幼き日の誓いⅢ
「わたしの父と母と名前を教えて?」
「父君はアンフィル国の侯爵、イゴール・ベルベット卿。母君は卿の正妻、フィア・ベルベットさまです」
「お父さまのことを訊きたいわ。ねぇ、鏡よ、鏡……わたしがお父さまと前にお会いできたのは、いつの頃だったかしら?」
「半月前でございます」
「…………」
「船の商人たちとの会食に要される衣装を取りに、こちらの館へほんの短い時間だけお立ち寄りになられました」
「……鏡よ、鏡。その前は?」
「ひと月前になります。園芸好きの伯爵夫妻が街にいらした際、庭の薔薇を見せるために」
「……その前は?」
「飛んで、春の終わり頃。およそ三カ月前になります」
少女の目を通して、この他愛のない遊戯を眺めながら、わたしは昔を思い返していた。
侯爵家の主である父は、わたしが物心ついた頃から仕事に掛かりきりの人であった。この館は一応、ベルベットの家の由緒ある住まいであるはずなのだが、父はもっぱら街の中心地にある別館を根城にしている。当人曰く、仕事と私事ははっきり区別しておきたいのだとか。
お会いすることが叶うのは、一年の間でも指折り数える程度。たとえ会えたとしても、その態度はそっけなく、磁器の皿に絵付けされているような温かな家族像とはおよそかけ離れた関係であった。
この頃のわたしは、さびしがり屋だった。
母はおらず、父に相手にされず、不安で悲しい日々を送っていた。しばらくすると、すんと鼻をすする音が聞こえてくる。
「……つ、次は? ……ねぇ、お父さまは次、いついらしてくださるの?」
じんわり水気に歪んだ視界のなかで、少女が問いかける。鏡――もとい、従者のディオスは「本日です」と、淡白に述べた。
「本日の午後、夕食の席にご参加される予定でございます」
また、鼻をすする音が小さく響く。
鏡のなかの少女は、顔つきこそ毅然とした態度でこちらを見つめ返している。しかし、その青い瞳にはすでに水がたっぷり溜まっていた。
水をこぼさぬよう、まばたきをこらえて、少女は両まぶたとも大きく見開く。しゃっくりが出始めたのか、口をはくはく震わせて慎重に呼吸のタイミングを計っていた。
「鏡よっ、……か、がみ……」
「…………」
「今日は……なにかのっ、記念日かしら? 誰かの、誕生日? 季節のっ……祝いの日? それとも……」
「先日、ベルベット卿が再婚なされたお相手、アマンダ・オックス――いえ、アマンダ・ベルベットさまがお越しになる日です。本日より、連れ子のリリアさまとともに、こちらの館で一緒にお住まいになられます」
フィオナはぎゅっと目をつむった。
目のなかに溜まっていた水を、いったん外へ押し出したかったのだ。
……涙というのは、つくづく嫌な生理現象だ。
わたしは悲しくないと、いくら心に強く訴えかけても、それは勝手にあふれ出てくる。目にとどめておいても、そう簡単に蒸発して消えてくれないところがまた憎らしい。目元が赤く、ぐずついたままなのはみっともないから、まぶたを閉じて無理にでも水滴を追い出すしかほかないのだ。
だからけして、泣いているわけではない。
「か、かがみっ……」
しゃっくりを飲みこむ。膝の上の両手をぎゅっと強く握りしめながら、少女は質問を続ける。
「おっ、お父さまは、わたしを……わたしをっ、愛してくださっている……でしょうか?」
「わかりません」
ディオスは淡々と答えるのみだ。
「わたしは……ねぇ、必要とされている子? それとも……い、要らない子?」
「わかりません」
「新しい妻と娘が来たら、わたし……追い出されてしまうの? どこに……行けばいいの? なにを頼りにすればいいの……?」
すべての質問に、ディオスは一様にわからないとだけ口にする。仕方がない、本当に『わからない』のだから。父の心中など、ディオスが察する術はない。ゆえに、彼は正直に質問に答えたまでだ。
「わかりま――」
「わからないじゃだめなのよっ!」
ついに少女の感情が爆発する。
激高のひと声とともに、髪を梳くディオスの手を鋭く払った。強烈なはたきに、黒袖の手からすり抜けたブラシが宙を飛び――数秒後、床の上に些末な物音を鳴らした。
惨めな気持ちが募り募って、とうとう少女は大声で泣き出してしまった。鏡台の上に頭を伏せて、くぐもった嘆きを母の私室に響かせる。
薄暗い視界のなかで、わたしは過去の自分に同情を向けた。
なんて哀れで無力な幼少期か。
実の父親からの愛情が不確かで、ある日、代用品が現れたとなれば、自身は見捨てられたのだと悲観するのは当然だ。館の居残れたとしても、継母たちに虐められるかもしれない。恐ろしく悲しい運命が待ち受けているという不安ばかりが、少女のか弱い身と心を蝕むのであった。
しばし泣き声が続くなか、やがて部屋の外が慌ただしくなる。「アマンダさまの馬車がお着きになったようです」と、勘づいたディオスが伝えるも――彼は彼で、やっぱり無感情な声色であった。
「立てますか?」
「…………」
訊ねて、おそらくまた手を差し伸べてくれたのだろう。しかし、少女フィオナは伏せったままの状態で頭を横に振る。
このまま、終いまで鏡台にしがみ続けるつもりだろうか。と思いきや、やはり幼くとも彼女はわたしだ。まだ少なからず、プライドが残っていたらしい。
泣き虫の令嬢はゆっくりと、鏡台から身を起こした。上等な服だということも忘れて、袖を使って濡れた目元をぬぐう。いま一度鏡を覗き、赤くなった自身の目を見つめて、深呼吸……それから椅子の上で体を反転させた。
もう鏡は見つめない。
その代わりに、従者の少年のほうへ向く。
「ディオス・シュス」
と、彼のフルネームを呼ぶ。察しのいい少年はその場で片膝をついた。
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