悪の女幹部ブラックウィドウさんは、アコードなんかじゃなくてラパンに乗りたい。
悪の女幹部ブラックウィドウの朝は早い。
目覚まし時計の音で目覚め、まだ日が昇る前に軽い朝食と身支度を済ませる。
メイクはあくまでもナチュラルに、長い髪ハーフアップと決めている。
スープジャーに春雨スープを入れ、鮭フレークと実家から送ってきた梅干しのおにぎりをそれぞれ作り、町外れの峠にある採石場跡地まで、家から30分かけて車で出勤する。
乗っている車は、ホンダのアコードだ。
カラーはもちろん、ブラック。
それ以外の色は許されない。
先月に悪の女幹部になる前は、中古のラパンに乗っていた。
コフレピンクで、一目惚れしてバイトを掛け持ちして、やっとの思いで手に入れた愛車----。
が、悪の女幹部はピンクのラパンになんぞ乗らんだろ! という総帥の一言で、型落ちのアコードに勝手に替えられてしまったのだ。
おかげで、それまで使えていたアパートの駐車場のスペースから思い切りはみ出す事となり、大家にクレームが入った結果、家から5分歩いた月極駐車場を自腹で借りる羽目になった。
「若いうちからこんなデカいセダンに乗れるなんて嬉しいだろ、じゃねーんだわ……私はラパンに乗りたいの! このバカデカアコードでカーブ曲がるの、ホントめんどくさいのよね……!」
採石場跡地に通じる道は総帥の私道で、一車線しかない。
峠を下ったら小さい集落があるらしいが、そこまでの間は民家もなく、車もほとんど通らないどころか、スマホの電波も届かない。
(こんな場所で事故ったら救急車も呼べないし、やっぱりスターリンクの契約したいな……でも、お金かかるよね……奨学金の完済までは我慢するしかないか……)
最盛期には石を積んだダンプカーが毎日走っていただろう道路のアスファルトは、もう何十年もひび割れたままで、晴れた日には西部警察並みに土埃が舞い上がる。
「はぁ……先週洗車したばっかなのに……」
ヘアピンカーブを延々上りながら、私は今日最初の溜め息をついた。
窓を閉めていても、喉がイガイガする。
ウォッシャー液もバカにならない。
ワックスをかけてもすぐに細かな傷が付く。
ベチャッ!
フロントガラスに鳥のフンが落ちてきた。
「最悪……」
採石場が閉鎖されて半世紀。
悪の秘密結社の基地の背後の山々には木が生い茂り、今や野生動物の楽園と化していた----。
「……帰りたい」
今日は20日の締め日だ。
請求書に引き落とし、経費の精算----。
「20日までにお振込み下さい」と書かれた振込用紙を20日の当日に持って来る怪人----。
どう見ても間違えている郵便番号が書かれた脅迫状を、明日までに届けて欲しいと言う怪人----。
今日も、嫌な予感しかない。
(ああああ! もう! 全員並べて爆破してやりたい!!)
残業でもしようものなら、帰りは暗闇の中を猪に怯えながら、ガタガタの坂を低速で下り続ける事になる。
家に着く頃は足が筋肉痛だ。
戦闘で筋肉痛になるなら、まだ分かる。
通勤で筋肉痛になる女幹部って、全国で私くらいだろう。
まず、悪の女幹部というものが全国に何人いるか知らないけど----。
(いっそガードレールにでもぶつけたら、またラパンに戻れるかな……でも、転職とか考えたらゴールドは絶対維持したいし……)
そう、私は転職したい。
アコードに替えてから、明らかに近所の人達から距離を取られているのを感じるのが、辛い。
通勤の格好は、結社に入る以前のままなのだが、以前は元気良く挨拶してくれた近所の小学生男子が、車がアコードになってからは、目が合うと逃げるように走って行ってしまう。
一般道に出れば、法定速度を守って走ってるのに、日差しに目を細めてハンドルを握っているだけで、煽ってると勘違いされる。
前の車の後部座席の子供がこっちを見ながら大泣きしてるのは、珍しくない。
(仕方なくサングラスをかけたらかけたで、何もしてないのにパトカーに停められるのよね……)
そもそも、いくらアコードの車内が広かろうが、5人乗れようが、運転しているのは、女幹部の私自身なのだ。
専属の運転手を付けろなんて言わない。
せめて、勤務時間中ではあるけど女幹部のコスチュームじゃなくて、一般市民の格好をさせて欲しい。
まだ暑い日もあるのにロングコートを着込んで車から降りるのは不審者感マシマシで、特にお年寄りと親子連れからの視線が、痛い。
(スペースの広さなんてコストコ行った時くらいしか役に立たないし、なんなら悪の女幹部なのにコストコまで一人で買出しさせられてる事自体おかしい……大学のサークルでも、買出しは最低二人はいたよ……?)
とにかく、私はアコードじゃなくて、ラパンに乗りたい。
コフレピンクのラパンに乗って颯爽と現れる悪の女幹部がいたって、問題はないはずだ。
だって、時代は多様性なんだから----。
(いや、そもそもこんな露出の激しいコスチュームで人前に出る事自体、嫌なんだけども)
朝から数えて三回目の溜息をついた私の視界に、採石場跡地を示す赤い矢印の看板が入って来た。
斜めに傾いている上に錆で茶色く変色しているから、赤い矢印がまるでドス黒い血で描かれたみたいになっている。
毎朝見てるのに、怖い。
(……さて、今日の悪の女幹部ブラックウィドウのお仕事、始めますか)
20日の締め日も今日で二回目だ。
先月よりは大丈夫なはず----。
「今日は絶対明るいうちに帰るぞ……!」
私は秘密基地の入口目指して、アコードのスピードを少し上げる。
マフラーから爆音が轟き、背後の森から鳥達が一斉に飛び立った----。




