42話 深淵
シアさんと初邂逅を果たした夜が明けた昼下がり、午前最後の授業が終わってご飯の準備をする頃である。
ほぼ休みなしで真っすぐ学校に来ても支障なく動くのだから便利な身体になったものだ、とゆっくり伸びをして教室を見渡す。
今日はおばさんがお弁当を作ってくれたため購買戦争に参加する必要はない。
少し離れたところで湊くんの絶叫が聞こえたのできっとジャン負けの購買お勤めだろう。ご苦労様です。
教室に陽さんの姿はない。女子の二クラスが合同でグラウンドで体育をしていて、男子二クラス分は教室で授業を受けていたためだ。今はグラウンドにいるだろう。
「アーカメくんっ」
葵くんがひょこっと横から顔を覗かせる。
「葵くんお疲れ様。…何か持ってるの?」
葵くんが後ろに何かを隠すような動きで僕の正面に回って来た。
その反応を待ってましたとばかりに「じゃじゃーん!」とお弁当箱のようなものを見せてくる。
それは、直近でどこかで嗅いだような香ばしい香りだった。
「…クッキー?」
「鼻良いね、正解。今日はクッキー焼いてきたんだ」
葵くんは上機嫌そうに中からクッキーを取り出すと僕に差し出してくる。
食べて食べて、と言わんばかりに目をキラキラさせてくるのでその目言葉に甘えて口に運ぶ。
「うん!美味しいよ!」
明け方辺りにちょうど焼き立てを食べてしまったからその感動には及ばないが、物としてとても素晴らしい出来であることには変わりない。
素直に出た感情を伝えたが…葵くんは何処か不満そうである。
「…あんまりだった?」
「え?いやいやそんなこと。本当に美味しいよ」
「でもアカメくん眼をキラキラさせてない」
させたことないけどね。
任意で出来るようなものでもないし、どうすればいいんだこれ?
「まさか、他の人にもクッキー作って貰ったとか?」
この子こんなに勘が鋭かったっけ?
ピンポイントで言い当てられて思わず顔に出してしまう。
葵くんの圧が強くなる。
「…そっちの方が美味しかったんだ?ふーん」
「ち、違うよ!そっちの子のは焼き立てで!葵くんのも焼き立てが食べたいなぁなんて思ってただけで!」
「子?女の子なの?」
え、この子こんなだったっけ?
思わずそんなことを考えてしまうくらいには葵くんの圧は強かった。
強まり続けた葵くんの圧だったが、葵くんがため息をつくことで霧散した。
「…今度うちに来てよ。焼き立てごちそうするから」
「ホント?それは嬉しいけど…」
「絶対美味しいって言わせてやる!」
「美味しいとは言ってるよね?」
僕は勢いの止まらぬ葵くんに苦笑していたが、ふと明け方考えていたことを思い出す。
「あ…ねぇ葵くん。焼き立てのお菓子って美味しいよね」
突然雰囲気が変わった僕に葵くんは戸惑う。
「え、うん。美味しいね」
「実はさ、孤児院の子ども達にごちそうしたいなって思って。良かったら作り方教えてくれない?」
僕の提案に葵くんは目を輝かせた。
「いいねそれ!僕もまた行きたいって思ってたんだ!」
「お、良かった。何だったら孤児院のキッチン借りて皆で作るのもありじゃない?」
「確かに!陽ちゃんと三人で材料買ってお邪魔しようよ!」
「陽さんつまみ食いしないか心配だけどね」
「そこはアカメくんがチョコで防がないと」
先の楽しいイベントが出来たと二人で話に花を咲かせる。
陽さんが帰ってきたら相談しないとな、孤児院の保母さん達にも連絡入れとかないと、子どもでも危なくない作業って何かな、なんて言葉を色々交わしていると後ろから影ができた。
「楽しそうに話してるな」
「あ、弘人くん」
にこやかな表情を浮かべる青年が後ろにいた。
「何の話をしてたんだ?」
「近くの孤児院の子達にお菓子作りをさせてみようって話してたんだ」
葵くんはうんうんと未だキラキラし続けている目で頷いた。
その様子に「孤児院か…」と弘人くんは少々考える素振りを見せる。
「弘人くん?」
「…もしよかったらでいいんだが、今度うちの近くの孤児院にもやってくれないか?勿論材料とかは俺が買うからさ」
「え!いいの⁉」
真っ先に葵くんが反応した。
簡単に了解が貰えるとは思ってなかったらしく、弘人くんは目を丸くする。
「え、いや、逆にいいのか?面倒だったり大変だったり…」
「それで笑顔になれる子がいるなら大歓迎だよ!」
こういう子なんだよ、葵くんは。
弘人くんが若干困惑した表情を向けてきたので、したり顔を返してやる。
どうだ、うちの葵くんは。ってね。
「その代わり弘人くんも参加するんだよ。言い出しっぺなんだから」
「…分かった分かった。その時は一緒に楽しませて貰うよ」
「うん!」
観念したように弘人くんは笑みを零して了承する。
そんな優しい時間が流れる昼下がり。
それをぶち壊す何かとは、突然やってくるものである。
「「ッ…⁉」」
僕と弘人くんが異変を感じ、校庭に振り返ったのは同時だった。
突如として校庭辺りに魔力反応が急激に高まり、半円状の巨大な空間のようなものが出現した。
何事かとクラス中の人間が窓に張り付いてみているため、僕らも近づいて確認する。
「なっ…深淵化だと⁉」
弘人くんが驚愕と共にそんなことを口走る。
深淵化…話だけはベルに習った。
魔力が特定の場所に一定以上集まることによってそこに魔力で形成された空間、深淵が形成される。
深淵はただ形成され内と外を隔てるだけのものもあれば何かしらの効果を付与するものもある。
上位悪魔のさらにほんの一握りにはこの深淵を形成できる悪魔もいるらしい。
ただこの場で問題なのは深淵は市街地などでは滅多に現れず、禁足領域などの人の手が及ばない場所で形成されるものということだ。
精霊教会が定期的に邪霊や悪魔を狩っていることによって市街地では深淵発生の条件は中々満たされない。
それが、今突然目の前に現れた。
上位悪魔…それとも、ここ最近邪霊が現れていないことと何か関係があるのか?
いやそんなことはどうでもいい…校庭に現れたということは校庭にいた人間は巻き込まれた可能性が高い。
陽さん……!
今すぐに飛び出していきそうになる衝動を抑え歯ぎしりしていると視界の端を猛スピードで通過する影があった。
「京香さん…」
京香さんはそのまま深淵に突撃していって、そのまま中に入っていった。
なるほど、外からの干渉は問題なく出来るらしい。
ただ中に閉じ込められた人たちが出てこないことを考えると内から外へ出ることは出来ないようだ。
「済まない二人とも…皆を連れて批難していてくれ」
弘人くんは持っていたお弁当のようなものを葵くんに預けると三階の教室から飛び降りていった。
「えっ…弘人くん⁉」
葵が喜んだのも束の間、弘人はそのまま着地して深淵≪アビス≫に突っ込んでいった。
何がなんだか分からない葵は少しの間呆けた後、心を許す友人の判断を仰ごうとして横を向いたが……
「…あれ、アカメくん?」
どこに消えたのか、そこにアカメの姿はなかった。




