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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ジャック・ネッケル

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第2話 王国の赤字と宮廷の笑顔

 1778年の冬、王国財務局の朝は、ヴェルサイユの舞踏会よりずっと冷たかった。


 私は机の前に座り、アメリカへ向かう支払いの一覧を眺めていた。窓の外では薄い雪が石畳に落ち、部屋の中では書記たちのペンだけが忙しく音を立てている。ジャック・ネッケルという名は、少しずつ宮廷で知られるようになっていたが、私の前に並ぶ数字は、名声などまったく気にしていなかった。


 戦争は遠くで起きている。


 だが、請求書は近くへ来る。


 大西洋の向こうで独立を求める植民地を支えることは、イギリスに対する政治としては理解できる。フランスの名誉もある。外交の計算もある。宮廷の廊下では、誰もがそれを美しい言葉で語った。


 自由。


 名誉。


 均衡。


 だが、財務局の紙の上では、それらはもっと別の姿をしていた。


 船の費用。軍需品。兵の給金。補助金。借入。利息。


 美しい言葉は、最後には数字になる。


「ネッケル閣下」


 若い書記が、紙束を胸に抱えて立っていた。


「新しい借入の条件が届いております」


「置いてください」


 私は手を伸ばした。


 紙には整った筆跡で条件が書かれている。以前より、ほんの少しだけ利息が重い。ほんの少しだけ、返済の年限が厳しい。貸し手たちは、王国の顔色を見ている。彼らは礼儀正しく頭を下げるが、金を貸す時だけは、驚くほど正直だ。


「悪くありません」


 書記がそう言った。


 私は紙から目を離さず、静かに答えた。


「悪くない条件が続く時は、悪くなる前の合図です」


 書記は口を閉じた。


 悪くない。まだ借りられる。まだ信用がある。そう言って安心することはできる。だが、銀行家だった私は知っている。信用は、残っているうちは柔らかい羽根布団のように人を眠らせる。目を覚ました時には、下が崖になっていることもある。


 私はペンを取った。


 新しい税は避けたい。


 民衆の肩には、すでに十分すぎるほど荷が乗っている。塩の税、間接税、地方ごとの負担。さらに戦争のために新しい税をかければ、王国は勝つ前に内側から軋む。


 だから私は借りる。


 借りて、時間を買う。


 時間があれば、整理できる。制度を改められる。支出を見直せる。地方の声を取り入れる仕組みも作れる。


 そう信じなければ、借入はただの美しい転落になる。


 ******


 同じ日の午後、ヴェルサイユ宮殿では、戦争も赤字も金色の額縁に収まっていた。


 私は謁見の間へ向かう廊下で、羽飾りのついた帽子を手にした貴族たちとすれ違った。彼らは私を見ると、丁寧に笑う。財務を扱う男に無礼を働くほど愚かではない。だが、その笑顔の奥には、いつも薄い警戒があった。


 外国人。


 銀行家。


 プロテスタント。


 そして、帳簿を見たがる男。


 宮廷で、その四つは十分に不愉快な組み合わせだった。


「ネッケル殿」


 年配の貴族が声をかけてきた。白い鬘の下で、目だけが鋭い。


「王国の財務は順調でございますかな」


「順調と言えるほど、王国は軽くございません」


「おや、財務官殿が暗い顔をなさると、われわれまで不安になります」


 周囲に小さな笑いが起きた。


 私はその笑いを聞きながら、目の前の男が本当に不安なのは赤字ではなく、自分の負担が増えることなのだと理解した。彼らにとって財政危機は、遠くの嵐だ。窓が閉まっている限り、音だけ聞こえればいい。雨が室内に入ってきそうになると、急に誰が窓を開けたのかを責め始める。


「ご安心ください」


 私は微笑んだ。


「不安にするために数字を見るのではありません。手遅れになる前に不安になるためです」


 貴族の笑みが一瞬だけ止まった。


 私は会釈して歩き出した。背後で、誰かが小さく何かを言った。聞こえないふりをした。宮廷では、聞こえないふりも仕事のうちだ。


 謁見室の前で足を止めると、扉の向こうから低い声が漏れていた。王と大臣たちが話している。私は呼ばれるまで待った。


 待っている間、壁の金飾りを見上げた。


 美しい。


 実に美しい。


 だが、私はその美しさを見ながら、頭の中で維持費を計算していた。職人、修復、灯り、警備、儀礼、馬車、衣装、祝宴。宮廷は単なる浪費ではない。王権の舞台であり、秩序の見せ方であり、身分社会そのものの劇場だ。


 だから厄介だった。


 無駄だと切れば、王権の威信まで削ることになる。残せば、国庫は軽くならない。


 扉が開いた。


「ネッケル殿、中へ」


 私は息を整えた。


 数字は簡単だ。


 人間が難しい。


 ******


 1779年、私は地方行政の仕組みに手を入れるため、いくつかの紙に署名した。


 パリの書斎で、妻シュザンヌがその紙を見つめていた。窓の外では馬車が通り、遠くから売り子の声が聞こえる。彼女は指先で紙の端を押さえながら、静かに言った。


「第三身分にも同じ重さの席を与えるのですね」


「同じではありません。場所によっては、聖職者と貴族を合わせた数に近づけるだけです」


「宮廷では、十分に大胆だと言われるでしょう」


「すでに言われています」


 私は椅子に腰を下ろした。


 地方の声を聞く仕組みを作る。税を払う者が、税の使われ方に口を出せるようにする。書けば簡単だ。だが、実際には、古い特権の椅子を少し動かすだけで、部屋中の人間が振り返る。


「あなたは、革命家になりたいのですか」


 シュザンヌの声は冗談めいていたが、目は真面目だった。


「まさか。私は帳簿を整えたいだけです」


「帳簿を整えるために、人の席順を変えている」


「席順が数字を歪めているのなら、仕方ありません」


 そう答えてから、私は自分の言葉に少しだけ苦くなった。


 仕方ない。


 改革を口にする者は、よくその言葉を使う。仕方ない。必要だ。合理的だ。だが、そう言われる側にも人生がある。地位がある。祖父から受け継いだ権利がある。彼らにとって、私の線一本は、家の壁を動かされるようなものかもしれない。


 だからといって、壁に触れなければ、家ごと傾く。


「ジャック」


 シュザンヌが私の名を呼んだ。


「あなたは、数字を人より正直だと思っているでしょう」


「はい」


「でも、人は数字よりしぶといです」


 私は顔を上げた。


 彼女は紙を机に戻した。


「正しいことを示せば人は従う、とは限りません。正しいからこそ怒る人もいます」


 私はしばらく黙っていた。


 分かっているつもりだった。


 だが、分かっていることと、耐えられることは別だ。


 私はペンを取り、次の書類へ目を落とした。インクの匂いが鼻に残る。紙の上には、王国の未来が小さな文字で並んでいる。地方の会議、税の配分、行政の報告。どれも小さな改革だ。王国をひっくり返すものではない。


 けれど、古い家は、小さな釘を抜くだけでも大きな音を立てる。


 ******


 1780年のある夜、ヴェルサイユの舞踏会で、私は笑顔の中に立っていた。


 音楽が流れ、蝋燭が揺れ、若い貴族たちの靴が床を滑る。婦人たちの首飾りが光り、扇の陰で噂が行き交う。私の名も、その噂の中を何度も通っていた。


 倹約家。


 人気取り。


 外国人。


 危険な男。


 どれも半分は正しく、半分は都合がいい。


「ネッケル殿」


 マリー・アントワネット王妃が、少し離れた場所から私へ視線を向けた。


 王妃は華やかだった。部屋の光を集めることに慣れている人だった。けれど、その華やかさは、本人の好みだけでできているのではない。王妃は王妃として見られる。衣装も、髪型も、微笑みも、国家の一部として数えられる。


 だから私は、彼女を単純な浪費の象徴として見る気にはなれなかった。


 ただ、数字は容赦しない。


 象徴にも費用がかかる。


「財務の話は、舞踏会には似合いませんわね」


 王妃は軽く言った。


「似合わないものほど、あとで請求書が似合います」


 私が答えると、王妃の目がほんの少し細くなった。怒りではない。面白がったのか、警戒したのか、その両方か。


「あなたは、いつも数字のお話」


「数字は、私を裏切りませんので」


「人は裏切ると?」


 私は一瞬だけ返事に迷った。


 強いセリフは、いきなり言ってはいけない。心がそう教えた。宮廷の中央で、王妃に向かって人間不信を披露するほど、私も愚かではない。


 だが、ここで笑って流せば、ただの財務官で終わる。


 私は息を吸った。


「人は、見たいものを見るのです」


 王妃は黙った。


「数字は、見たくないものもそこに置きます」


 音楽が続いている。周囲の者は、聞こえているのかいないのか、ちょうどよい距離で笑っていた。


 王妃は扇を閉じた。


「それは、宮廷ではあまり好かれない才能です」


「存じております」


「では、なぜ続けるのです」


 私は部屋を見渡した。金の装飾、銀の皿、軽やかな靴音、遠くに立つ若い王。すべてが美しく、すべてが壊れやすい。


「王国が、笑顔のまま沈むのを見たくないからです」


 王妃はしばらく私を見ていた。


 それから、ほんの少しだけ顎を上げた。


「では、沈まないようになさい」


 命令というより、挑戦のようだった。


「はい」


 私は頭を下げた。


 その夜、舞踏会は何事もなかったように続いた。音楽は軽く、笑い声は明るく、蝋燭の火は美しかった。


 だが、私の耳にはずっと別の音が聞こえていた。


 紙の上で、赤字が増えていく音だ。


 王国はまだ笑っている。


 その笑顔が消えた時、人々は私に言うだろう。


 なぜ、もっと早く知らせなかったのか、と。


 だから私は、知らせる方法を考え始めた。


 王国の赤字を、王国の人々に見せる方法を。


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