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20.きみに、にゃあと鳴いてやる。



 一月十七日。日曜日。

 ちょうど、猫の状態で彼と出会ってから一年が経った。


 岸田にとっては猫を拾った日。

 わたしにとっては大人になった彼と再会した日だ。彼がその日付を記憶しているのかはわからなかったし、わたしが知っているはずのことではなかったので、聞くこともできない。

 ただ、わたしにとっては忘れることのできない日だった。


 あの日駅前で見つけたスーツ姿と、拾われたコートの中の温度は今でも鮮明に覚えている。


 その日は休日だったので、一緒に街に出た。食料品や、雑貨の買い出しとついでにお昼ご飯を食べて帰り際に井の頭恩賜公園に寄った。

 公園には白くて大きな猫がのしのし歩いていた。


「あ、にゃんてん様」


「え、それあのデカシロのこと?」


「うん。あの辺のお店の人とか、みんなにゃんてん様って言ってるよね」


「知らなかった……」


 岸田は周辺の人と必要以上にコミュニケーションをとらないので、通称を知らなかったらしい。勝手にあだなをつけていたようだ。

 デカシロ、いかにも男がつけたぞんざいなネーミングだ。しかし、よく考えたら風体をもじっている分チキンカツよりはいくらかマシな気もする。チキンカツは酷い。


 岸田の顔をなんとなく見てから、にゃんてん様の方に視線を戻すと思ったより近くにいた。

 しかし、無愛想にこちらをチラ見しただけで、そそくさと通り過ぎていった。


 それでもしばらく行って振り向くと、にゃんてん様もこちらを見ていて「にゃあ」と鳴くような口をしてくれたので、彼女の挨拶めいたものは受け取った。


 今日も彼女の白い尻尾は鷹揚な動きでゆらんと揺れている。


 ゆっくりしていたら家に戻ってきたころには陽が傾きかけていた。荷物を雑に床に下ろして伸びをする。


「頼朝、疲れた?」


「いや、俺はそうでもない。留里は?」


 聞かれて「大丈夫」と言おうとしたのに、直前で襲ってきた疲れに気づいて、結局「すごく疲れた……」と言った。

 休みなのに早起きしたせいで、急に眠気がやってきた。


「ちょっとだけ、寝ていい?」


 時計を見ると午後四時。買ってきたものを片付けたりとか、一休みする前に、まだやることはある。


 でも、眠い。


「三十分したら起こしてくれない?」


「わかった」


 ソファに身を丸めると、わたしはびっくりするほどの早さですっと眠りに落ちた。


 最初は子どものころの夢を見ていた。


 お父さんと、お母さん。お姉ちゃんと、揃って家族だったころの夢。


 今はもうない家。

 お母さんが、わたしの世界の中心だったころ。


 今より若いお父さんが、やっぱり今と同じように笑っている。


 わたしは人見知りする方で、ものごころつく前はあまりお父さんに懐かなかったらしい。


 そのうちに、記憶のわたしがぼんやりと成長していく。夢は順序よくは進まず、いろんな時期の一瞬のイメージが飛び飛びで散っている。


 高校生のわたしが玄関を出て学校へ行く。

 校舎は廊下の窓に四角く切り取られた陽の光のイメージばかりが残っている。


 岸田は、どこにいるんだろうか。心の隅でそんな風に思う。


 住んでる家が変わってぼやけていく。


 一人暮らしの部屋で、死んだように眠る自分が見えた。


 にゃんてん様の近くで項垂れてるわたしも一瞬通り過ぎた。


 わたしは記憶の中で岸田を見つけたくなり、捜すように思い出す。


 中庭で猫を抱いていた彼。

 それから文化祭準備で大きな袋を持っている彼。

 廊下にひとりぽつんと立っていた彼。


 その想起した映像が、灰色の猫、わたしと一緒に部屋にいる彼に移動して塗り変わった。


 ふたりだけの部屋の、幸せな記憶。


 カツ、カツ、カツ。


 眠りが浅くなったのか、壁にかけられた時計の秒針が音を刻んでいるのを意識の端で感じる。


 蕩けるような眠りの中、頭を優しく撫でられているような心地よさ。

 尻尾の先をくるんと動かせるような懐かしい感覚があった。


 薄く目を開けると目の前に猫の足が見える。

 気がつくとわたしは小さな猫となって岸田の脚の上に丸まっていた。


「にゃあ」と声を上げるとぼんやりしていた岸田がわたしを見た。

 そうして柔らかく笑い、わたしの眉間に顔を近づけて、嗅いだ。


 そうして岸田がひとことか、ふたこと、呼びかけるように言葉をこぼす。意味は頭に入ってこないけれど、優しい声だった。


 そのまま数秒、見つめ合う。

 岸田がまた、優しく笑った。


 手のひらが背中の毛並みを撫でる感触の心地よさに、また目を閉じた。


 それはずっと続いている、もうひとつの世界で、すごく当たり前の日常のような気がした。





 目を開けた時わたしは人間の身体でソファで寝転んでいた。岸田の膝にいたような気がしていたけれど、確かに膝に頭をのせていた。そして、彼も座ったまま眠っていた。


 あくびをしていると、その気配に岸田が目を開ける。


「あれ、悪い。起こすって言ったのに俺も寝てた」


「きっと疲れてたんだよ」


 岸田は「そうかな」と言って首を捻った。


「なんかわたし、夢を見ていた気がする」


「俺も……」


 起き上がって頭をガシガシ掻きながらそうこぼす岸田はなにやら幸せそうな顔をしていた。


「夢の中で、飼ってた猫に会った」


「え、なんか言ってた?」


「そういうんじゃなくて、俺の膝で寝てた」


「それだけ?」


「うん。それだけだ」


 それからしばらくして、思い出したように言う。


「あ、そういえば、言ってたかも」


「なんて?」


「内容はわからないけど、にゃあって鳴いていた」


 猫だもんね。内容はわたしにもわからない。


「にゃあ」は「にゃあ」でしかない。


 それはきっと「こんにちは」でも「さようなら」でもない。「頑張れ」でも「愛してる」でもない。


 でも、もしかしたらそれ以上の意味だって、全部入っている。「にゃあ」は万能な言語だ。


「また聞けて、ちょっと得した気分だ」


 岸田はそんなことを言って、小さく笑った。

 わたしはそれを見て、同じように笑う。


 わたしのいるこの世界軸とは違う場所で、岸田の膝で、にゃあと鳴いている自分を想像しながら。





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