医務室の伝説
腰をとんとんと叩きながら歩いた廊下では、城を三年も離れていたというのに幾人もがマイヤに向かって声をかけてくれた。同じメレヴァイク院出身の知人もあちこちにいて、こっそり立ち話もしつつ。ベルザスではないが、自分のことを覚えてくれている人がいるというのは嬉しいものだ。
そうして慣れた足取りで医務室へと向かい、ドアをノックして入る。そこは天井が高いというのに全てをかき消すような強い消毒液の匂いで充満していて鼻腔を刺激してきた。記憶の中の医務室と全く一緒で、懐かしさで目まで刺激されてしまう。何台ものベッドの前にいくつか机が並べられているのも記憶のままで、ただ、今机の前に座っているのは一人しかいなかった。
「ごめんなさいねー。今みんな出掛けててさ。ここで済ませられるなら看るけど、緊急でないなら呼び出しは勘弁して欲しいなー」
凛とした涼やかな声の女性。机に向かってペンを走らせており、こちらを見ずに言う。
「湿布を頂ければと思って。できれば多めに」
「ああー、湿布くらいなら平気。多めにはあげられませんが」
ここでやっと、女性は机から顔を上げてマイヤを見た。朽ち葉色の髪をすっきりと一つにまとめた、つり目が印象的な、いかにもな才女といった白衣を着た女性。
「……見ない顔だね。失礼だけどお名前は」
「マイヤ・メレヴァイクと申します。本日こちらに到着しましたルーデロイ公付きですので……」
「あーそりゃ見ない顔に決まってるわ。失礼しました。アタシはアナ・ソースターって言います。ルーデロイ公がいらしたとぼんやり聞いてます。お疲れ様です」
アナにとってマイヤが見ない顔なのだから、マイヤにとってもアナは見たことがない顔だ。おそらく、城を離れている間に侍医となった人間なのだろうな、と棚の中をごそごそと探るアナの姿を見て思う。
「で、なんで湿布? 捻挫? 看に行こうか?」
「馬車の時間が長かったので腰がだるくて。とりあえず湿布があれば事足りるとルーデロイ公が」
「そんなに湿布必要?」
「……わたしも使いたいので。だめ、ですかねぇ」
アナが棚から視線をマイヤに戻し、顎を掻く。
「個人的には差し上げたいんだけどね、湿布とか薬、何を誰にどれだけ使ったか帳簿に書かないといけないわけよ。ルーデロイ公分でちょろまかせるくらいなら出せるけど、申し訳ないけど替えの利く侍女に薬をたくさん出せるかっていうとさぁ……」
「ハイ! わたし【銀の匙】です! お調べ頂いたらわかります! 特殊技能持ちなので頂けないでしょうか!」
マイヤの言葉にアナが目を丸くして、そうしてからバシバシとマイヤの背を叩いた。
「あーハイハイハイハイ! なんだよソレ早く言ってよー!! 替えがなかなか利かない職業なんだから湿布くらい出しますって! ちょっと待ってねー。さっきお伝えした通り、面倒なんだけど帳簿を残さなくちゃいけなくってね。ごめんもう一度お名前を」
「マイヤ・メレヴァイクです」
「そうだったマイヤ・メレヴァイクマイヤメレヴァイク……。マイヤ、マイヤ・メレヴァイク?!!」
親しげに背中を叩いてきたと思ったら、今度は急に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄られ、しかも顔は少し迫力を帯びていて、マイヤは驚きに心臓をきゅっと縮めてから後ずさる。
「えっはい。そうですけど何か……?」
「あーそっかそうだ今日来たのってルーデロイ公かぁ! で、あなたがマイヤ・メレヴァイク! 【銀の匙】の! へー! まさか会えると思ってなかったどうも!」
「ど、どうも。よろしくお願いします……」
「いやいやぜんぜんよろしくないわけよ!」
「え、ええぇ……?」
「だってそーでしょアナタ! 薬持ち出す為にねぇ、このめちゃくちゃ面倒な帳簿書かなきゃいけなくなった原因なんですから! 張本人!! それがアナタとルーデロイ公! そうでしょ?!」
「は、ハイ。そうと、そうと以前に伺った気がします……」
アナの声色は明るくなったが声の迫力はそのままだったので、マイヤは顔をひきつらせた曖昧な表情で続ける。
「あぁーその、本当にすみませんでした……」
「そうだよ全く。まあいいや。ね、湿布出すからちょっと聞かせてよ。もはやこの医務室での伝説だから。『鎮痛薬事件』の話」
「いやあのちょっと、そんな特に話すようなこともありませんし……」
「あなたのせいで書式がクソ面倒になったのに?」
「申し訳ありません喜んでお話します!」
食いぎみににじり寄るアナの勢いに負けて、マイヤは自身の引き起こした『鎮痛薬事件』とその顛末を伝えることとなってしまったのだった。