幼き日の誓い Ⅰ
暗い、冷たい……なにも見えやしない。
わたしはいったい、どこにいるのかしら?
顔の前をなにかが塞いでいる。それはひらひらと薄くゆらいでいるようで──そう、舞台の幕のように、わたしの視界を闇に閉ざしていた。
幕の割れ目、縦に伸びた隙間から白い光がこぼれている。わたしは思わず、空を掻くように手を伸ばした。
もちろん、暗闇のなかでは手の形どころか、体の輪郭線もたどれやしない。すっかり闇に溶けてしまっていて……本当に、自分という存在があるのかも、あやふやになっていた。
それでも、ひしと張りついた寒気がわたしという形を自覚させる。同時に、切実な願いをも湧き上がらせた。
ここは真っ暗で、とても寒いの。
だからお願い、どうかわたしにもその光の一片をわけてくださらないかしら?
光と熱を求めて、わたしはさらにぐっと手を伸ばす。まるで水のなかを漂っている気分だ。ゆっくりと、腕の付け根から指の関節が伸びるまでの一連の動作が……あぁ、ひどく重たい。
ここで一つ、違和感を覚えた。
いつもより腕が短い気がする。
光に近づいていくことで、うっすらと闇のなかに体の輪郭が浮かび上がるのだが……その左右の手の形が、どうしても自分自身のものではないと感じてしまった。
ひとまわりも、ふたまわりも、ずっと小さな手。
まるで穢れを知らない、無垢な手……子どもの手……。
幕の白い線のなかに、指がすっと入った。
森の茂みを掻き分けるよう、幕を──いえ、閉じたカーテンを幼子の手が左右へ開いていった。
* * *
シャッと、軽やかな音が響く。
同時に、待ち望んでいた光がわっと押し寄せてきた。瞬間、視界が細く狭まったのは、光線のまばゆさに耐えられなかったせいだろう。
閉じていたカーテン。
その向こうにあったのは、両開きの小さな窓であった。
少し奥行きのある出窓で、木枠に曇りのないガラス板がはめられている。光に慣れたのか、細まっていた視界が徐々に広がっていった。
開けた視界に映る光景に、わたしは胸の痛みを覚えた。懐かしかったからだ。そして、どうしようもなく切なかった。
……おそらく、この光景を瞳に映している小さな手の主もおなじ気持ちなのだろう。丸い目を一生懸命に見開いて、この窓から見える景色を心に焼きつけようとしている。
その様子が、ガラス板にうっすら反射していた。
透明な、六歳くらいの幼い少女が映っている。少女は、わたしもよく知る人物である。だからこそ、この胸の切なさも十分に理解しているつもりだ。
窓の下には、街の家々の屋根が一面に広がっている。ところどころに段差をつくって、家屋の隙間から見える道と人々の往来が目を楽しませてくれた。
その向こうには、街の港が見える。停船している白い帆を張った船の一団が波風にゆれるさまを眺めるのは、なかなかに飽きが来ない。遠目から出帆と帰港の瞬間を捉えるのは、いくつになっても心が湧くものだ。
さらに遠く、波立つ海洋が続いている。照りつける日の光を返して、海面が白くきらめくさまは宝石のように美しい。その上を、かもめの影が飛ぶものならば、わたしは時を忘れて、目で追いかけ続けることだろう。
欲しがりさんの手がまた伸びる。
今度は両開きの窓を押し開けて、風を招き入れるつもりらしい。
ところが、少女の体では身長がいまいち足りない。腕を思いきり伸ばしても、ようやく指先が木枠に触れるか触れないかといったところだ。
少女は意固地になって、かかとを浮かせた。不安定なつま先立ちの姿勢を取って、窓台へと身を乗り出す。無理やりにでも自分の手で窓を開けようと、可愛らしくうなった。
──そこへ、横から別の手がすっと伸びる。
震える少女の指先よりも先に、その黒袖の手が片側の窓を押し開けてしまった。
きっとその手は、少女が窓を開けるのを手助けしたかったのだろう。けれど、幼い子どものやわらかなプライドにいささか傷をつけたのも事実で……もう片方は譲らないとばかりに、少女が勢いよく窓台の奥へぐっと身を乗り出した。
つま先が浮く。そのまま、少女の手が乱暴にはたくよう片側の窓を開けた。
勢いあまって、大きく開けすぎてしまったようだ。
ここは――この部屋は、街の屋根を見下ろせるくらいの高所に位置している。窓を開けた瞬間、荒々しい風がぶわりと室内に押し寄せてきた。
突風にまた、視界が細くなる。
おまけに少女の長い髪がしなやかな鞭のごとく顔中を引っぱたくものだから、たまらず彼女は身をちぢこませた。
浮いたままのつま先がふらふらゆれている。姿勢を安定させる重心が見つからず、パニックになった少女は窓台へ必死にしがみついた。
そこへ再び、救いの手が差し伸べられる。
黒袖の手の主だ。
さっと少女の背後へとまわると、その腰に腕をまわして小さな体を抱え上げる。まずは彼女を窓台から引き剥がした。
次に抱えたまま、自身の体を器用にひねる。背中を窓辺へ向けて、自らが風よけとなった。最後に正面──そっと、少女の体を床に下ろした。
当たる風が弱まり、少女はまばたきをする。
逆光を背にした薄暗い顔が瞳に映った。
背丈がほんの少しばかり高い、黒髪に黒服といったカラスの装束でも身にまとったかのような少年がそこにいた。
こちらも、わたしにとって馴染みの深い人物であった。身近な記憶よりもずっと、彼は幼い姿をしている。
頼りない朴念仁のくせに、いつだって彼はわたしのそばに仕えてくれた。
「フィオナさま。お怪我はありませんか?」
名を呼ばれる。
わたしはその少年──もとい従者の名を、返すように口にした。
「ディオス」
発せられたのは自分の声ではなかった。跳ねっ返りの高音、小鳥のさえずりのような声音……。
幼き少女の声である。
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