第13話 逃げられなかった夜
1791年6月20日の夜、テュイルリー宮殿で、わたしは息を殺して子どもたちの支度を見守っていた。
逃げる夜だった。
その言葉は、胸の中で何度も形を変えた。逃げる。救う。離れる。取り戻す。どの言葉を選んでも、足元の危うさは変わらない。失敗すれば終わる。けれど残っていても、ゆっくり終わるだけかもしれない。
子どもたちは、すべてを理解していたわけではない。
それが救いであり、痛みでもあった。
「静かにね」
わたしは小さく言った。
マリー=テレーズが頷く。ルイ=シャルルの手は温かい。わたしはその手を握りながら、これが母として正しい選択なのか、王妃として破滅の選択なのか、まだ答えを出せずにいた。
答えが出るのを待っていたら、何もできない。
だから進むしかなかった。
夜の廊下は長かった。足音ひとつが大きく聞こえる。見張りの気配、暗い窓、呼吸を抑える胸。王妃の衣装ではなく、逃げる者の服をまとった自分の身体が、妙に他人のものみたいだった。
鳥籠の扉は開いた。
わたしたちは、そこから出た。
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テュイルリーを離れた直後、わたしは馬車に乗り込んだ子どもたちの顔を確かめた。
眠気と不安が混じった顔。何が起きているのか、どこまで分かっているのか、わたしにも分からない。けれど、母の顔を見て安心しようとしていることだけは分かった。だからわたしは、安心しているふりをした。
「旅なのですか」
ルイ=シャルルが小さく尋ねた。
「そうよ。少し長い旅」
「戻りますか」
その問いに、胸が詰まった。
戻る。
戻らない。
戻れない。
どの答えも口にできなかった。
「あなたは、わたしのそばにいなさい」
結局、それだけ言った。
子どもは頷いた。
嘘ではない。けれど答えでもない。母として、わたしはすでに曖昧な言葉で子どもを守ろうとしていた。
その曖昧さが、あとでどれほど重くなるかも知らずに。
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翌6月21日、逃亡の馬車の中で、わたしは自由が思ったより重いことを知った。
道は進んでいる。パリは遠ざかっている。見張りも群衆も、少なくとも今は窓の外にいない。なのに胸は軽くならない。むしろ、一里進むたびに不安が増えていく。
遅れがあった。
手筈通りにいかないことがあった。
人の目があった。
計画は紙の上では整っていても、現実の道には石がある。馬が疲れる。人が迷う。偶然が立ちはだかる。わたしはその一つひとつに心臓を握られる思いがした。
「大丈夫だ」
ルイが言った。
その言葉は優しかった。
けれど、確信ではなかった。
窓の外に町の明かりが見えた時、わたしは手袋の中で指を握った。見られている気がする。いや、実際に見られていたのだろう。王の顔は、硬貨にも、絵にも、記憶にもある。わたしたちは変装しているつもりでも、王家であることを完全には脱げない。
国境で服を脱がされた日を思い出した。
あの時も、名前を替えられれば別の人になれると思わされた。
けれど、人はそう簡単に自分の重さを脱げない。
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ヴァレンヌで、わたしたちは止められた。
夜の空気は冷たかった。人々の視線が集まる。疑いが形になる。確認される。名前が呼ばれる。そこから先は、すべてが遅く、そして速かった。逃げていたはずの時間が止まり、失敗だけが一気にこちらへ走ってくる。
見破られた。
その事実が胸の中で音を立てた。
わたしは子どもたちを見た。怖がらせたくない。けれど、こちらの顔から何かを読み取ってしまう年齢になっている。母の強がりが、どこまで届くか分からない。
「母上?」
小さな声。
「大丈夫よ」
わたしは言った。
また、その言葉だ。
ウィーンで侍女が口にした、何も変えない言葉。自分が言う側になるとは思わなかった。大丈夫ではない。けれど、大丈夫と言うしかない時がある。
ルイは疲れた顔をしていた。
怒りではない。絶望とも少し違う。もっと重く、鈍いもの。王として、夫として、父として、すべての役目が一度にのしかかっている顔だった。
逃げることは、家族を救うためだった。
けれど失敗した瞬間、その同じ行動が、家族をさらに危険に近づけた。
選択の代償は、選ぶ前には正しく見えない。
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パリへ戻る道で、わたしは沈黙の形を忘れられなくなった。
沿道には人がいた。以前のような歓声ではない。怒号だけでもない。もっと冷たいものだった。見られている。責められている。王家が民を捨てて逃げたと、人々の目が言っている。
窓の外を見ないようにしても、視線は入ってくる。
子どもたちを抱き寄せる。
守るために逃げた。
そう言いたかった。
でも、誰が聞くだろう。
民の側から見れば、わたしたちは逃げた王家だった。説明は後からいくらでもできる。けれど信頼は、破れる時には一瞬だ。縫い直すには、時間も針も足りない。
テュイルリーへ戻った時、宮殿は以前より狭く感じた。
同じ壁。同じ部屋。同じ窓。
けれど鳥籠の格子は太くなっていた。
わたしは自分の手を見た。逃げる時に握った子どもの感触がまだ残っている。母としての選択だった。そう言い聞かせる。けれど王妃としての代償は、あまりに大きかった。
逃げられなかった王家に、もう信じてもらえる言葉は残っているのだろうか。
答えは、沈黙の中に沈んでいった。




