第9話 首飾りの影
1785年、ヴェルサイユで、わたしは自分の名前が知らない場所で使われていたことを知った。
ダイヤの首飾り。高価で、重く、目が痛くなるほどきらびやかなもの。その存在は以前から耳にしていた。けれど、わたしはそれを欲しいとは思わなかった。王妃に宝石が似合うと人は言う。けれど宝石が増えたところで、わたしの呼吸は軽くならない。
それなのに、首飾りはわたしの名と結びつけられていた。
「ロアン枢機卿が」
報告の声が低くなる。
「わたくしのために購入した、と?」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
枢機卿ロアン。わたしが好意を持っていないことは、宮廷で知られていた。その人が、わたしの秘密の望みを信じ、首飾りを手に入れようとしたという。しかも、わたしの名をかたる者たちに騙されて。
ばかげている。
そう思った。
けれど、ばかげた話ほど人は喜んで信じることがある。
わたしはそのことを、まだ甘く見ていた。
首飾りそのものを初めて勧められた時、わたしはその重さに先に目がいった。
宝石は美しい。職人の技も見事だった。けれど、あまりに大きく、あまりに高価で、あまりに王妃らしさを押しつけてくる品だった。人々はわたしを浪費家だと言う。ならば、こんなものを首にかければ、わたしは自分からその絵に色を足すことになる。
「陛下にこそふさわしい品でございます」
宝石商はそう言った。
「ふさわしいからといって、必要とは限らないわ」
わたしは答えた。
その時は、それで終わった話だと思っていた。欲しくないものは欲しくない。王妃であっても、すべての宝石を望むわけではない。むしろ、わたしは重い首飾りより、子どもの手の温かさや、トリアノンの風のほうを欲していた。
けれど世間は、王妃が宝石を拒んだ話より、王妃が宝石を欲した話のほうを好む。
その好みが、やがてわたしを刺すことになる。
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事件の話が広がると、ヴェルサイユの廊下はいつもより静かになった。
静かな時ほど、人はよく喋っている。声に出さず、扇の陰で、視線で、手紙で。わたしが通ると空気がわずかに硬くなる。誰も正面からは疑わない。けれど、疑いの影は礼儀正しい顔をして近づいてくる。
「陛下が、そのようなものを」
ある者が言いかけて、すぐ口を閉じた。
「続きをおっしゃい」
わたしが促すと、相手は青ざめた。
「いえ、滅相もございません」
否定の言葉は、時に肯定より深く刺さる。
わたしは首飾りを求めていない。手紙も書いていない。夜の庭で誰かに会ってもいない。けれど、世間が聞きたいのは事実ではなく、物語だった。浪費する王妃。秘密を持つ王妃。高価な宝石を欲しがる王妃。
わたしが何をしたかではない。
人々がわたしに何をさせたがっているかが、先に走り出していた。
******
ロアン枢機卿が捕らえられた時、わたしは正義がこちらへ向くと思いたかった。
真実が明らかになれば、誤解は解ける。そう信じたい気持ちはあった。けれど宮廷の外では、もう別の王妃が作られていた。紙の上で笑い、噂の中で浪費し、民の苦しみを知らない女。わたしの知らないわたしが、人々の怒りを集めている。
「裁きが出れば、落ち着くでしょう」
誰かが言った。
「本当に?」
わたしは聞き返した。
答えは返ってこなかった。
裁きは、人の心を必ずしも戻さない。まして、疑うことを楽しんでしまった人々は、簡単に疑いを手放さない。
わたしは鏡の前に立った。
いつもの顔がある。
けれど、その顔の上に、世間が描いた王妃の影が重なって見えた。
母ならどうするだろう。
気品を崩すな、と言うだろう。怒りに飲まれる者から先に負ける、と言うかもしれない。だからわたしは背筋を伸ばした。
でも、心の底では叫びたかった。
わたしではない。
それは、わたしではない。
ロアン枢機卿が人々の前で捕らえられたと聞いた時、わたしは胸の奥に複雑な痛みを覚えた。
当然だと思う気持ちはあった。わたしの名を信じたというなら、その軽率さの代償を負うべきだ。けれど同時に、事件が大きくなればなるほど、わたしの名もまた人々の口にのぼる。正義が行われるほど、噂も広がる。なんて皮肉なことだろう。
「これで真実が明らかになります」
側近が言った。
「真実を聞きたい人ばかりならよいのだけれど」
わたしは低く返した。
真実は時に退屈だ。噂は鮮やかだ。王妃が騙された、あるいは王妃が裏で欲しがった。そういう話のほうが人の舌に乗りやすい。わたしの無関係は、物語として弱すぎる。
その弱さが怖かった。
何もしていないことを証明するのは、何かをしたことを説明するよりずっと難しい。
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1786年、首飾り事件の裁きが終わっても、わたしの中の重さは消えなかった。
関わっていない。知らなかった。騙されたのは別の人々だ。そうした事実は並べられる。けれど、並べられた事実より早く、噂は街へ出ていく。紙に刷られ、人の口で膨らみ、笑いと怒りをまとって戻ってくる。
無実であることは、十分な盾ではなかった。
そのことが、何より怖かった。
わたしはずっと見られてきた。ウィーンでも、国境でも、ヴェルサイユでも。けれど首飾り事件で知ったのは、見られていない時でさえ、人はわたしを見るということだった。実際のわたしではなく、想像の王妃を見る。そこへ怒りを投げる。
プチ・トリアノンの扉を閉めれば、秘密だと言われる。
子どもを抱けば、演技だと言われる。
宝石を拒んでも、欲しがったことにされる。
なら、わたしは何で自分を守ればいいのだろう。
窓の外のヴェルサイユは美しいままだった。
美しいまま、少しずつ冷えていく。
わたしの名にまとわりついた影は、もう首飾りだけのものではなくなっていた。




