第6章 拓と瞳、光莉の章 第9話【帰還——光のなかへ】(拓と瞳の視点)
旅立ちから十年、光莉が我が家の玄関のドアを開けた。
「お父さん、お母さん、ただいま」
そこに立っていたのは、かつての頼りない少女ではなく、数え切れないほどの夜を越え、他人の人生の重みを背負ってきた、すっかり大人の、気高き女性の顔つきになった光莉だった。
けれど、その真っ直ぐな瞳だけは――あの産房の月明かりの下で、拓の人差し指をぎゅっと握りしめてきた、幼い頃と変わらない、一点の曇りもない澄んだ目だった。
拓は、胸がいっぱいで何も言えなかった。瞳も、涙が溢れて言葉にならなかった。
光莉は、昔のように少し照れくさそうに笑った。
「久しぶりだね。私、ちょっとは変わったかな?」
「……変わったな」
拓が、震える声でようやく絞り出した。
「でも、その目だけは……昔のままだ、光莉」
光莉は、本当に嬉しそうに、少女のように破顔した。
リビングのいつもの席に彼女を通し、三人で夜が更けるまで、久しぶりの、本当の意味での対話をした。
光莉がこの10年で歩いた道のり、出会った人々のこと、考えてきたこと。そして――彼女が旅の総決算として、一冊の冊子を編み上げたこと。
「お父さん、お母さん。これ、二人に最初に読んでほしいんだ」
光莉は、使い古されたバッグから、丁寧に手作りで製本した冊子を取り出し、テーブルに置いた。
表紙に刻まれたタイトルは――『彼女の継承者』。
拓は、その本を両手で受け取った。手の平が、小刻みに震えていた。
「光莉、これは……」
「お父さん、お母さん。私はこの十年で、たくさんの過去に触れてきた。純さんにも、康介さんにも、Eさんにも、沙織さんにも。みんな、自分だけの絶対に譲れない『核』を持って、真摯に生きていた。……お父さんも、お母さんも、全く同じ。私を守るために、二人が命がけで隠し、私を育ててくれたその核の美しさを、この本に書いたの」
瞳が、耐えかねたようにテーブル越しに光莉の、少し硬くなった手をぎゅっと握りしめた。
「光莉……本当に、ありがとう。……私たち、あなたにちゃんと大切なことを話せていなかったのに。ずるくて、弱くて、隠してばかりの親だったのに……」
光莉は優しく首を振り、母の手を握り返した。
「お母さんは、私が二十歳になった時、何もかも隠さずに話してくれたよ。私にとっては、それだけで十分すぎるくらい。……あとは、私が自分で考えて、自分で理解するだけ。それが、二人の娘である私の、やり方だから」
その夜、三人は何でもない、けれど奇跡のように穏やかな夕飯を食べた。
10年の空白を埋めるような、箸の音、他愛のない笑い声。かつて世界から晒され、隠れるように生きてきたこの家の中に、今、確かな「光」が満ちていた。
第9.5話「次の旅へ」(光莉視点)
実家に戻ってから、半年が経ち、季節が再び巡った頃。
光莉は、再び二人の前で、バッグを肩にかけながら「また旅立つ」と告げた。
今度は、もっと遠く――自分の『生きる』を確かめるための旅へ。
「お父さん、お母さん。今度の旅は、ちょっと長くなるかもしれない」
瞳は、寂しさを隠すように、けれどどこまでも誇らしげに微笑んだ。
「わかったわ。気をつけて、行ってらっしゃい」
「お母さん……」
「私たちは、何があっても、ずっとここにいるから。あなたがいつか、疲れた時に帰る場所は、いつでもここにあるからね」
光莉の目に、きらりと涙が浮かんだ。
「ありがとう、お母さん。……お父さんも」
拓は、何も言わなかった。
ただ、一歩前に進み、光莉の差し出した手を、大きな掌でそっと包み込んだ。
その手の温もりだけで、父のすべての愛と祈りが、光莉の胸の奥へ静かに沁み込んでいった。
その最後の夜、光莉は自分の部屋で、出発の準備を整えていた。
引き出しを整理していると、奥底から、子供の頃に描いた一枚の拙い落書きが出てきた。歪な線で描かれた、家族の似顔絵。拓と瞳と、小さな自分。三人で手を繋いで、笑っている。
その隣には、読みかけの古い文庫本、旅の計画を書き殴った古いメモ。
光莉は少し考え、机の上の白紙の便箋を一枚引き寄せると、ペンを握り、静かに、一文字ずつ書き記していった。
『お父さん、お母さん。見ていてね。私も、どこかでずっと見ているから。』
『二人の、あの不器用な視線こそが、私の物語の始まりでした。』
『いつか、また。』
『――光莉』
彼女はその便箋をそっと折り畳み、家族の似顔絵の落書きのすぐ隣に置き、引き出しを静かに閉めた。部屋の電気を消し、使い慣れたバッグを背負って部屋を出る。
朝日が差し込む玄関では、父と母が、10年前と全く同じ佇まいで待っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
光莉は、今度も振り返らずに、新しい一歩を力強く踏み出した。
背中に受ける、父と母のあの暖かな視線は、彼女の未来をどこまでも照らし出す、永久の燈台の光だった。
(これが、私の、次の物語の始まりだ)




