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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

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第11話 ヴェルサイユを去る日

 1789年10月5日、ヴェルサイユ宮殿の王の居室で、私はパリから群衆がこちらへ向かっているという報告を受けた。


 雨の日だった。窓の外の空は重く、庭の水路も石畳も鈍い色をしている。報告に来た者の靴には泥がついていた。その泥を見た瞬間、私はパリの道を想像した。濡れた服、冷えた手、空腹、怒り。宮廷の床にはないものが、その靴についてヴェルサイユへ入り込んできた。


「多くは女性でございます」


 報告する者がそう言った。


 女性たち。


 その言葉で、私は余計に胸が苦しくなった。剣を掲げた兵ではない。パンを求める母や妻や娘たちが、雨の中を歩いている。怒りがあるのは確かだろう。だが、その根にあるものを、私は簡単に反乱とは呼べなかった。


 パン。


 何度も聞いてきた言葉だ。書類で、報告で、議場の声で。けれど、パンを求める人々が王の住む宮殿まで来る時、その言葉は文字ではなく足音になる。


「陛下、警備を固めるべきです」


 誰かが言った。


 当然の言葉だった。王家を守らねばならない。マリーも、子どもたちもいる。だが、守るとは何を意味するのか。門を閉じ、兵を並べ、飢えた人々を押し返すことか。話を聞くことか。譲ることか。


 私は窓の外を見た。


 ヴェルサイユは、王の宮殿として美しく作られている。広い庭、整った水、果てしない回廊。だが、その美しさは、雨の中を歩く人々から見れば何に見えるのだろう。


 遠い王の家。


 そう見えていたのなら、彼らがここまで来たのは、私が遠すぎたからかもしれない。


 ******


 夕方、私はヴェルサイユに入った女性たちの訴えを聞いた。


 彼女たちは疲れていた。濡れた服が重そうで、顔には怒りと疲労が混じっている。宮廷の女性たちとは違う。飾られた言葉ではなく、腹の底から出る言葉を持っていた。


「パンを」


 その一言は、王への長い演説より強かった。


 私は彼女たちを見た。


 この人々は、私を憎むためだけに来たのではない。子どもに食べさせるものが欲しい。明日の食卓に置くものが欲しい。王ならどうにかしてくれるはずだという、怒りに混じった期待を持って来ている。


 期待されることは、時に責められることより苦しい。


「できる限りの措置を取ります」


 私は言った。


 また、できる限り。


 自分でその曖昧さが分かった。だが、目の前の飢えに対して、今すぐ魔法のようにパンを出すことはできない。倉庫、輸送、価格、商人、役人。どれも関わっている。けれど、彼女たちは仕組みの説明を聞きに来たのではない。


 私は言葉を選び直した。


「パンが届くよう命じます。あなた方の声は聞きました」


 女性の一人が、私をじっと見た。


「本当に、聞いてくださるのですか」


 その問いに、胸が詰まった。


 聞く。


 私は何度もその言葉を使ってきた。民の声を聞く。国の声を聞く。だが聞いたあと、十分に動けただろうか。聞いたことを、相手が納得できる形にできただろうか。


 私は彼女の目を見た。


「聞きます」


 短く答えた。


 その答えがどれほど信じられたのかは分からない。けれど、その時だけは逃げずに目を合わせた。王としてではなく、ひとりの人間として、空腹を訴える人の前に立った。


 外では雨が降り続いていた。


 その雨音の中で、宮殿の壁が以前より薄くなったように感じた。


 ******


 夜が深くなっても、ヴェルサイユは眠らなかった。


 廊下の向こうで足音が続き、時折、外の群衆の声が風に乗って届く。雨は弱まっていたが、空気は冷たいままだった。私は王の居室で報告を受けながら、椅子に座っている自分がひどく遠く感じた。


 ラファイエットが到着したという知らせが入った。


 彼は秩序ある自由を信じる男だ。パリの民衆にも、王家にも、何とか橋をかけようとしているように見える。私はその努力を信じたいと思った。だが、橋というものは、両岸がまだ残っている時にしかかけられない。


「安全は保たれるのか」


 私は尋ねた。


 答えは慎重だった。


「全力を尽くします」


 全力。


 その言葉を聞くたび、私は自分が何度も似た言葉を使ってきたことを思い出す。できる限り。努力します。慎重に考えます。どれも誠実な言葉だった。だが、誠実な言葉は結果を保証しない。


 マリーは子どもたちのそばにいた。


 私は部屋へ行き、眠っている子どもたちを見た。娘の顔には涙の跡があり、息子は疲れて深く眠っている。外の声も、政治の言葉も、この子たちには大きすぎる。


「明日には落ち着くでしょうか」


 マリーが言った。


 私は答えを探した。


「落ち着かせなければならない」


 そう言うしかなかった。


 彼女は私を見た。


「あなたがそう言う時、本当は分からないのでしょう」


 私は否定できなかった。


 マリーは疲れたように息を吐いた。


「それでも、言わなければならないのですね」


「はい」


 王とは、分からない時にも人を安心させる言葉を求められる。だが、その言葉が空になれば、次に失うものは信頼だ。


 私は子どもたちの寝顔を見ながら、朝まで何事もないことを祈った。


 祈りは届かなかった。


 そのあと、私はしばらく一人で廊下に立った。


 夜の宮殿は、昼のヴェルサイユとは別の場所に見えた。金色の装飾も、長い鏡も、蝋燭の揺れの中では頼りなく見える。外の声が低く響くたび、壁そのものが息をしているようだった。


 ここは安全な場所だったはずだ。


 兄の後ろを歩いた廊下。父の死を聞いた部屋。マリーとぎこちなく並んだ場所。子どもたちが生まれた宮殿。私の人生の多くは、この壁の内側にあった。


 だが、民にとってここは何だったのだろう。


 遠く、閉じられた場所。税と噂と怒りの向こうにある場所。王がいるはずなのに、声が届かない場所。


 もしそうなら、彼らが門の前まで来たことを、私はただの侵入とだけ呼べるのか。


 私は壁に手を触れた。


 冷たい石の感触があった。


 ヴェルサイユは動かない。


 だが、国のほうが動いている。


 私はその動きを、長い間、書類や報告の中でしか見てこなかった。


 今は違う。門の外にいる。雨の中にいる。女性たちの濡れた服に、兵の疲れた顔に、子どもたちを怯えさせる声に、国の動きがある。これほど近くに来るまで気づけなかったことが、王としての私の遅れだった。


 廊下の奥で、また誰かが走る音がした。


 夜はまだ終わっていない。


 その足音を聞きながら、私は初めて、宮殿の広さを恨めしく思った。これほど多くの部屋があり、これほど長い廊下があるのに、家族を完全に守れる場所はどこにもない。


 広さは安全ではなかった。ただ、助けに届くまでの距離を伸ばすだけだった。


 その距離が、この夜はあまりに長かった。


 ******


 翌朝、宮殿の中に悲鳴が響いた。


 眠りは浅かった。夜の間も人々の声が遠くで揺れていたからだ。だが、朝のその音は違った。怒号、走る足音、金属のぶつかる音。宮殿の奥まで、外の世界が入り込んできた。


 マリーの居室が危ない。


 その知らせを聞いた瞬間、頭の中が白くなった。


 王として考えるべきことは多かった。警備、群衆、議会、命令、流血。けれど、その一瞬、私の中にあったのは妻と子どもたちのことだけだった。


 私は走った。


 宮廷の礼儀も、王の歩き方も、何も考えなかった。廊下には混乱が広がっていた。兵士の顔、侍女の震え、割れたものの音。ヴェルサイユが安全な場所だという思い込みが、足元で砕けていく。


 マリーは無事だった。


 その姿を見た時、力が抜けそうになった。彼女は顔色を失っていたが、立っていた。子どもたちもいる。私は彼女のそばへ近づき、言葉を探した。


「無事で」


 それだけしか出なかった。


 マリーは私を見た。


「ええ」


 短い返事だった。けれど、その目には恐怖が残っていた。彼女は強い。何度もそう思ってきた。だが、強い人が怖がらないわけではない。強い人ほど、怖さを見せる場所が少ないだけだ。


 外では群衆が王を求めている。


 私はバルコニーへ出なければならなかった。


 怖かった。石を投げられるかもしれない。撃たれるかもしれない。罵声を浴びるかもしれない。だが、ここで姿を見せなければ、宮殿の中の恐怖はさらに膨らむ。


 私は息を吸った。


 家族を守りたい。


 そのためには、民の前に立たねばならない。


 私は一歩、外へ出た。


 群衆の声が、波のように押し寄せた。


 その声の中で、私は自分が王座ではなく、人々の視線の上に立っているのだと感じた。


 ******


 10月6日、私は王家とともにヴェルサイユを離れ、パリへ向かう馬車に乗った。


 道は人で埋まっていた。馬車の進みは遅く、外からは笑い声、歌、叫び、皮肉、歓声が混じって聞こえる。誰かが私たちを「パン屋」と呼んだ。王と王妃と子どもたちを、パンを運ぶ者のように。


 私はその声を怒ることができなかった。


 彼らにとって王とは、パンを保証する存在なのだ。神の油を注がれた者である前に、今日食べるものをどうにかする者。私はその単純な事実を、宮殿の奥でどれほど遠くしていたのだろう。


 馬車の中で、マリーは子どもたちを抱き寄せていた。


 娘は不安そうに外を見ている。息子は疲れて眠りかけていた。私はその小さな顔を見て、胸が痛んだ。子どもたちは、なぜ家を出るのか分からないだろう。なぜ大勢の人が叫ぶのか、なぜ父が黙っているのか、分からないだろう。


 私にも、すべては分かっていない。


 ただ一つ分かるのは、ヴェルサイユには戻れないということだった。


 少なくとも、以前のヴェルサイユには。


 あの宮殿は、王が王であることを自然に見せてくれる場所だった。廊下も庭も儀礼も、人々の頭の下げ方も、すべてが王権を支えていた。そこを離れ、パリへ行く。民の目の中で暮らす。


 それは移動ではなく、何かの終わりに近かった。


 私は窓の外を見た。


 群衆の顔が流れていく。怒り、好奇心、安堵、勝利の表情。彼らは私を連れていく。王が民を導くのではなく、民が王を動かしている。


 この事実を、私は忘れられないだろう。


 ヴェルサイユを離れた私は、まだ王でいられるのか。


 馬車は泥の道を進み続けた。


 答えは、パリの中に待っていた。


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