第1部『少年王と革命の邂逅』①
***
静寂が、石の箱を満たしている。
冷たく灰色の壁は音を吸い、時の流れすらも封じ込めるかのようだ。
灯り取りの小窓には錆びついた鉄格子が這い、その出入口の扉にも同じく格子。
——入ることも、出ることも、ここには不要だ。
閉じ込められたのは肉体だけではない。思考そのものが、ここでは試される。
ここから真に解き放たれる時が来るとすれば、それは私自身の死を意味する。
すでに理解している。敗者に訪れる結末など、ひとつしかない。
私は負けたのだ。あの『改変者』に。
——いや、レイチェル君の言葉によれば『この町の市民達に』、か。
……なるほど。あの少女は、最後まで“信じていた”というわけか。
自嘲気味に苦笑する。
この私、クリフトン・ノギニウスは彼らに敗北し、結果、この牢獄に捕えられている。
私への裁判がそう遠くないうちに開かれるが、その判決は好ましくないだろう。
我が計画のためにどれだけの人生を捻じ曲げ、殺していったのか。自分自身、その数など覚えていない。
「フッ。計画が破綻した以上、語るべき未来など無い」
終わった。そう思っていた。
だが本当は——終わらせたかっただけなのかもしれない。
全てはあの時、あの邂逅が始まりだった、か。
“ガイウス家の独裁を壊し、民主主義の完璧な政治を生み出す”
その中での己が運命との出会い。
あれが全ての始まりだった。
格子の入った小窓からは時計塔の文字盤が刻を示す。
10:45
カツ、カツ、カツ——
遠くで誰かの足音が鳴った。看守か、あるいは。
耳を澄ませながら、あの日の足音を思い出す。
——30年前。
***
30年前。
私は——いや、当時は“僕”と名乗っていたのだったな。
僕こと、クリフトン・ノギニウスは平民の出ながら“神童”と呼ばれ、18歳時には史上最年少の判事、19歳時には副判事長をすることに。
そんなに大したことではない。五法全書と判例、慣習法の全てを記憶し、即応できる。それだけのことが、何故か誰にもできなかった——ただ、それだけだ。
カツ、カツ、カツ——
「そこで止まれ。陛下がいらっしゃるまで面をあげること、まかりならん」
「ハッ」
近衛兵に指示されたまま僕はビロードの絨毯の上、膝をつき、額を床に擦るように下げ続ける。
平民の僕がわずかでも粗相をすれば、コイツらは躊躇なくその腰の得物で斬り殺すだろう。
その程度の命の安さ。
それが身分の違い——不平等。
どれだけ待っただろう。
「面をあげよ」
命に応じて視線を上げると、光がまるで舞台照明のように差し込んでいた。
その中央にいたのは、白絹に金糸が織り込まれた正装を身にまとい、栗色の髪の頭上に乗るのは小さな王冠。
色素の薄い肌と、紅玉のような瞳が、まるで絵画の中の人物のようだった。
少年王、フーギリス・クロノクル。
僅か8歳にしてクロノクル王国の国家元首——しかし、その実態は宰相エルネスト・ガイウス、ヤツの傀儡に過ぎない。
「クリフトン・ノギニウス。お前を法務省、副判事長に命ずる」
「ハハッ——有難き幸せ。謹んで拝命致します」
再び、頭を垂れる。
彼は渡された指示書の通り、この宮殿で演じているだけ。
それは僕も、周りでニヤニヤしながら拍手する貴族達も同じ。
この茶番劇を演じる道化に過ぎない……。
「……お主、若いのに副判事長になるのだな。良いぞ、褒めて遣わす」
それは、陛下の前で跪く自分にしか聞こえないほどの小声。
ハッと顔を上げると、彼は優しげに笑っていた。
人懐っこい紅玉色の瞳には好奇心の色が宿り、跪く僕自身の姿を映していた。
「朕と歳が近いのであろ。……また宮廷へ来い。市井のこと、聞きたいのじゃ」
僕と彼では11歳ほども歳が離れている。
……なるほど、他の取り巻きは更に、か。彼の世界には若者はいないのだ。
「後で使いのものをやる。期待しておるぞ」
その紅玉色の瞳は好奇の輝きを放っていた。
ああ、何を勘違いしていたのだ。あれはただの傀儡だと、ガイウスの腹話術人形でしかないと。
けれど——
あの紅の瞳は、僕を見ていた。
その笑みは、たしかに“彼自身”のものだ。
僕とフーギリス・クロノクル、クロノクル王家最後の少年王との邂逅。
——今の私、“クリフトン・ノギニウス”を形作る“始まり”だった。
***
「ほう、では海の水というのは本当に塩辛いのじゃな」
「ええ、そうです。とても塩辛いので飲めたものでは無いです。そのため、港では潮の香りや風がするのですよ」
僕の解説に少年王は驚きで目を丸くする。
「何じゃと! 風や香りすらも塩辛いのか!」
ここはクロノクル城内の宮廷。
白いガゼボの屋根には蔦が絡み、細やかな彫刻が朝の光を受けて銀のように輝いていた。噴水の水音が、まるで音楽のように耳の奥をくすぐる。
庭園の向こうには城外、中心街に聳え立つ時計塔の文字盤もはっきり映る。
時刻は、
13:15
副判事長の拝命から2週間。
まだ若い自分を気に入ったのか、少年王はしばしば僕をこの庭園に呼んでは色々なことを尋ねてくる。
本を読んだだけではわからない、その場で見聞きしないと知り得ない知識。
「皆、朕には本当のことを話さぬ……知らぬまま、ただ玉座におれば良いと申す。朕は、ただの飾り物ではない。ゆえに其方が述べる話は興味深いぞ」
まるで乾いたスポンジが水を吸うが如く、フーギリス様はあらゆる話を、経験を吸収されていた。その紅玉色の瞳を好奇心で丸くさせながら。
「陛下の耳をわざわざ汚さなくとも良き様、ガイウス様や皆様の働きのおかげなのですわ、陛下」
「市井の汚れ話など陛下の耳には毒ですわ」
側に控える侍女達の言葉に少年王は、フーッとため息をつく。
「朕は……それでも知りたい。この世のこと、色んなこと。なんでも……いっぱい」
なるほどな。僅かだが、このやり取りで直ぐに悟る。
彼は小鳥なのだ。クロノクル城という鳥籠に囚われた。
飢えることなどない。
籠の中で、甘い果実を与えられて生きていける。
だがそれは、生きながら死んでいることと、何が違うというのか。
——それは、今の腐敗政治に安寧し日々を送る我々と同じ。
「ええ、いいのですよ、陛下。自分が答えられることならば、何でも尋ねて下さい」
自然と僕の口からはそんな言葉がこぼれ落ちていた。
彼に、“空”という自由を味わわせてあげたい。
たったそれだけのことすら、ここには出来る者はいないのだ。
僕の持つ膨大な知識が、彼の“世界を識りたい”という好奇心を満たせるのなら——それで、少しでも仮初めの自由を感じれるのなら。
僕の返答を聞いた陛下は、一拍、沈黙して——
パッと顔を輝かせる。
「本当か! 良いぞ、クリフトン!」
年頃の少年らしい喜色満面の笑顔だった。侍女達が目を細めてこちらを睨むが構うものか。
「はい、何なりと」
「そうか。では……この本にある“民が主となる”とは一体、何のことなのだ?」
フーギリス様は何やら懐に抱えていた本を取り出してテーブルの上に開ける。そこに書かれていた“民主制と市民革命”の表題。
!? 一体、どこでこんな言葉を……いや、本を?
「先月、急にいなくなった家庭教師が部屋に置き忘れていた本じゃ。朕も直に部屋へ呼びに行ったのじゃが」
これは……“毒”だ。それも触れてはならないレベルの猛毒。
“いなくなった家庭教師”
宮廷お抱えの家庭教師すら市民革命への関心を持つ事に、時代のうねりが迫っていることを感じるが、ことはそう簡単ではない。
権力側の貴族達、特にその頂点であるガイウス家が認めるわけがない。
恐らくは、自身の革命活動を見張りに掴まれてしまったのだろう。そして——その見張りは、彼の代わりに家庭教師となった自分にも向けられているはずだ。
案の定、控えている侍女達が沈黙のまま片目だけを細めている。一挙手一投足を見逃さぬように。
だが——
「読んで字の如くです、陛下。“民が主に政治に参加する”制度。それが民主制です」
「民が政治をするのか? では、王はどうなる? ここには“民が主となる”とあるが、民が主になるのならば、王は民の僕となるのか?」
!?
僕は内心、息を呑んだ。
フーギリス様は既に“民主制”の仕組みについて朧げだが、理解されているのだ。この閉ざされた鳥籠の中で微かに残されたこの本から。
なんと聡明な方なんだろう。
だが、感嘆してばかりではいられない。ここはガイウス家の者が常に目を光らせている敵地。
僕に近い方の侍女は、開いた扇で手元を隠しながら、小刻みに指先が揺れている。恐らく、僕の言葉を一言一句、メモしているのだろう。
「いえ、陛下。それは違います。陛下が王として政治の中心におられながら、主にはガイウス宰相や貴族院など配下の者に任せられている様に、この“民主制”とは民にもまた政治の実際を“主に”行わせる、ということです」
陛下の理解が追いついていることを確認しながら続く内容に繋げる。
「本来なら王に集中するはずの政、民にも政治の現場に関わってもらうのです。勿論、王の意志を否定するわけではありません。……そう言えば、聞こえは良いでしょうか」
「なるほど。王は王のままに、民にも実際の政治に携わせる、ということなのじゃな」
そっと側に控える侍女達の反応を窺う。
こちらをジッと見ているが、僕の言い回しに引っ掛かることはなかったのかそれ以上の動きは無い。
「それは良き制度じゃな。ガイウス達ばかりでは常日頃、忙しそうであった。民達自身にも政治を手伝わせるのは良き案じゃ。クリフトン、其方は何でも知っておるのう。また朕に教えてたもれ」
「ハハーッ」
密かに頬を流れ落ちる冷や汗をバレ無い様にそっと拭った。
どうやら、何とか切り抜けたらしい。陛下に付き従い、宮廷へと帰る侍女達はつまらなさそうにこちらを一瞥して去っていくのだった。
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