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エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから  作者: 坂本梧朗
1980年代

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13/110

     同上     の6

 外の騒ぎとは無縁にばあさんは一人洗い場で黙々と動いている。今は誰もばあさんに命令する者はいない。やっと自分の手に仕事を取り戻した充足感を味わうように、ばあさんはじっくりその一つ一つを遂行しているようだ。仕事を終えるまでの手順は頭に刻みこまれているはずだ。それを一通り自分の手でしなければ気が済まないのではないか。人が手伝ってその一部を代行しても、終るまでの時間に変化はないところをみると。

 元々ばあさんは人を使うことが下手で、洗い場にパートの人が入った時も仕事ぶりは一人の時と変らない。パートの人がする事がなくてぼんやりしているそばで、ばあさんが忙しく動いている。経営者から人をうまく使うようにと注意を受けるのだが、相変らずだ。仕事の能率という観念はばあさんにはなじまないようで、体を動かしていれば自然に仕事の終りはやってくる、という感じだ。

 また、ばあさんは人に注意するということが苦手だ。長く勤めているので、経営者から他の従業員への注意監督なども頼まれるのだが、引き受けはしても、結局、見ざる、聞かざる、言わざるで終ってしまう。

 おしゃべりにも飽いた仲居が、厨房のノレンに頭を突っ込んで、「おばちゃん、帰るよ! 」と急き立てる。洗い場をはい回りながらばあさんは鈍い返事をする。あまり急かせると、ガスの元栓を閉め忘れたり、裏口のドアの施錠を忘れたり、という事態が起きる。だから急き立てるにも程が要る。

 仲居達が早出をした日には、店を閉めた後食事をさせる。配膳台を食卓にして食べ始めた仲居が、洗い場で動いているばあさんに「おばちゃん、食べようや」と声をかける。ばあさんは「はあ」という返事だけして、そのまま仕事を続ける。意外な申し出を受けたという返事の仕方だが、実は仲居達が食べる時には、ばあさん達炊事婦も食べることになっている。仲居には、ばあさんを早く食べさせなければ、それだけ待つ時間が長くなるという計算がある。いつだったか、片付けが終って、さあ送っていこうという段になって、ばあさんの食事が始まったことがある。そんな時ばあさんは「遅くなって悪いね」と仲居達に言いながらも、食べずに済ますということはないのだ。「おばちゃん、先に食べり。遅くなるから」仲居がくり返して言うと、「はあ」それでは、というようにばあさんは仕事をやめ、配膳台にやってくる。

 料理の残り物が多く出た日や、結婚披露宴などで生花がたくさん残されたときなど、女の従業員が分配して持ち帰ることがある。仲居達の分配が終ってしまったところへ、ようやく仕事を終えたばあさんがやってきて、自分の分を包み始める。仲居達は必ずばあさんの分を残しておくし、食事の場合でもそうだが、こんな時ばあさんを急かせることはない。ばあさんはばあさんで、仕事が遅くなるからと経営者に何度言われても、下がってきた料理から手の付いてない物を取っておいて、仲居にやったり、自分で持ち帰ったりする習慣をやめない。

 結局この世ではこう生きる以外にないではないか、夢でも理想でもなく、現実の地を這うだけしか――。ばあさんを見ているとこんな低い呟きが聞こえてくるように思う。私はそれに反発したい。だがばあさんを家まで送っていって、ヨタヨタと助手席から降りた彼女が、ドアを閉めながら、「どうもありがとうございました」と十年一日の如く(しわが)れ声を張り上げる時、今日もばあさんが勝ったんだ、という思いが浮かぶ。


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