プロローグⅠ
「はぁ、嫌になってしまうわ。次から次へと、本当に頭の痛いこと……!」
吐き捨てたのち、夫人は重い吐息をついた。
かたわらに控えていた中年の侍女が、その様子を心配そうに眺めていた。やや慌てた手つきで、彼女は夫人のためのお茶の支度に取りかかる。
絵付けの菫がひかえめに咲く、白いティーポット。なかの葉が十分に蒸れるのを待って、湯気の立つ細口を静かに傾ければ──おなじ柄のカップに黒く澄んだ茶がそそがれていく。
物言わず、テーブルの上に差し出される。
ソファに身を沈ませ、客間の天井をやるせなく仰いでいた夫人は、ふと置かれたカップへと視線を落とした。
お茶に、老いた女の顔が浮かんでいた。
ほかでもない、自分自身の顔である。
今年で四十半ばになる。老けてきた自覚は以前からあった。ただ、ここ最近の心労の積み重ねにより、なんだか皺と白髪がいっそう目立ってきたような気がした。
(……まるで老婆ね)
もし、このままぼけてしまえたら、どれほど幸せだろう。
そんな悲しい空想にさえ、浸るいとまもないのだから貴族はつらい。
夫人は「ありがとう、リサ」と、侍女の名とともに労いをかけた。気取られないよう姿勢を正して、カップの取っ手に痩せた指を絡ませる。
熱いお茶をひと口、ふくんだ。
薫りと味とがいっぺんに舌の上に広がる。偏頭痛持ちの自分のために特別に調合された、馴染みのハーブティーであった。
わずかに、夫人は安堵を覚えた。
一人でも自分の味方がいることを知ったからだ。
だがその反面で、二口、三口とカップを傾けても、しぶとく休まらない惑いのしこりも感じていた。喉元をすっと冷やす薬草の味わいが、神経を逆撫でしているようで……夫人は顔を苦くする。
(事が、事ですもの。お茶をたしなんだくらいでは、私の気持ちは鎮まらないでしょう……)
こぼれそうな嘆息を、お茶で流しこむ。
夫人はひと言「ごちそうさま」と口にして、皿ごとカップをテーブルに戻す。つい、甲高く食器の音を立ててしまったが、この際気にしないでおこう。
「アマンダさま……」
侍女の暗い声が、夫人の名を呼ぶ。
夫人こと、交易都市ドレシアを治めるイゴール・ベルベット侯爵の後妻――アマンダ・ベルベットは、侍女への返事の代わりに肩をすくめてみせた。
「昔から、貧乏くじを引かされることには慣れています。けれども、さすがに今回ばかりは気が滅入ってしまいますね……」
せせら笑いはこらえる。
あくまでも貴族らしい優美な口ぶりで、侍女との会話に皮肉を挟んだ。対して侍女のほうは「ご自身を卑下する態度はおやめください」と、眉根をきつく寄せた。
「貴女さまの悪い癖ですよ」
「…………」
「わたくしめは心配なのです。もしこの最悪な状況がつづくことになれば、先にアマンダさまのほうがお倒れになってしまわれないかと……!」
「そうはおっしゃいましても。当主であるイゴールが……」
アマンダはわざと言葉を切って、「領主の仕事以外が、てんでアレな彼がですよ?」と念を押すようにつけ加えた。
「その彼が、あんなにも酷い有様ですもの。余計な気をつかわせて申し訳ないけれど……はたしてこの家に関わる人間のなかで、私以外の誰がまともに動けるというのでしょうか?」
そのとき、客間のドアをノックする音が聞こえた。
室内からアマンダが促せば、年の若いメイドがおずおずした様子でドアを開ける。
その若いメイドは給仕用ワゴンを押していた。ワゴンの上には思わず白目を剥いてしまいそうな、手紙の山が築かれているではないか。
「仕事が尽きないというのも、見方を変えれば退屈しないでいいのかもしれませんね」
山を前に、アマンダはぼやいた。
若いメイドは困った顔をしながら「奥さま、じつは手紙のほかにも……」と言いかける。すかさず、アマンダが先手を打つように口を出した。
「今日もまた大勢の方々がいらしているの? この館の門の前に?」
「えっ。ええ、はい……。身なりの整った方もいらしゃれば、商人や使いの者……ただの興味本位で覗く街の方たちまで、ずらりとおそろいです。
家の者は出られないと、再三くり返しているのですが……どうにも引く気配が見られません。いかがすればよいでしょうか?」
まだ夕べでもないのに、すべての部屋のカーテンを閉めている理由がこれである。
「はぁ、毎日飽きずにご苦労なこと……」
ひとまず、台車の手紙はすべて燃やすよう指示を出す。侍女リサも、若いメイドも「えっ!」と短い声を上げたが、それ以上の言葉はアマンダが視線で制した。
「いいのです。必要なのはたった一つだけ──公爵家である、シルクス家からの返事だけなのですから。
まもなく、向こうから正式な使者がやってくる手はずになっています。なので、余計な異物は不要。丁重にお引き取りをお願いしてください」
「で、ですが、奥さまっ……」
「いまは静かに喪に服したい……とでも悲しげに物言えば、大抵は遠慮して退いてくださるでしょう──」
詮索好きの愚か者以外は。
と、最後の台詞は頭のなかだけにして、アマンダは若いメイドにそう指示した。やや納得していない顔のメイドであったが「承知しました」と、素直にワゴンごと客間から下がっていった。
▼気に入ったエピソードには、ぜひ【リアクション】をお願いします。執筆の励みになります!




