表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
ルイ16世

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/54

第10話 バスティーユの向こう側

 1789年7月、ヴェルサイユ宮殿の執務室で、私はパリから届く報告を国王として受け取っていた。


 紙の上の文字は、日ごとに荒くなっていくようだった。パンの不足。武器を求める人々。街の不安。兵の配置への疑い。ネッケルを遠ざける決定が、どれほどの波を起こすのか、私は測りきれていなかった。


 パリは近い。


 地図の上ではそうだ。だが、ヴェルサイユの窓からは見えない。見えない場所の怒りは、報告になるまで形を持たない。私はその報告を読み、考え、また次の報告を待つ。いつもそうだ。私は見てから判断したいのに、見えた時には遅い。


「陛下、パリは過敏になっております」


 側近の声が低く響いた。


「過敏、か」


 私はその言葉を繰り返した。


 民がパンを求め、武器を探し、兵を恐れる。それを過敏と言えば、こちらは少し楽になる。理性を失った者たち。噂に踊らされる者たち。そう見れば、王は秩序の側に立てる。


 だが、本当にそれだけなのか。


 彼らは何年も税を負い、パンの値に怯え、宮廷の噂を聞かされ、三部会に期待した。その期待が満たされないまま、兵が近づき、人気のある大臣が退けられたなら、彼らは何を見るだろう。


 王は自分たちを抑え込もうとしている。


 そう見えるのではないか。


 私は手を額に当てた。


「ネッケルの件は、火に油を注いだのかもしれない」


 誰もすぐには答えなかった。


 沈黙は、肯定より重い時がある。


 私は窓の外の整った庭を見た。


 この庭の向こう側で、私の知らないフランスが動いている。


 その事実が、今までよりずっと近く感じられた。


 ******


 ネッケルを退けたあと、ヴェルサイユの廊下にも不穏な音が混じるようになった。


 決定は王として必要だと説明された。大臣に頼りすぎることは危うい。王権を軽く見せる。議会と世論に押される形を続ければ、王は自分の手で判断できなくなる。そう言われれば、私はうなずかざるを得なかった。


 だが、パリの人々にとってネッケルが何を意味しているかを、私は十分に測っていなかった。


 彼は単なる大臣ではなかった。財政の信用であり、王がまだ民の声を聞く証のように見られていた。私が彼を遠ざけることは、民から見れば、その証を自分で捨てることだったのかもしれない。


 報告は次々に届いた。


 パリで人々が集まっている。演説が行われている。兵の動きを疑っている。武器を探している。


 私は書類を読みながら、胸の奥に冷たい後悔が広がるのを感じた。


「陛下、民衆は噂に動かされております」


 側近が言った。


「噂だけで人はここまで動くのか」


 私が尋ねると、相手は言葉を選んだ。


「不安があれば、噂は火になります」


 火。


 その言葉が、頭から離れなかった。火は小さいうちなら消せる。だが、どこで火がついたのか見えなければ、気づいた時には屋根裏まで燃えている。


 私はパリを知らなすぎる。


 パリだけではない。民の不安がどこで噂に変わり、噂がどこで怒りに変わるのか。その道筋を知らないまま、王として命じてきた。


 その無知が、今、私の前に戻ってきている。


 その夜、私はネッケルの名が書かれた報告を何度も読み返した。


 戻せば、王が世論に屈したように見える。戻さなければ、パリの怒りはさらに燃える。どちらを選んでも、王の威厳は傷つく。だが、その考え方自体が、もう遅れているのかもしれなかった。


 民が求めているのは、王の威厳ではなく、安心なのではないか。


 そう思っても、すぐに答えは出ない。王権を軽く扱えば、国はばらばらになる。だが、王権を守るために民の不安を軽く見れば、やはり国はばらばらになる。


 机の上の蝋燭が短くなっていく。


 私は紙の端に指を置いた。


 かつて、私は錠前の仕組みを見るのが好きだった。どこが噛み合い、どこがずれ、どこを押せば開くのか。今のパリにも仕組みはあるのだろう。だが、それは金属の部品ではなく、人々の記憶と怒りと飢えでできている。


 そんなものを、私は机の上で直そうとしていた。


 直せるはずがなかった。


 外へ出なければならない。


 そう思った時には、もう外の火は大きくなっていた。


 私は翌朝、パリへ向かうべきかを考え続けた。


 行けば危険がある。行かなければ、王は民を恐れていると見られる。兵を動かせば火はさらに広がるかもしれない。兵を退けば王権は弱く見えるかもしれない。どの選択肢も、すでに傷を持っていた。


 その時になって、私は三部会の時と同じ構図を見た。


 早く選ばなければならない。


 だが、早く選ぶには遅すぎる。


 私の人生には、何度もこの瞬間が来る。選択肢がまだ柔らかいうちは迷い、硬くなってから手を伸ばす。すると、どれを選んでも角で誰かを傷つける。


 私は自分の遅さに、静かに怒りを覚えた。


 怒りは珍しかった。


 だが、その怒りさえ、外へ向けるには遅かった。


 王が怒るなら、もっと早く怒るべきだったのかもしれない。


 民の飢えに。特権の鈍さに。自分の迷いに。書類の奥へ隠れた痛みに。だが私は、怒りを危険なものとして遠ざけすぎた。怒りは人を壊す。そう思っていた。けれど、正しい怒りを持てない者は、壊れかけたものを見ても手を伸ばすのが遅れる。


 パリの怒りは、私の代わりに燃えているようにも見えた。


 そう思った自分を、私はすぐに恥じた。民の怒りを自分の内面の代わりにしてよいはずがない。


 それでも、その火から目をそらすことはもうできなかった。


 王であるなら、なおさら。


 ******


 7月14日の夜、バスティーユが落ちたという知らせがヴェルサイユに届いた。


 最初に聞いた時、私は言葉の意味をすぐには掴めなかった。バスティーユ。古い牢獄。王権の影を背負う石の建物。そこが民衆に襲われ、陥ちた。


 部屋の空気が冷えた。


 報告する者の顔は青ざめていた。細かな数字や名前は、聞いている途中でぼやけた。誰が殺され、誰が逃げ、誰が武器を取ったのか。私は一つずつ聞こうとしたが、頭の中では別の問いが回っていた。


 なぜ、そこまで。


 私がそう思った瞬間、自分の考えの浅さに気づいた。


 なぜ、と問うには、私は彼らの怒りを知らなすぎた。知らないまま、王として彼らの上にいた。知らないまま、彼らに税を求め、秩序を求め、忍耐を求めた。


「これは反乱か」


 私はそう尋ねた。


 問いは口から出た瞬間、ひどく古い形に聞こえた。反乱。王に逆らうもの。秩序を乱すもの。そう名づければ、王は鎮める側に立てる。


 しかし、近くにいた者が静かに答えた。


「いいえ、陛下。革命でございます」


 革命。


 その言葉は、部屋の中でしばらく動かなかった。


 私は椅子の背に手を置いた。革命とは何か。王に対する怒りだけではないのだろう。制度そのものが動くこと。人々が、これまで当然とされてきた形を当然ではないと言い始めること。


 私の前にあるのは、ただの騒ぎではない。


 そう突きつけられた気がした。


 私は王である。


 だが、王であるという事実だけでは、もう人々を納得させられないのかもしれない。


 胸の奥が静かに冷えていった。


 ******


 数日後、私はパリへ向かうことを決めた。


 ヴェルサイユを出る前、マリーは私を見つめていた。彼女の顔には不安がはっきり出ている。パリは安全ではない。群衆は何をするか分からない。そう言いたいのだろう。


「行かなければならない」


 私は先に言った。


「危険です」


「分かっています」


「分かっていて、行くのですか」


 私はうなずいた。


 怖くないわけではない。民衆の怒りの中へ入るのは怖い。王としての威厳を傷つけられるかもしれない。命の危険さえあるかもしれない。だが、ヴェルサイユに閉じこもったまま報告だけを読んでいれば、私はまた見えないものを見ないまま判断することになる。


「彼らを見なければならない」


 私は言った。


 マリーの目が少し揺れた。


「そして、彼らにも私を見せる」


 言いながら、それがどれほど不確かな決意か分かっていた。私を見たからといって、民が安心するとは限らない。むしろ怒りをぶつけられるかもしれない。それでも、王が民を恐れて逃げているように見えれば、溝はさらに深くなる。


 マリーはしばらく黙っていた。


「無事に戻ってください」


 その言葉は王妃ではなく、妻のものだった。


 私は彼女の手を取った。


「戻ります」


 守れる約束かどうか分からない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 ******


 パリに入った時、私は初めて民衆の怒りを肌で感じた。


 人の数が多い。声が近い。ヴェルサイユの整えられた歓声とは違う。そこには熱があり、汗があり、疑いがあり、期待が混じっている。誰もが私を見ている。国王陛下を見ているのか、責任を問う相手を見ているのか、救いを求める相手を見ているのか、分からない。


 私は馬車の中で手を握っていた。


 窓の外に、顔が並ぶ。粗末な服の男、子を抱えた女、帽子を振る者、黙って睨む者。彼らは絵の中の民ではない。報告書の文字でもない。息をし、汗をかき、私を見る人間だった。


 私は彼らを知らなかった。


 その事実が、何より恥ずかしかった。


 市庁舎で、私は三色の印を受け入れた。新しい色。新しい合図。人々の前でそれを身につける時、私は王として民を鎮めているつもりだった。だが同時に、民から何かを認めてもらっているようにも感じた。


 この違いは大きい。


 王が与えるのではなく、王が受ける。


 私はそれを、はっきり言葉にはできなかった。けれど胸の奥で、何かが逆さになったような感覚があった。


 歓声が上がった。


 その声を聞いて、少しだけ安堵した。流血を避けられるかもしれない。パリと王の間に、まだ橋をかけられるかもしれない。


 けれど、歓声の中にも疑いは残っていた。


 人々は私を見ていた。


 私はようやく人々を見た。


 遅すぎたのではないか。


 ヴェルサイユへ戻る道で、その問いがずっと胸に残った。私が民を見ていなかった間、民は私をどう見ていたのだろう。善良な王としてか。遠い王としてか。それとも、自分たちの苦しみを知らない王としてか。


 馬車の揺れの中で、私はその答えを知るのが怖かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ