表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ジャック・ネッケル

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/42

第5話 罷免の知らせ

 1789年5月5日、ヴェルサイユで三部会が開かれた朝、私は議場の空気が紙より重いことを知った。


 聖職者、貴族、第三身分。三つの身分が、それぞれの衣装と視線をまとって並んでいる。私は王の財務を預かる者として、その前に立つ準備をしていた。ジャック・ネッケルという名は、今や財政だけでなく、王国の未来にまで結びつけられている。


 重すぎる。


 そう思った。


 壇上へ向かう足音が、自分のものではないように響く。議場には人いきれと布の匂いがこもり、遠くで咳をする音がした。誰もが聞く姿勢を取っている。だが、聞きたいことは同じではない。


 王は、税と秩序を。


 貴族は、特権と名誉を。


 聖職者は、教会の立場を。


 第三身分は、数にふさわしい声を。


 そしてパリは、パンと希望を。


 私は一つの口で、それら全部に答えなければならなかった。


「諸君」


 声を出した瞬間、議場の視線がこちらへ集まった。


 私は財政を語った。赤字を、収入を、支出を、借入を、王国が直面している危機を。数字は私の言葉の中で整列した。慣れた仕事だ。数字だけなら、私はまだ自分を見失わずにいられる。


 だが、この日の議場が求めていたのは、数字だけではなかった。


 第三身分の者たちは、私の言葉の奥に政治の答えを探していた。頭数で投票するのか、身分ごとに分かれるのか。彼らの倍加された議席は、実際の力になるのか。それとも見せかけの譲歩なのか。


 貴族たちは、私が古い秩序をどこまで揺らすつもりかを測っていた。


 聖職者たちは、沈黙の中で互いの出方を見ていた。


 私は慎重に言葉を選んだ。


 選びすぎたのかもしれない。


 強い言葉は、場を動かす。


 同時に、場を割る。


 私は割れることを恐れた。王国はすでに裂け目だらけだ。ここで私が一方へ大きく傾けば、もう片方が決定的に離れる。だから、私は財政の話を中心に置き、政治の結論を急がなかった。


 話し終えた時、拍手はあった。


 だが、その拍手の中に満足は少なかった。


 議場を降りながら、私は気づいていた。


 私は数字で答えた。


 彼らは、時代への返事を待っていた。


 ******


 6月に入ると、ヴェルサイユの廊下は以前より短く感じられるようになった。


 どこへ行っても、議場の噂が先回りしている。第三身分が動かない。身分ごとの確認を拒む。国民議会を名乗る。聖職者の一部が揺れる。貴族は怒る。王は迷う。宮廷は苛立つ。


 私は王の側近たちと話し、議員たちの反応を聞き、書類を読み、また王のもとへ戻った。


 調停。


 その言葉が、毎日少しずつ軽くなっていく。


「ネッケル」


 ルイ16世陛下は、窓のそばに立っていた。


「彼らは、どこまで求めるのだろう」


 私はすぐには答えなかった。


 窓の外の庭は、相変わらず整っている。だが、議場の中ではもう、王の庭師が刈り込めるような枝ではなくなっていた。


「陛下」


「何だ」


「第三身分は、もはや税を認めるためだけに集まったとは考えておりません」


 陛下の肩がわずかに沈んだ。


「では、何を」


「自分たちが国民であることを、認めさせたいのだと思います」


 言葉にした瞬間、部屋が静かになった。


 国民。


 その言葉は、古い王国の部屋ではまだ新しすぎた。


 陛下はしばらく黙っていた。


「そなたは、彼らの側か」


 問いは静かだった。


 だからこそ、痛かった。


「私は、王国の側でありたいと考えております」


「王国とは誰だ」


 私は息を止めた。


 その問いは、王自身の口から出るにはあまりにも重い。


 王か。


 身分か。


 民か。


 税を払う者か。


 祈る者、戦う者、働く者、そのすべてか。


 私には、すぐに答えられなかった。


 陛下は私の沈黙を見て、目を伏せた。


「分からぬのだな」


「申し訳ございません」


「いや」


 陛下は首を振った。


「私もだ」


 その一言に、私は何も返せなかった。


 王が迷い、議場が進み、宮廷が焦る。


 数字なら、赤字の欄に書ける。


 だが、この迷いはどの欄に書けばいいのか。


 ******


 7月11日、私は罷免の知らせを受け取った。


 ヴェルサイユの空気は、その朝から妙に硬かった。軍の配置、宮廷内のささやき、急ぎ足の使者。どれも一つずつなら珍しくない。だが、重なると意味を持つ。


 私は執務室で書類を読んでいた。


 扉が開き、使者が入ってきた。彼は礼をしたが、目を合わせなかった。その時点で、内容はほとんど分かった。


「陛下より」


 差し出された紙は、きれいに折られていた。


 私は受け取った。


 紙は軽い。


 いつもそうだ。


 人の人生を動かす紙ほど、手に持てば軽い。


 開くと、そこには職を退くこと、ただちに離れることが記されていた。


 私は読み終え、もう一度読み返した。


 字は変わらなかった。


「承知しました」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。


 使者は深く頭を下げた。


 私は机の上を見た。未処理の書類がある。三部会に関わるメモがある。財政の一覧がある。どれも、私がいなくなっても紙として残る。だが、その紙をどう読むかは、残った者たちが決める。


 怒りは、すぐには来なかった。


 まず来たのは、疲れだった。


 ああ、またか。


 そう思った。


 私は前にも退いた。あの時は会計報告の後だった。今度は、議場と民衆の熱の中で退かされる。前回よりも、私の名はずっと大きくなっている。だから、この紙がパリへ届いた時、ただの人事では済まない。


 分かっているはずだ。


 宮廷の誰かも、陛下も、分かっているはずだ。


 それでも、この紙は出された。


 私は立ち上がり、窓の外を見た。


 ヴェルサイユの庭は静かだった。


 静かすぎた。


 私はその静けさの向こうに、まだ聞こえないパリの音を想像した。


 群衆のざわめき。


 書店の前の怒号。


 誰かが「裏切りだ」と叫ぶ声。


 そして、誰かが武器を探す音。


 ******


 旅路の馬車の中で、私は罷免の知らせが私より早くパリへ向かうのを感じていた。


 窓の外では、夏の光が麦畑を照らしている。道は乾き、車輪が土埃を上げた。私は王国から追われるように離れながら、頭の中で何度も同じ問いを繰り返していた。


 私は、何だったのか。


 財務官か。


 人気者か。


 王に仕える大臣か。


 第三身分に同情的な危険人物か。


 宮廷から見れば、私の存在は民衆を勢いづかせる印だったのだろう。パリから見れば、私の罷免は王が民衆に背を向けた印になる。どちらにしても、私自身の意図より、私の名が勝手に意味を持つ。


 馬車が宿場に止まった時、遠くから騒がしい声が聞こえた。


 使者が駆け込んできた。


「パリで騒ぎが」


 私は顔を上げた。


「詳しく」


「閣下の罷免が広まり、人々が集まっていると。軍が動いているという噂も」


 やはり。


 私は目を閉じた。


 驚きはなかった。恐れも、怒りも、少し遅れて来る。最初に胸を満たしたのは、奇妙な虚しさだった。


 私はそこにいない。


 私の名だけが、パリにいる。


 人々は私を守るために怒るのではない。少なくとも、それだけではない。彼らは、自分たちの希望が罷免されたと感じている。王が、議会と民衆に向けて扉を閉めたと感じている。


 私という人間は、その扉に貼られた札になったのだ。


 その夜、宿の小さな部屋で、私は眠れなかった。


 蝋燭の火が揺れ、壁に薄い影を作る。机の上には、まだ開いていない手紙がある。外では馬が鼻を鳴らし、誰かの足音が廊下を過ぎていった。


 私は紙を取り、何かを書こうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 財政なら書ける。


 赤字なら書ける。


 借入なら、利息なら、収入なら、支出なら。


 だが、王国が壊れる音は、どう記せばいいのか。


 7月14日。


 その日に何が起きるか、私はまだ知らなかった。


 ただ、遠くから聞こえるはずのない鐘の音が、胸の奥で鳴っていた。


 私の罷免は、一人の財務官の終わりでは済まない。


 そのことだけは、もう数字よりはっきりしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ