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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
マリーアントワネット

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第13話 逃げられなかった夜

 1791年6月20日の夜、テュイルリー宮殿で、わたしは息を殺して子どもたちの支度を見守っていた。


 逃げる夜だった。


 その言葉は、胸の中で何度も形を変えた。逃げる。救う。離れる。取り戻す。どの言葉を選んでも、足元の危うさは変わらない。失敗すれば終わる。けれど残っていても、ゆっくり終わるだけかもしれない。


 子どもたちは、すべてを理解していたわけではない。


 それが救いであり、痛みでもあった。


「静かにね」


 わたしは小さく言った。


 マリー=テレーズが頷く。ルイ=シャルルの手は温かい。わたしはその手を握りながら、これが母として正しい選択なのか、王妃として破滅の選択なのか、まだ答えを出せずにいた。


 答えが出るのを待っていたら、何もできない。


 だから進むしかなかった。


 夜の廊下は長かった。足音ひとつが大きく聞こえる。見張りの気配、暗い窓、呼吸を抑える胸。王妃の衣装ではなく、逃げる者の服をまとった自分の身体が、妙に他人のものみたいだった。


 鳥籠の扉は開いた。


 わたしたちは、そこから出た。


 ******


 テュイルリーを離れた直後、わたしは馬車に乗り込んだ子どもたちの顔を確かめた。


 眠気と不安が混じった顔。何が起きているのか、どこまで分かっているのか、わたしにも分からない。けれど、母の顔を見て安心しようとしていることだけは分かった。だからわたしは、安心しているふりをした。


「旅なのですか」


 ルイ=シャルルが小さく尋ねた。


「そうよ。少し長い旅」


「戻りますか」


 その問いに、胸が詰まった。


 戻る。


 戻らない。


 戻れない。


 どの答えも口にできなかった。


「あなたは、わたしのそばにいなさい」


 結局、それだけ言った。


 子どもは頷いた。


 嘘ではない。けれど答えでもない。母として、わたしはすでに曖昧な言葉で子どもを守ろうとしていた。


 その曖昧さが、あとでどれほど重くなるかも知らずに。


 ******


 翌6月21日、逃亡の馬車の中で、わたしは自由が思ったより重いことを知った。


 道は進んでいる。パリは遠ざかっている。見張りも群衆も、少なくとも今は窓の外にいない。なのに胸は軽くならない。むしろ、一里進むたびに不安が増えていく。


 遅れがあった。


 手筈通りにいかないことがあった。


 人の目があった。


 計画は紙の上では整っていても、現実の道には石がある。馬が疲れる。人が迷う。偶然が立ちはだかる。わたしはその一つひとつに心臓を握られる思いがした。


「大丈夫だ」


 ルイが言った。


 その言葉は優しかった。


 けれど、確信ではなかった。


 窓の外に町の明かりが見えた時、わたしは手袋の中で指を握った。見られている気がする。いや、実際に見られていたのだろう。王の顔は、硬貨にも、絵にも、記憶にもある。わたしたちは変装しているつもりでも、王家であることを完全には脱げない。


 国境で服を脱がされた日を思い出した。


 あの時も、名前を替えられれば別の人になれると思わされた。


 けれど、人はそう簡単に自分の重さを脱げない。


 ******


 ヴァレンヌで、わたしたちは止められた。


 夜の空気は冷たかった。人々の視線が集まる。疑いが形になる。確認される。名前が呼ばれる。そこから先は、すべてが遅く、そして速かった。逃げていたはずの時間が止まり、失敗だけが一気にこちらへ走ってくる。


 見破られた。


 その事実が胸の中で音を立てた。


 わたしは子どもたちを見た。怖がらせたくない。けれど、こちらの顔から何かを読み取ってしまう年齢になっている。母の強がりが、どこまで届くか分からない。


「母上?」


 小さな声。


「大丈夫よ」


 わたしは言った。


 また、その言葉だ。


 ウィーンで侍女が口にした、何も変えない言葉。自分が言う側になるとは思わなかった。大丈夫ではない。けれど、大丈夫と言うしかない時がある。


 ルイは疲れた顔をしていた。


 怒りではない。絶望とも少し違う。もっと重く、鈍いもの。王として、夫として、父として、すべての役目が一度にのしかかっている顔だった。


 逃げることは、家族を救うためだった。


 けれど失敗した瞬間、その同じ行動が、家族をさらに危険に近づけた。


 選択の代償は、選ぶ前には正しく見えない。


 ******


 パリへ戻る道で、わたしは沈黙の形を忘れられなくなった。


 沿道には人がいた。以前のような歓声ではない。怒号だけでもない。もっと冷たいものだった。見られている。責められている。王家が民を捨てて逃げたと、人々の目が言っている。


 窓の外を見ないようにしても、視線は入ってくる。


 子どもたちを抱き寄せる。


 守るために逃げた。


 そう言いたかった。


 でも、誰が聞くだろう。


 民の側から見れば、わたしたちは逃げた王家だった。説明は後からいくらでもできる。けれど信頼は、破れる時には一瞬だ。縫い直すには、時間も針も足りない。


 テュイルリーへ戻った時、宮殿は以前より狭く感じた。


 同じ壁。同じ部屋。同じ窓。


 けれど鳥籠の格子は太くなっていた。


 わたしは自分の手を見た。逃げる時に握った子どもの感触がまだ残っている。母としての選択だった。そう言い聞かせる。けれど王妃としての代償は、あまりに大きかった。


 逃げられなかった王家に、もう信じてもらえる言葉は残っているのだろうか。


 答えは、沈黙の中に沈んでいった。


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