第1話 新大陸の自由 - ラファイエット
1789年5月、ヴェルサイユの議場で、私は貴族身分の席に座っていた。金糸の刺繍、香水、羽根飾り、磨かれた靴。新大陸の泥を知った目には、どれも少しまぶしすぎた。向かい側には第三身分の代表たちがいて、彼らの上着には宮廷の光では消せない疲れが残っていた。
「ラファイエット殿」
隣の貴族が、扇の陰から私を呼んだ。声は穏やかだったが、目は笑っていない。
「はい」
「あなたは、どこまで彼らに近づくおつもりです」
「彼ら、とは?」
「分かっておいででしょう。権利だ、代表だ、国民だと、近ごろ声を大きくしている者たちです」
私はすぐには答えなかった。第三身分の席を見る。そこには怒鳴る者だけでなく、黙って膝に手を置く者もいた。あの沈黙は、宮廷の礼儀正しい沈黙ではない。長く待たされた人間の沈黙だった。
「近づくのではありません」
「では?」
「ようやく、同じ部屋に入ったのです」
扇がぴたりと止まった。
「同じ部屋、ですか」
「ええ」
「あなたは本気で、あの者たちと同じ国を作れると?」
「同じ国に住んでいます」
「住んでいるだけです。立つ場所は違う」
「立つ場所が違いすぎるから、国が割れかけているのです」
言った瞬間、近くの貴族たちの視線がこちらへ向いた。軽く笑って流す道もあった。だが、ここで笑えば、新大陸で見た兵たちの顔まで笑いものにしてしまう気がした。
「あなたは貴族です」
「ええ」
「ならば、貴族の側に立つべきだ」
「貴族であることと、正しい改革を望むことは、同じ椅子に座れます」
「同じ椅子に詰め込めば、椅子が割れますぞ」
「割れるなら、先に座り方を変えるべきです」
隣の男は、扇を閉じた。ぱちん、という小さな音が、議場のざわめきの中で妙にはっきり聞こえた。
「危ういお考えだ」
「危ういのは、何も変えずに済むと思うことです」
その時、議場の奥で机を叩く音がした。第三身分の代表が立ち上がっていた。背は高くない。声も洗練されてはいない。それでも、その声には飾り立てた弁論より重いものがあった。
「我々は、また待てと言われるのですか!」
議場が揺れた。
「税は払う。兵にも取られる。飢えにも耐える。だが、国を決める席には座れない。これで、どうして同じ王国と言えるのです!」
「無礼だ!」
貴族席から声が飛んだ。
「ここは市場ではないぞ!」
「市場なら、まだパンの値段を聞いてもらえます!」
第三身分の席から別の声が返った。笑いではないざわめきが広がる。私は自分の袖口を見た。上質な布。手入れされた縫い目。私が何かを選ぶ前から、この袖は私の立つ場所を人に知らせてしまう。
「侯爵」
隣の貴族が低く言った。
「お聞きになりましたか。あれが彼らの礼儀です」
「ええ」
「それでも、味方をするのですか」
「礼儀が足りないことと、訴えが間違っていることは別です」
「ずいぶん寛大ですな」
「いいえ」
私は第三身分の席を見たまま答えた。
「遅すぎたのです。私たちが」
隣の男は何も言わなかった。ただ、その沈黙は第三身分の沈黙とは違う。剣を抜く前の沈黙に近かった。
******
6月、ヴェルサイユの回廊には、球戯場で交わされた誓いの熱がまだ残っていた。議場を閉ざされた代表たちが、国民議会として離れないと誓った。その報せは、壁の石にまで染み込んだように、人々の声を変えていた。
「侯爵、こちらへ」
第三身分の男が私を呼び止めた。くたびれた上着の袖口に、インクの染みがある。だが、こちらを見る目はまっすぐだった。新大陸で見た兵の目に似ている。借り物の言葉ではなく、自分の生活から引き抜いた言葉を持つ者の目だった。
「あなたも、我々の側へ来てください」
「我々の側、ですか」
「はい。あなたが来れば、貴族の中にも分かっている方がいると示せます」
彼の言葉は熱かった。だが、熱すぎる期待は、ときに人を焼く。
「私は、拍手を受けるために来たのではありません」
「分かっています」
「本当に?」
私が聞くと、彼は少しだけ言葉に詰まった。
「……民衆には、味方が必要です」
「味方は必要でしょう」
「ならば」
「ただし、味方であることと、怒りのままに進むことを許すことは違います」
彼の目がわずかに揺れた。その揺れを見て、胸が痛んだ。私は彼らの敵ではない。だが、彼らが望むすべてに頷けるわけでもない。
背後から声がした。
「行けば戻れませんよ」
振り返ると、貴族の友人が立っていた。忠告の形をしている。だが、半分は脅しだ。
「戻れない、ですか」
「ええ。あちらに立てば、あなたは我々の列から外れる」
「列から外れただけで、国から外れるわけではありません」
「きれいな言い方ですな」
「きれいで済むなら、誰も悩みません」
友人は一歩近づいた。
「ラファイエット。あなたは英雄でいたいのですか」
「違います」
「では、何でいたいのです」
私はすぐには答えられなかった。英雄。改革者。貴族。裏切り者。どの名も、他人が私に貼る札にすぎない。私自身が欲しい名は、まだ見つかっていなかった。
「侯爵」
第三身分の男が言った。
「私たちは、あなたの家名だけが欲しいのではありません。あなたの決断が欲しいのです」
「決断には、代償があります」
「私たちは、とっくに払っています」
その言葉に、私は息を止めた。荒い声ではなかった。だからこそ重かった。
怖かった。家名を失うことではない。いや、それも怖い。けれど、もっと怖いのは、正しいと思って進んだ先で、自分の正しさが誰かの生活を壊すことだった。改革は必要だ。だが、壊すだけなら子どもにもできる。作り直すには、怒りより長い息がいる。
私は息を吸い、顔を上げた。
「戻れないなら、なおさら前を見ます」
友人の眉が動いた。
「名を捨てるのですか」
「名は捨てません」
「では?」
「名の使い道を変えるだけです」
言い終えて、私は第三身分の男の方へ歩いた。床板が鳴る。たった数歩なのに、妙に長い距離だった。貴族の列から離れ、国民議会に近づく。その動きだけで、私の名は別の意味を帯び始める。
「ラファイエット侯爵が来たぞ」
誰かが言った。
「本当に信じていいのか?」
「貴族だぞ」
「だが、新大陸で戦った男だ」
「貴族は貴族だ」
拍手が起きた。だが、その中に混じる敵意も聞こえた。聞こえている。聞こえてしまう。私は掌を握った。汗がにじんでいた。
「あなたは我々の味方ですね」
若い代表が笑った。純粋な期待を向けられると、胸が痛む。味方。その言葉は温かい。だが、時に鎖にもなる。
「味方です」
「よかった」
「ただし」
彼の笑みが止まった。
「怒りが法を燃やそうとする時は、私は止めます」
「……法?」
「自由には、守る形が必要です」
「我々は、ずっと法に苦しめられてきたのです」
「だからこそ、別の法が要る」
「新しい鎖ではなく?」
「鎖にしないために、作るのです」
彼は黙った。怒ってはいない。だが、先ほどまでのまっすぐな期待に、細い疑いが混じったのは分かった。それでいい。私は誰かに完全な味方だと思われるために、ここへ来たのではない。
******
7月、ヴェルサイユの議場で、私は人権の宣言案を手にしていた。紙は軽い。だが、そこに書いた言葉は、王国の古い壁に投げる石のようだった。人は自由であり、権利において平等である。そう書く手が震えなかったと言えば嘘になる。
「侯爵、それが例の宣言ですか」
近くの代表が聞いた。
「ええ」
「読ませていただいても?」
私は紙を渡した。彼は目を走らせ、息をのむ。
「人は自由であり、権利において平等である……」
その声が周囲に広がる。ざわめきが起きた。
「美しい文章ですな」
皮肉を含んだ声が飛んだ。
「だが、美しい文章で腹は満ちません」
「その通りです」
私が答えると、相手は眉を上げた。
「認めるのですか」
「もちろんです」
「では、パンを配ってみせよ」
「パンを配る政治を、権利のない者に黙って待てと言い続けた結果が今です」
議場が少し静まった。
「権利で麦は育ちませんぞ」
「権利がなければ、麦を育てた者の声も届きません」
「声、声、声。最近はそればかりだ」
「声を奪ってきたからです」
反対の声が起きた。
「貴族がそれを言うか!」
「あなたはどちらの席の人間だ!」
その問いには、すぐ答えられなかった。どちらの席。その言葉は、私の胸の奥にまっすぐ刺さった。
私は貴族だ。だが、貴族だけではいたくない。民衆の味方でありたい。だが、民衆の怒りにすべてを預けることもできない。どちらにも完全には立てない自分を、私は自分で知っていた。
それでも、ここで黙れば、私はただ安全な席に戻るだけの男になる。
私は紙を机に置き、顔を上げた。
「私は、フランスが壊れずに変わる道を探す者です」
「壊れずに変わる?」
誰かが笑った。
「そんな都合のよい道があるなら、とっくに通っています」
「ないかもしれません」
私は認めた。議場がまた静まる。
「それでも、探す者がいなければ、残るのは破壊だけです」
言ったあと、胸の奥で鼓動が強く鳴った。強い言葉は、言う前より言った後の方が怖い。もう引っ込められないからだ。
その時、廊下の方が騒がしくなった。扉が開き、使者が飛び込んでくる。
「パリから知らせです!」
「何事だ!」
「バスティーユが……」
使者は息を切らし、言葉を絞り出した。
「バスティーユが落ちました!」
議場が割れたように騒ぎ出した。
「落ちた?」
「民衆が?」
「武器を取ったのか!」
「ついに!」
歓声を上げる者がいた。青ざめる者もいた。私は立ったまま、紙を握りしめていた。民衆が立ち上がった。それは歴史の扉が開いた音だった。だが、扉の向こうから何が入ってくるのかまでは、誰にも選べない。
「侯爵!」
誰かが興奮した声で言った。
「時代が来ましたな!」
私はうなずきかけて、止めた。
「時代は、来るものではありません」
「では?」
「押し寄せるものです」
相手は意味が分からないという顔をした。押し寄せた水は、渇いた畑も潤す。だが、家も橋もさらっていく。それを、私はまだうまく言葉にできなかった。
議場を出ると、廊下で第三身分の男が待っていた。6月に私を呼び止めた男だ。彼は息を切らし、目を輝かせていた。
「パリがあなたを必要としています」
「私を?」
「はい。新大陸の自由を見た貴族を。民衆の味方で、剣を持つ人を」
胸の奥で、何かが重く沈んだ。
「民衆の味方で、剣を持つ人」
私は彼の言葉を繰り返した。
「はい」
「その二つを並べるのは、危ういことです」
「危うくても、今は必要です」
「剣は、人を守るために抜くものです」
「分かっています」
「本当に?」
彼は答えなかった。その沈黙で十分だった。彼は悪い人間ではない。ただ、今の彼には、怒りと希望の境目が見えていない。いや、私も本当には見えていない。ただ、見なければならないと思っているだけだ。
「ラファイエット」
反対側の柱の陰から、年配の貴族が歩み出た。父の世代に近い人だった。幼い頃から何度も舞踏会で顔を合わせたことがある。帽子を手にしているが、目だけで私を責めていた。
「あなたは、我々の家を燃やす火に油を注いでいる」
「燃やさずに済ませるために、窓を開けようとしているのです」
「窓を開ければ、外の風が入る」
「ええ」
「風は火を大きくする」
その言葉にも理はあった。古い家に住む者ほど、壁が崩れる音を恐れる。私はその恐れを笑えない。私も、その家の中で育ったからだ。
「閉め切った部屋でも、人は窒息します」
老貴族の唇がかすかに震えた。
「あなたは、本当にそれでよいのか」
「よいとは思っていません」
「ならば、なぜ進む」
「このまま立ち止まる方が、もっと悪いからです」
「我々を裁くのか」
「いいえ」
私は首を振った。
「私も、裁きの席に呼ばれる側です」
老貴族は黙った。怒りだけではない。悲しみもあったのだと思う。
「貴族であることを恥じているのか」
「恥じてはいません」
「では、なぜ彼らの側へ行く」
「貴族であるからです」
老貴族の目が細くなる。
「家名も、教育も、人脈も、剣も。持っている者が、何も持たない者の声を聞かなければ、それこそ貴族の名が腐ります」
「きれいな理想だ」
「そうです」
私は短く答えた。
「ですが、理想を持たない現実は、ただの保身です」
老貴族は何も言わず、私の横を通り過ぎた。その背中を見ても、私は勝った気になれなかった。革命は、古い敵を倒す物語ではない。自分が愛したものまで、裁きの席に呼び出す物語なのだ。
第三身分の男も、黙っていた。
「侯爵」
「何です」
「あなたは、完全には我々の側ではないのですね」
責める声ではなかった。だから、私は正直に答えた。
「ええ」
彼の顔がわずかにこわばる。
「ですが、敵でもありません」
「では、何なのです」
「まだ、分かりません」
「分からない?」
「ただ一つ言えるのは、自由を報復に変えたくないということです」
彼は視線を落とした。
「報復したい者は、います」
「知っています」
「家族を飢えさせられた者もいる。税で家を失った者もいる。兵に殴られた者もいる」
「知っています」
「それでも、止めるのですか」
私は少しだけ黙った。遠くで使者の足音が響いていた。速い足音は、人の不安を倍にする。
「止めます」
私は言った。
「憎しみが人を裁き始めたら、やがて誰も止められなくなる」
「それでは、民衆はまた我慢しろと?」
「違います」
「では?」
「怒りを、法に変えるのです。復讐ではなく、制度に」
言いながら、私は自分でもその難しさに息苦しくなった。そんなことが本当にできるのか。できると信じたい。だが、信じるだけでは足りない。
窓の外を見る。ヴェルサイユの空は明るい。けれど、遠くのパリの方角だけが、煙を含んでいるように見えた。
「侯爵」
第三身分の男が言った。
「どうしますか」
私は人権の宣言案を折りたたみ、胸元にしまった。人は自由であり、権利において平等である。その一文は美しい。だが、美しい一文を掲げたまま、血の匂いから目を逸らすわけにはいかない。
「行きましょう」
「どちらへです」
「パリへ」
「パリへ?」
「拍手の先で、何が起きているかを見るために」
私は歩き出した。廊下に、私の靴音が響く。その後ろに、第三身分の男の足音が続いた。そして遠くから、まだ見ぬ民衆の声が近づいてくる気がした。
貴族であり、革命の味方である。
その名は華やかに聞こえる。だが、華やかな名ほど、裏側には細い刃が隠れている。
拍手と敵意の両方を、同じ制服で受ける日が近づいている。
私はその刃を袖の内側に感じながら、パリへ向かう足音を聞いた。




