ばれるの、大好きだから」

 

 以前、記憶を失った伸に、有希が話してくれたことによれば、彼の中に行彦が共存していたとき、伸は、どちらの名前を呼べばいいのかわからなくて混乱したらしい。それで、有希に二人をまとめて呼ぶための新しい名前を決めてほしいと頼んだのだという。

 

 そして有希が、『ユウ』と決めた。その後の出来事により、伸は、行彦と有希が同化したとみなし、今も「ユウ」と呼び続けている。

 

 ややこしいことに、当時の記憶を失った有希に伸が話して聞かせ、さらにその後、記憶を失った伸に、有希が話してくれたことなのだが、事実には違いないはずだ。

 

 

 牧田から連絡が来るまでの間、伸は、やきもきしながら待っていたのだが、有希は思いのほか落ち着いていて、毎日、二階の部屋で絵を描いて過ごしていた。

 

 有希の絵は、晴れて白岡美術館に個展として展示されることに決まった。あんなにやきもきしていたはずなのに、そうと決まると、当然のように思えてしまうから不思議だ。

 

 牧田から電話を受けたとき、有希もうれしそうにしていたが、伸は、思わず涙ぐみそうになってしまい、こらえるのに苦労した。

 

 牧田が、今度は二人のスタッフとともにやって来て、有希の絵を丁寧に保護して美術館に運んで行った。

 

 

 

 梅雨に入った頃、有希の個展が開催された。

 

 小雨が降る中、傘を差した伸は、美術館への道を急いでいた。有希は、アンジェールを臨時休業にした潤子と一緒に家にいる。

 

 打ち合わせのために何度か通い、すでに慣れた道ではあるが、今日は特別な緊張感がある。今日は個展の初日であり、そして……。

 

 

 個展の開催が決まったとき、伸は、有希に尋ねた。

 

「このこと、生野くんに知らせてもいいかな」


 スケッチブックに向かっていた有希は、顔を上げてこちらを見る。

 

「でも……」


「きっと彼も喜んでくれると思うけど」


「そうかな。ひどい別れ方をしたきりだし、もう僕のことなんか思い出したくもないんじゃない?」


 伸は微笑む。

 

「そんなことないよ。あのときも言ったけど、ユウが言ったことは本意じゃないって伝えてあるし、生野くんも、ユウにひどいことを言って済まなかったって、ひどく後悔していた。


 ユウがこんなに頑張っているって知ったら、きっと彼もうれしいんじゃないかな」

 

「そうかな……」


「そうだよ。とりあえず、メッセージだけ送ってもいい?」


「……わかった」



 あの後、有希が絵を描き始め、その絵が認められ、この度個展を開くことになったと伝えると、すぐに生野から返信が来た。

 

――すごいですね。俺も是非見に行きたいです。



 住宅街の角を曲がると、木立に囲まれた美術館の入り口が見えて来る。ひさしの下に立った長身の青年が、伸に向かって頭を下げる。

 

 有希のかつての同級生、生野公太だ。彼と有希の実家で初めて会った日から、ちょうど一年が経とうとしている。

 

「お待たせしちゃって」


 傘を閉じながら伸が言うと、生野は微笑んだ。

 

「いえ。俺もちょっと前に着いたばかりです」


 眼鏡をかけた彼は、去年会ったときと、あまり印象が変わっていない。あのときは、これ以上ないくらい険悪なムードのまま別れたのだったが、今日の生野は穏やかな好青年だ。

 

 伸は、入り口の脇にある傘立てに傘を収めながら言った。

 

「さて、行こうか」


 生野が両手をこすり合わせる。

 

「いやぁ、なんか緊張するな」

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