表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/54

第13話 ヴァレンヌの夜

 1791年6月20日の夜、テュイルリー宮殿で、私は国王としてではなく父として家族の出発を待っていた。


 部屋の明かりは落とされ、廊下の音にいつも以上に耳が向く。監視の目を避け、決められた時刻に動く。王の生活とは思えないほど細い道だった。だが、その細さの中にしか、もう私たちの自由は残っていないように思えた。


 私は逃げたいのではない。


 何度も自分にそう言い聞かせた。逃げる、という言葉は軽蔑を含んでいる。責任を捨てる者の言葉だ。だが私は責任を捨てたいのではない。監視された部屋で、良心に逆らう署名を重ねることが責任なのか。家族を危険な場所に置き続けることが、王の勇気なのか。


 守りたい。


 それだけだった。


 マリーは子どもたちの支度を確認していた。顔は落ち着いて見える。けれど、手の動きが少し速い。娘は不安を隠そうとしており、息子は眠そうに目をこすっている。その小さな仕草を見るたび、私は胸の中で選択を繰り返した。


 本当に連れていくのか。


 ここに残すより安全だと言い切れるのか。


 答えはない。


 それでも、ここに残れば確実に監視の中だ。外へ出れば危険はあるが、まだ選べる場所へ行けるかもしれない。王として自由に判断できる場所へ。家族を脅かされずに祈れる場所へ。


 私は手を握った。


 怖い。迷う。言い訳はいくらでもできる。


 だが、ここで何もしなければ、私は家族をゆっくり失う。


「行こう」


 短く言った。


 マリーがうなずいた。


 その瞬間、私たちは王宮を出る家族になった。


 ******


 出発の前に、私は机の上の書類をもう一度見た。


 そこには、私が残していく言葉があった。なぜパリを離れるのか。何を拒み、何を望むのか。私は自分の行動が誤解されることを恐れていた。いや、恐れていたというより、誤解されると分かっていた。だからせめて、理由だけは書いておきたかった。


 だが、理由は紙に書くと冷たくなる。


 家族を守りたい。信仰を守りたい。王として自由に判断できる場所が欲しい。私の中では切実な思いでも、読む者には計算に見えるかもしれない。王が言い訳を残した、と。


 私はペンを置いた。


 窓の外は暗い。パリの灯りが遠くに散っている。その一つ一つの下に、人の暮らしがある。私はその人々から離れようとしている。彼らの信頼を得るためではなく、彼らの監視から逃れるために。


 その事実は消えない。


 私は自分に問いかけた。


 本当にこれで国を救えるのか。


 すぐには答えられなかった。


 ただ、ここに残れば、私は自分の良心に従って王でいることができない。そう思った。監視の中で出す署名は、私のものなのか。群衆に止められる祈りは、私の信仰なのか。


 考えれば考えるほど、道は狭くなる。


 私は書類を閉じた。


 正しいから行くのではない。


 ここに残ることもまた、間違いになると思ったから行くのだ。


 その違いは小さいようで、大きかった。


 私は部屋の隅に置かれた旅行用の外套を見た。


 王の衣装ではない。目立たない布、目立たない色。身を隠すためのものだ。それを見た時、胸に奇妙な痛みが走った。王は本来、見られる存在だった。儀礼の中心に立ち、民の前に姿を示し、名を隠さない。


 その私が、名を隠して夜に出る。


 理由があっても、その姿は弱く見える。


 私は外套を手に取った。布は思ったより軽かった。王冠よりずっと軽い。けれど、その軽さがかえって苦しかった。王冠を脱ぐようなものだからだ。


 マリーが入ってきた。


「準備は」


「できています」


 私は外套を見せた。


 彼女は一瞬だけ目を伏せた。


「似合いませんね」


 その言葉に、私は思わず小さく笑った。


 こんな夜に笑うとは思わなかった。だが、その短い笑いで、胸の張り詰めたものが少しだけ緩んだ。


「私もそう思います」


 マリーは近づき、私の襟を直した。


 妻の手だった。


 王と王妃ではなく、逃げようとしている夫婦の短い時間だった。


「行きましょう」


 彼女が言った。


 私はうなずいた。


 もう、紙の上ではなく、足で選ぶ時間だった。


 扉へ向かう前、私は部屋を振り返った。


 豪華な部屋ではない。テュイルリーの中でも、監視の気配が染みついた場所だ。それでも、そこには子どもたちの声が残り、マリーの足音が残り、私が迷った夜の沈黙が残っていた。


 ここを出れば、戻る時には同じ場所ではなくなる。


 成功しても、失敗しても。


 そのことだけは分かっていた。


 私は灯りを見た。小さな火が揺れている。誰かが消せば、部屋は闇になる。国も同じなのだろうか。王の灯りを消せば闇になるのか。それとも、人々は別の火を持っているのか。


 今の私には、もう分からなかった。


 分からないまま、私は扉を出た。


 廊下の空気は冷たかった。


 足音を抑えて進むたび、私は自分が王宮から出るのではなく、長く保ってきた言い訳の中から出ていくのだと感じた。もう、考えているだけでは済まない。迷いは馬車に乗せられない。


 それでも私は、迷いを完全には置いていけなかった。


 胸の奥で、まだ引き返せると囁く声が残っていた。


 私はそれを聞かないふりをした。


 ******


 パリを抜ける夜道で、馬車の揺れはいつもより大きく感じられた。


 暗い窓の外に街の影が流れていく。テュイルリーの壁が遠ざかるたび、胸の奥に不思議な軽さが生まれた。監視の目から離れている。誰かに呼び止められず、どこへ行くかを自分で選んでいる。


 自由とは、こんなにも静かなものだったのか。


 だが、その軽さの下には不安があった。時間は予定通りか。馬は替えられるか。護衛は合流できるか。誰かが顔に気づかないか。小さな遅れが、すべてを壊すかもしれない。


 マリーは子どもたちを気遣いながら、時折私を見る。


「大丈夫ですか」


 彼女が小さく尋ねた。


「分かりません」


 私は正直に答えた。


 マリーの眉が少し上がった。


「でも、進むしかない」


 そう続けると、彼女は静かにうなずいた。


 私は窓の外へ目を戻した。夜の道は黒く、時々灯りが遠くに見える。そこに暮らす人々は、今この馬車に誰が乗っているか知らない。知らないまま眠っている。私はそのことに、少し救われた。


 王であることを知られない時間。


 それは奇妙な安らぎだった。


 同時に、自分がどれほど王の名から逃れられないかも感じた。服を替え、名を隠し、夜に紛れても、私の中には王冠の重さが残っている。私はただの男として旅をしているのではない。王が身を隠している。それだけで、この旅は私的なものではなくなる。


 守るための出発。


 だが、見つかれば裏切りと呼ばれる。


 そのことを、私は分かっていたはずだった。


 それでも、まだ間に合うと信じたかった。


 ******


 サント=ムヌーで向けられた視線に、私は冷たいものを感じた。


 それは一瞬だった。宿駅でのやり取り、馬の準備、周囲の人々の動き。その中で、ある男の目が私の顔に長く止まった。普通の好奇心ではない。何かを照合するような目だった。


 私は息を殺した。


 顔を伏せるべきか。堂々としているべきか。迷ったその一瞬が、また遅れになったかもしれない。


 馬車が再び動き出しても、その視線は背中に残った。


「どうしました」


 マリーが尋ねた。


「見られたかもしれない」


 彼女の顔色が変わった。


 子どもたちには聞かせたくなかった。だが、馬車の中の空気はすぐに固くなる。私は自分の失敗を数え始めた。もっと早く出るべきだった。もっと軽い馬車にするべきだった。もっと顔を隠すべきだった。もっと、もっと。


 いつもそうだ。


 過ぎたあとで、私は選ばなかった道を正しく見つける。


 ヴァレンヌに着いた時、希望はまだ完全には消えていなかった。あと少し。合流できれば。道が開けば。そう思っていた。


 だが、町の中で馬車は止められた。


 人々が集まり、声が増え、私たちを見る目が確信に変わっていく。王だ。王が逃げている。そんな言葉が、空気の中で形を持ち始めた。


 私は扉の向こうの顔を見た。


 怒り、驚き、興奮。彼らにとって、私は家族を守ろうとした父ではない。国民を置いて逃げようとした王だった。


 「逃げたのではない」と言いたかった。


 だが、その言葉は誰に届くだろう。


 私がどんな理由を持っていても、彼らが見た事実は一つだ。


 王が夜にパリを離れた。


 それだけで、私の心の中の理由はかき消された。


 ******


 パリへ戻る馬車の中で、私はほとんど言葉を発しなかった。


 道の両側には人々がいた。行きの夜には見えなかった顔が、帰りの昼にはあまりにもよく見えた。彼らは叫ばなかった。むしろ、その沈黙が怖かった。罵声よりも、冷たい目のほうが深く刺さることを、私はその時知った。


 民は私を見ている。


 だが、もう同じ目ではない。


 バスティーユの後にパリへ行った時、私はまだ橋をかけられると思っていた。連盟祭の日には、王と国民が同じ空の下に立てると信じた。テュイルリーでも、苦しいながら憲法の王としてやり直せるかもしれないと考えた。


 その信頼を、私は自分の手で壊したのだろうか。


 マリーは黙っていた。


 子どもたちも疲れている。娘の目には涙があり、息子は母に寄りかかっていた。私は父として何か言うべきだった。怖がらなくていい。大丈夫だ。そう言うべきだった。


 だが、大丈夫ではなかった。


 嘘をついて安心させるには、私は自分の声を信じられなかった。


 パリに近づくほど、人々の沈黙は厚くなる。


 守るための逃亡だった。


 私の中では、それは今も変わらない。私は家族を守り、王として自由な判断を取り戻し、国を破局から遠ざけたかった。だが、民から見れば、私は彼らを置いて逃げた王だ。彼らの信頼を受けながら、夜に背を向けた王だ。


 どちらが真実なのか。


 おそらく、どちらも真実だった。


 そのことが、何より苦しかった。


 テュイルリーに戻る時、私はもう以前の王ではなかった。王冠はまだある。名もある。儀礼も残る。だが、信じてもらえない王の言葉は、どれほどの力を持つのだろう。


 馬車が止まった。


 私は扉の前で一度目を閉じた。


 守るための逃亡は、なぜ裏切りとして読まれるのか。


 その答えは、外の沈黙の中にあった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ